第8話 真夏の幻影
大雨の一日が過ぎると、東北にもようやく春らしい陽気が訪れた。五月の暮れ。暦の上ではとっくに夏になっているものの、本格的に夏らしさを感じられるようになるのは二ヶ月以上先のことだ。
もちろん、日中は暑いことは暑い。一方で、夜は寒いくらいに寒い。必然的に服装は、多少の暑さを我慢して春服を身にまとうか、夜の寒さを我慢して夏服をキメるか、荷物が増えるのを我慢して夜用に羽織るものを持ち歩くかを強いられる。
二日連続、学食のカフェでくだを巻く涼夏と蓮美は、まさにその両極端だ。半袖Tシャツに脱いだスカジャンを抱えるストリートな涼夏と、薄桃色のカーディガンを羽織ってガーリーな蓮美は、一見して住む世界が違う人間のように見える。
しかし、神妙な顔で交わす話題はと言えば「今日は本当に暑い」ということぐらいである。
「服装よか、飲みモンの選択に困んだよ。アイスコーヒーか、ホットコーヒーか、どっちにしたら良いんだ」
「いや……季節関係なく、好きなもの飲んだらいいんじゃないですか?」
「冬はアツシボ、夏はレーコーだろうが」
「いつの時代の人ですか。しかもアツシボ、飲み物じゃないし……私は、いつの季節でもホットが良いです」
「カンカン照りで長袖にホットコーヒーて、見てるだけで干上がりそうだ」
悪態を吐く涼夏は、アイスコーヒーを啜る。氷でキンキンに冷えたカップの表面に汗をかいていないところが、まだ春の名残として感じられた。
「てか、そういう話をしに来たんじゃなくて……!」
蓮美がテーブルに身を乗り出して涼夏に迫る。
「バンドの話するために集まったんじゃないんですか!?」
「ん? あー、まあな」
蓮美に迫られても屁の河童で、涼夏は小指で耳の穴をほじる。
「お前、耳クソとか鼻クソほじった後、指の先見るタイプ?」
「見ませんし、そもそもほじりません」
「マジかよ。じゃあ、鼻かんだ後のティッシュは?」
「知りません!」
呆れた顔で椅子に座り直す蓮美に、涼夏はほじくった後の指先に息を吹きかけて笑う。
「単なるコミュニケーションじゃねーかよ。昨日今日知り合った仲なんだから。互いのこともっと知っときたいだろ」
「バンドの話しないなら、私、帰りますよ。明日までのレポートもあるんですから」
「わかった、わかった。お前、昨日までと違って当たり強くないか?」
「人として当然の反応です。涼夏さんがデリカシー無さ過ぎるだけです」
ジトっとした視線を向ける蓮美は、すっかり温くなったホット―ヒーを煽り気味に飲む。涼夏が観念したように大げさに両手をあげた。
「つっても、特に今、話すことねーんだけどな」
「ええー」
蓮美は思いっきり軽蔑の眼差しを涼夏へ向ける。
「あの、そもそも私、バンドとか組んだこと無いので何も分からないんですけど……ジャズバンドのチームなんですか?」
「は? ロックに決まってんだろ。馬鹿にしてんのか?」
「違いますよ。でも私、サックスしかできませんよ……?」
「たりめーだろ。それが欲しくて勧誘したんだから」
「いや、だから、その……え? ええ?」
何ひとつ飲み込めない蓮美を前にして、涼夏は自分のスマホをテーブルの上に放る。画面の中では、アメリカのロックバンドが演奏している動画が、投稿サイト上で再生されていた。
蓮美は、訝し気な表情で覗き込むと、しばらくして感心したように頷いた。
「ギターレスバンド……へぇ、そういうのがあるんですね」
「あん時に言っただろ、ロックにギターはいらねぇって。ギターの代わりに、お前のサックスで行く」
「上手くいくんですかね……?」
「あたし、こういう勘はバチクソ冴えてっから」
「……ううん」
どうにも煮え切らないのは、ロックというジャンルに知見が無いばかりではないだろう。涼夏とバンドを組むこと自体は承諾したものの、具体的にどういう音楽をやるのか全くイメージがつかない。そもそも論で言えば、蓮美は涼夏の演奏を昨日のトイレの一件の分しか知らない。
これまでどんなバンドに居たのかも――
「そう言えば……サマバケ?」
「あん……?」
涼夏の目つきが一転して鋭くなった気がして、蓮美は肩を震わせる。
「その、軽音部の人が呟いてたのを思い出して……ええと、そもそも何なのかも知らないんですが」
「……調べたらいいだろ。そこにあるモンでよ」
言葉を選ぶように視線を泳がせていると、涼夏はつまらなさそうにテーブルの上のスマホを指さす。
「いやいやいや、自分の使いますよ」
「いちいち出すのめんどいだろ。パスは040120な」
「涼夏さん……そういうの、気軽に言いふらさないほうが良いですよ」
