第5話 〝あの日〟の光景
「それで、あの人の前で演奏することになったの?」
木目調のローテーブルの一角で、ラップトップPCのキーボードに指を走らせていた千春が、手を止めてはす向かいの蓮美に視線を向ける。その表情は、どこか責めるようでもあり、呆れたようでもあった。
蓮美も同様にPCに向かう手を止めて、困ったような笑みを浮かべた。
「流れで……ほかにどうしようもなくって」
「バンドは断ったんだよね? それなのにって、本当に勝手すぎるよ、あの人」
千春が涼夏のことを〝あの人〟と呼ぶのは、別にあてつけではない。単純に、名前を知らないからだ。
「改めて私から言おうか? 迷惑だって」
「ああ……うん。でも、最後の手段にしておく」
蓮美は、歯切れの悪い様子で首を横に振る。
「これっきりで、本当に終わりにしてもらうから……今度こそ」
「できるかな。心配だなあ。蓮美、昔から押しに弱いし」
「う……それは、その通りだけど」
千菊の言葉に、蓮美は肩をすぼめて返す言葉もなかった。人に押されるのは苦手だ。だがそれ以上に、人を押し退けるのが苦手だ。
押し退けた相手に、嫌われるのが怖いから。
三年前もそうだった。当たり前のことを当たり前にやったら、人を傷つけ、大勢の人に嫌われた。そういうものだと思っていたから、押し退けるつもりなんて、これっぽっちもなかった。数十人もの双眸が、自分を蔑むように見つめるあの光景は、生涯忘れられるものではない。
不意に思い出してしまい、蓮美はぶるりと肩を震わせた。背筋が氷のように冷え切った気持ちだった。
「春とは言え、夜はまだ冷えるね」
「あ、うん。羽織るもの出すから待ってて」
「ありがとう」
蓮美は、嫌な記憶を振り払うように立ち上がって、傍らのクローゼットへ駆けていく。この春に引っ越して来たばかりのアパートは、大学に通いやすいようにと両親が近場に借りてくれたものだ。
蓮美の実家は電車で小一時間ほどのところにあり、頑張れば通えない距離ではない。実際、同郷の千春は毎日電車で通っている。それでも一人暮らしを選んだのは、蓮美のたっての希望だった。
できる限り自分のことを知る人が少ない土地で、新しい一歩を踏み出したかった。
(新しい一歩……踏み出せてるのかな)
自問してみても、自信を持って頷くことはできない。自分はまだ、何も変わっていない。変わろうともしていない。
(……演奏好きって言われたの、久しぶりだな)
蓮美は、クローゼットから薄手の春用カーディガンを取り出して羽織ると、もう一枚ストールを取り出して千春へ手渡す。
「はやくレポート終わらせて、ご飯食べ行こ。千春ちゃんの終電なくなっちゃう」
「そうだね。あと一息頑張ろう」
千春は、ストールを受け取るとにへらと屈託のない笑みを浮かべた。それが昔の彼女の笑顔そのもので、変わらないものもあるんだなと、蓮美は少しだけ安心した。
翌日、蓮美は楽器ケースを手に大学へ登校する。もちろん、涼夏との約束を果たすためだ。互いの講義が全て終わってから集合して、一緒に楽器店のスタジオへ移動する予定だったが、昼過ぎから空はあいにくの雨に見舞わられていた。
「そもそも、一回家に帰ってから、楽器店集合にすれば良かったんじゃ……?」
「それじゃあ逃げられるかもしれないだろ」
「この期に及んで逃げませんよ……」
学食に併設されたカフェブースのテーブルを囲んで、蓮美と涼夏はため息をつく。窓の外では、校舎の屋根から落ちる雨だれが、勢いよくじゃ口をひねったようにドボドボと零れ落ちていた。
蓮美は、傍らの椅子に置いたケースを見やる。他の楽器に比べれば雨に強い金管楽器だが、それでも大事な楽器が濡れるのが、単純に嫌だった。
それから、向かいの席で異彩を放つ大きな楽器ケースへ視線を移す。涼夏の隣に立てかけられていたのは、誰の目から見てもギターケースだった。
「あの、それって」
「ムスタング。あたしの相棒」
「そうじゃなくって……なんでここにあるんですか?」
「スタジオ行くのに楽器持って行かないバカが居るかよ」
聞き方が悪いのかと、蓮美は頭を抱えた。
「私の演奏を聞かせるだけなんですよね……?」
念を押すように尋ねるが、涼夏は視線を逸らして何も答えない。嫌な予感が、ざわざわと背筋を駆け抜けていった。
「雨……たぶん、止みませんよ。バスで行きましょう」
「バス、嫌いなんだよ。狭くてゴミゴミしてて」
「じゃあ、今日はやめますか?」
