第30話 トーキョー・ミュージックナイト
夕方になり、フロアは開場時間を迎える。前座があるタイプのライブの場合、初めからフロアが満員になることは稀だ。オオトリの時間まで徐々に埋まっていくものである。
それでも前座バンドの関係者や、単にいろいろなバンドに興味があるファンなどが早い時間から集まり、開演までの時間をバーカウンターのドリンクで賑やかに過ごしていた。
「す……すごい人の数。この間のとは、全然違います……」
まだまだこれからだと言うのに、緋音は既に委縮した様子でバックヤードからフロアを眺めていた。
「田舎の大学のライブなんて、フロアの半分も埋まれば御の字だろ。ここは違う。足の踏み場もないくらいに満員になるぞ」
涼夏の脳裏に、在りし日の光景が蘇る。満員のフロア。焼け付くスポットライト。同じくらい熱狂する観客。それらを前に、汗だくで演奏する自分たち――
「言うても、そんな状態になるのはオオトリになったころだ。あたしらの番の時には、せいぜい七割くらいだろ」
「七割で……何人くらいですか……?」
「満員で三〇〇だから、まあ二〇〇人くらいか。実際はもっと詰め込むからプラス数十人くらい足が出るだろうが」
「にひゃ――」
緋音が息を飲んで固まった。さっと顔から血の気が引いて、ふらふらとその場にへたり込む。先のデビューライブの観客が、軽音サークルの関係者やその知り合いばかりでせいぜい一〇〇人も満たない程度だ。その倍以上の人間の目にさらされるなんて、まだ心の準備ができていない。
「おい、ここまで来て待ったは無しだぞ」
「は……はい、流石にそれは……でも、足がすくんで……」
助けを求めるようにおろおろと辺りを見渡す。やがて、ネオンライトで賑やかなカウンターで目が止まると、意を決して立ち上がる。
「い、言われた通り……お酒……入れてみます……! 確かに勇気……出るかも……」
「おお。良いんじゃねーの」
「はい、行ってきます……!」
「緋音さん、ほどほどに! ほどほどにね……!?」
心配する蓮美に見送られて、彼女はびくつきながらバーカウンターへと向かって行った。かつて潰れた緋音を介抱した身としては、ライブ前にああなってもらっては流石に困る。
「私が付き添ってくるよ。昼間絡まれたのもあって心配だし」
「千春ちゃん……よろしくね?」
「まかせて」
「くれぐれも、よろしくね?」
念を押されながら、千春が緋音の後を追う。彼女に任せておけば間違いはないだろうが、それでも心配は心配だった。
残された涼夏とふたり、微妙に気まずい空気のまま、無言で埋まっていくフロアを見つめる。
「それで、掴むもんは掴めたのか?」
ぽつりと尋ねた涼夏に、蓮美は口元をもごもごさせながら首を捻る。
「結局、分からなかった……」
「この短時間じゃそんなもんだろ。前も言ったが、今は今の完成形をステージで披露すりゃいい」
「はい……」
かつては納得もできた涼夏の言葉だが、今はどうにも釈然としなかった。奥歯に何かが挟まったような、喉元で言葉が出かかっているような。あと一歩で何かが掴めそうなのに、できない。そんなもどかしさが、蓮美の心を急き立てる。
三〇分ほどが経ってライブは開演し、最初の前座バンドがステージ上で演奏を始める。女性ボーカルの男女混合バンドは、涼夏たちから見ればいくらか年上の、大人っぽい雰囲気を漂わせていた。淀みのないMCから流れるように曲へと移行する様子は、前座とは言え、素人感満載の大学生バンドのライブとは比べ物にならない。
「すごい……プロみたい」
語彙力のなさを棚に上げても、蓮美の口からはそんな感想しか零れない。
「インディーズじゃそれなりに有名なバンドだ。アキオさんのツテで出てくれたんだろな」
涼夏の解説もそこそこに、遠巻きに眺めるステージの上に魅了される。今から、あの場所で同じように演奏をするのだ。
不思議と緊張はなかった。気おくれや、委縮するようなことも。むしろ、すこしだけ楽しみにも思えている。吹奏楽を辞めて、新しく選んだステージが目の前に広がっている。
ここで、音楽をやっていい。
ひとりの音楽家として、喜ばしくないはずがない。
蓮美の頬が緩んでいるのに気づいたのは、隣でその横顔を目にした涼夏だけだ。本人すらも気づいていない。それは、これから自分の演奏を浴びせてやるっていう強気の笑み。
それを見て、涼夏もふんと鼻で笑みをこぼす。ここまで来たら、余計な言葉はもういらない。あとは、音に身を任せるだけだ。
客がステージに夢中になっている間を縫って、緋音たちがバックヤードへ戻って来た。べろべろに酔っ払ってくる可能性も覚悟した涼夏たちだったが、そこにはしょんもりと頭を垂れる緋音と、元気づけるように寄り添う千春の姿だった。
「案の定というか……男性客に囲まれちゃって、お酒を注文するどころじゃなくなっちゃって」
千春の説明で察しのついた蓮美は、諦めたように表情を引きつらせる。一方で涼夏はフロアの方に歩み出ると、辺りを巡回する店のスタッフに声を掛けてから戻って来た。
「頼んできてやったから待っとけ。忙しいから、すぐに出るもんなんでも良いっつっといたけど」
「あ、ありがとうございます……」
しばらくして、店員がトレンチに小さなグラスを持ってやってきた。雪だるま型のショットグラスに注がれた緑色の液体は、一見、飲んでいいものなのかどうか躊躇させる。
当然、緋音は手に取ったまま不安そうにグラスを眺める。
「これ……何でしょう……?」
「コカだろ。確かに気付けにゃ最適か」
「コ……カ……?」
「飲むときゃ一気にいくのが作法だぞ」
全く理解がいっていない様子だったが、背に腹は代えられない。他に飲めるものもなければ、もう一度あのカウンターに向かう勇気もない。
ぎゅっと目を瞑り、意を決してグラスを煽る。瞬間、緋音の瞳から火花が飛び散った。
「ほ、ほぉー! ほほぉー!」
緋音は目蓋をパチパチさせながら、熱々のタコ焼きでも頬張ったかのように息を噴き出す。その度にチカチカと目頭から火花が散る思いだった。
「なんか……お薬みたいな……これ、なに……?」
「はは、効くだろ。ライブハウスっつったらこれだよな」
「ひゃい……! 緋音は元気で頑張りまふ……!」
既に頬が紅潮する緋音を、蓮美と千春がハラハラした様子で見守る。面白がった涼夏が店員におかわりを要求しようとしたので、それだけは死守して代わりにお水を一杯お願いして、緋音に飲ませた。
「そろそろ準備お願いしまーす」
「おう。行くぞ」
スタッフに促されて涼夏が立てかけていたムスタングを掴み上げる。
メンバーのことは振り返らない。しかし、堂々とした背中が黙ってついてこいと口以上に物語る。それだけでメンバーの心の内から、ステージに立つ不安や緊張はどこかへ消え去っていった。
彼女が居れば、きっとどこで演奏するのも変わらない。ただ、自分たちが知らない景色へと連れて行ってくれるような、得も言われぬ信頼感。
東京での初舞台が始まる――
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