とは言いつつも、蓮美は言われた通りにパスコードを入力する。何千件と放置されたままのSNSの通知バッジに顔をしかめながらも、ブラウザアプリを立ち上げて、例の単語を検索する。
「サ、マ、バ、ケ……これだけじゃ出ないか。えっと……サ、マ、バ、ケ……バ、ン、ド……?」
二度目の検索で、ようやくそれらしいニュースサイトがヒットする。WEBの芸能ゴシップを扱っているらしいその記事には、大見出しで『女子高生バンド、突然の解散宣言!? 事務所はノーコメント』と書かれていた。
「え……涼夏さん、プロだったんですか?」
「今はちげーよ。こんなとこでフラフラしてんだ、わかんだろ」
「大学生はフラフラしてないと思いますけど」
蓮美は、気を取り直して記事に目を通す。しかし、あまり好意的なサイトではないようで、途中で読むのをやめてブラウザごと落としてしまう。
「なんで解散したのとか……聞いていいやつですか?」
「音楽性の違い」
「有り体ー。でも……涼夏さんならあり得そう」
「あ?」
「い、いえ、何でもないです」
取り繕うように首を振って、スマホを涼夏へ返す。受け取った涼夏は、それを乱暴にスカジャンのポケットにねじ込むと、背もたれに仰け反るように体重をかけた。
「一応の確認ですけど……サマバケの人たちとバンドやるわけじゃないですよね?」
「んなわけねーだろ。だったらメンバー探してないわ」
「そうですか。よかった」
「何が良かったんだ?」
「いえ、なんていうか……元とは言え、プロの人たちと演奏するのは、少し怖いというか」
「昨日、あたしと演っただろ。〝元プロ〟だけど」
「それは……事情とか何も知りませんでしたし」
「気にすんな。じきに慣れっからよ」
「慣れる……?」
「あたしは、もっかいメジャーを目指す。このバンドで」
涼夏は、仰け反っていた上半身を起こすと、テーブルの中心をトントンと指で叩く。その仕草で、蓮美は涼夏の言う〝この〟が、自分たちのバンドであることを理解した。
「え……ええっ!? そんなの、聞いてないです!」
「言ってねーし」
「じゃ、無理です!」
「即答かよ」
涼夏が呆れたようにため息を吐く。
「つっても、バンド組んだら大なり小なり目指すところは同じだろ? あわよくば事務所から声かかって、デビューできねーかなって」
「そんなこと無いと思いますけど……」
「あたしは、〝あわよくば〟じゃねぇ。狙って取りに行く」
「無理です!」
「無理なもんか。現に、〝元プロ〟と喧嘩できる演奏ができんだぞ。テメー、素質アリ」
笑いながらビシリと指さしてくる涼夏に、蓮美は頭を抱えながら俯いた。
「……演奏、認めてくれるのは嬉しいですけど」
「じゃ、決まりだな」
「勝手に話を勧めないでください……!」
食い気味に遮って、テーブルを両手で交互にパタパタと叩く。
「バンドって……他のメンバーはどうするんですか? 詳しくはないですけど、流石にベースとサックスだけじゃ形にならないですよね?」
涼夏が、反対側の耳の穴をほじりながら明後日の方向を見上げる。
「そーだな。せめてドラムは欲しいな。あと、ボーカル」
「ボーカルって、涼夏さんじゃないんですか?」
「なんであたしがボーカルやるんだよ」
キョトンとして目を丸くする蓮美に、涼夏は不機嫌そうに答える。
「聞かせてやろーか? あたしのデス・ボイス」
「な……何か知らないけど遠慮しておきます」
妙な身の危険を感じて、蓮美は甘んじて断った。涼夏は残念がるどころか、得意げに鼻を鳴らす。
「それで、アテはあるんですか?」
「んー、今んとこはねーな。ハンパなヤツに来られても困るし」
「涼夏さんが認めてくれそうなドラム……」
蓮美は、テーブルを叩いていた手を止めて考え込む。それからポツリと、言葉を溢すように続けた。
「ひとり、アテ、あるかもしれないです」
「ほう……あたしのこと満足させられるんだろうな?」
「おそらく……たぶん……私が知る中では、イチバンの子だから」
その言葉を聞いて、涼夏が愉快そうに口元をゆがませたのは言うまでもない。
そして数日後、楽器店の三号スタジオで顔合わせに集まった涼夏は、蓮美の連れて来た「ドラマー候補」を見上げて、思いっきり怪訝な表情を浮かべた。
「どーも、姉崎千春です。よろしくお願いします、センパイ」
千春が、さわやかな笑顔で涼夏を見下ろす。その表情の下に燻った確かな怒気を、無論、涼夏は知る由もなかった。
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