「いや」
涼夏は、残ったコーヒーを一気に飲み干すと、空になった紙コップを握りつぶして立ち上がる。
「別のところでやる。ついてこい」
それから、涼夏の先導でふたりは大学の敷地の一角へと向かった。本館からピロティーを通して繋がる別棟――通称〝サークル棟〟と呼ばれているそこは、文字通りサークル活動を行うための個室や設備がある学生自治区だ。
涼夏は、とある一室目掛けて棟内を横断すると、ノックもなくドアを蹴破る。後ろから唖然として見守っていた蓮美の視線の先に、部屋の中であっけに取られている軽音サークルらしき学生たちの顔があった。ドラムセットにアンプ、スピーカー、申し訳程度の古びた机とソファ。軽音サークルの練習スタジオのようだ。
「五分だけ借りるぞ」
そう言って部屋の中に上がり込むと、戸惑う先客たちをよそに、涼夏はゴソゴソとアンプにケーブルを繋ぎ始める。ようやく我に返った蓮美が、恐る恐るその背中に近寄った。
「い……いやいやいや、何やってんですか」
「何って、演奏の準備に決まってんだろ」
「そうじゃなくって! 先に使ってる人がいて……! たぶん、施設の予約とか、えっと……もう、何から突っ込んだらいいの!?」
取り乱す彼女をよそに、涼夏は手早く準備を済ませると、ギターケースから自分のベースを引っ張り出す。左手でネックを掴んで、右手で弦を軽く弾くと、電気信号に変換された音がスピーカーから弾ける。
「チッ、軽いな。流石に安モンか」
舌打ち交じりにこぼした愚痴は、スタジオの機材に対してのものだが、そこはこの際目をつぶっても良いと納得する。涼夏は、すぼめた口先で細く長い深呼吸をすると、左足を一歩前に踏み出して弦を爪弾いた。
ズドンと、音が衝撃波になって世界の全てを吹き飛ばしていくのを、蓮美を含めたそこにいる全員が感じる。狭くてごちゃごちゃしたスタジオなんて全て吹き飛んで、真っ白な荒野のど真ん中に、ただひとり涼夏のベースだけが響いているかのようだった。
出だしから挑戦的に激しいフレーズを奏でる。四本の弦から生み出される音そのものはベースらしく落ち着いたものだったが、五本弦のギターのように軽やかで、自由で、それでいて力強かった。
「あ……もしかして、サマバケ……?」
先客バンドのギタリストらしき女学生が、ぽつりと思い出したようにつぶやく。その一言は蓮美の耳にも届いていたが、そんなことよりも、目の前の少女が奏でる暴力的な演奏に目を奪われていた。
耳だけじゃ足りない。半開きになった口からも、鼻からも、音の洪水が押し寄せる。溺れてしまいそうだ。
でも、この音に溺れて死ぬなら幸せなのかもしれないと、そうも思った。
「……ふう」
肩慣らしみたいなフレーズを弾き終えて、涼夏は胸の内に溜まった熱を、吐息と共に吐き出した。あれだけ激しい演奏をしておきながら汗ひとつかいてない涼しい顔に、切れ長の目だけが艶っぽく光る。
その瞳で、じっと蓮美を見つめる。
「こいよ」
短い言葉で、蓮美は涼夏が何を求めているのか理解した。抱えた楽器ケースをぎゅっと抱きしめて、気後れしたように後ずさる。
「……できません」
「演奏聞かせる約束だろ」
「合奏はしません!」
自分でもびっくりするくらい大きな声が出て、蓮美ははっとして口に手を当てる。視線が一斉に蓮美に向く。まるで動じていない冷静な涼夏の瞳と、今だ状況を飲み込めていない軽音サークルの戸惑いの瞳。
視線、視線、視線。
ぞわぞわとした悪寒が胸元に渦巻いて、次の瞬間、彼女はスタジオを飛び出していた。ひどく青い顔をしていた。
サークル棟を駆け抜け、少しでも遠くへ。蓮美の脳裏に〝あの日〟の光景が蘇る。
怖い。嫌だ。助けて。
あまりに全力で走ったものだから、本館まで戻って来たころには息が上がってしまい、エントランスの端っこでふらふらと壁に寄り掛かる。
絶え絶えの呼吸に合わせて、心臓がドクドクと高鳴っている。先ほどまで感じていた悪寒はどこかへ消え去り、代わりに汗が滴るほどの熱が身体中を満たしていた。
呼吸を整えるように大きく深呼吸をする。失った酸素を取り入れて、頭の中が少しだけクリアになる。
熱は未だに胸の内から湧き出して全身へと駆け巡る。その正体が涼夏の音楽を聴いたせいだと認められるほど、蓮美はまだ前に進む勇気を持っていなかった。
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