第6話 土産
思考を巡らせて歩き続けるうちに、伊織は時田家へたどり着いていた。
鍵を開けて玄関に入ると、いつもより靴が一組多いことに気がついた。サイズの大きい、男性用の履き慣らされた運動靴が増えていた。あの男が帰ってきたのかと伊織は思った。
あの男とは、時田家の大黒柱、
既に正夫はその存在感を放って、リビングから扉越しに騒がしさを感じさせていた。伊織がため息まじりにリビングへと入ると、妻と娘相手に何やら話していた正夫はすぐに気づき、振り向いて、大きな足音と共に彼に近づいてきた。
「よう伊織! 久しぶりだな!」
まるで気の知れた親友に向けるような口ぶりだった。瞳も少年のように輝いている。人生の成功者特有の異様な溌剌さを、正夫は隠そうともしない。逆立った短髪と日に焼けた肌、半袖のシャツに半ズボンという季節外れの格好もそれを助長していた。
「いやあ本当に久しぶりだ。相変わらず男前だなぁ。もしかしたら前よりもっといい顔になってるんじゃないか? 俺も自信はあるんだが、生憎歳だしな。しかも最近は日差しの強い国にばかり行って、紫外線を浴びまくってるんだ。一応肌に気を遣ってはいるんだが、追いついていないのかな。朝鏡を見る度に老けた気がするよ。いやぁ若いってのは羨ましいなぁ」
まくし立てられて伊織はややたじろぐ。真逆とも言える人間性の正夫を、当然伊織は苦手としていた。正夫の後方では恵理が苦い顔をしていた。
「俺は今チョコレートの原材料のカカオ豆を、より良いものを探して飛び回ってるところだ。で、合間を見て顔見せにきたってわけ。ほら、これお土産」
満面の笑みで聞いてもいないことを語りながら、正夫は床に投げ出していた鞄から何かを取り出す。
「これは……」
「お守りだよ」
それは亀を象った木製のストラップだった。樹脂が塗られていて光沢を宿している。
「なんでも幸せとか幸福とかハッピーなものを呼び込んでくれるらしい。あ、全部同じ意味か」
正夫の振るまいに引き気味ながらも、伊織はストラップを受け取った。流石にこれを断れる胆力は無かった。
「よし。挨拶も済んだな。じゃあ俺はまた出るから」
「あら、もう行っちゃうの?」
正夫と伊織のやりとりを微笑みながら眺めていた昌子が驚いて訪ねる。
「言っただろ。顔見せにきただけだって。俺は滅茶苦茶忙しいんだ。なんせボスだからな」
自分をボスと表現した正夫は益々堂々とした態度になって、鞄を拾い上げ、威儀を正すと、そのまま玄関へ向かった。三人も慌てて後を追う。
「じゃあな! 一瞬だったけど、みんなの顔が見れて嬉しかったよ」
そう言って、正夫は力強く駆けだしてそのまま消えてしまった。後には妙な虚脱感と土産物だけが残った。時田家は正夫という嵐に見舞われたのだった。
伊織は自室にこもってベッドに寝転び、亀のストラップを手の中で弄んだ。樹脂の触り心地が滑らかだったが、それ以外特に何の変哲もない代物だった。福を呼ぶという迷信も、彼には苦笑の材料にしかならなかった。正夫は本気でありがたがっていたようだったが、その点もまた冷ややかな気分を誘った。こんな物を渡すことが何になるというのか。正夫は自分の仕事を誇りに感じる部類の人間のようだが、結果家族をないがしろにし、それどころか家を空けることを熱心な仕事人の勲章のように誤認しているのだと、伊織は考えていた。正夫は以前にも何度か仕事の合間を縫って顔を見せに来たが、その度にあれやこれやと、誰も欲しがってもいない土産物を持ってきては、豪快に笑ってみせるのだった。一見気持ちのいい人物に映るその姿の実態は、自分の一家の父としての至らなさを、珍奇な物質で埋め合わせ、無自覚に愛情を欺瞞する偽善者なのだと伊織は断じた。伊織の愛への懐疑はなお深まった。正夫の土産物は、贈り物という形で、己を満足させる代償行為の副産物に過ぎない。そこに世間一般で語られる愛なるものは宿っていない。当然正夫はそれを愛情行為として認識しているだろう。いや、正夫の行為を知ったら大抵の人間は愛深い行いと認識するかもしれない。それらは全て迷妄なのだ。
伊織はストラップの亀の頭を指先で潰すように圧迫した。硬い木質はびくともしなかった。
指の腹にできた痕を伊織が撫でていると、ドアが開き、恵理が部屋に入ってきた。彼はまたか、と呆れたが、少女の表情が不機嫌そうなことに気づいた。恵理はそのまま伊織が寝ているベッドに飛び込むように乱暴に腰掛けた。
「お父さんから貰ったの? それ」
恵理は伊織の顔と、ストラップの亀を見て言ったが、その表情はやはり不機嫌そのもので、普段の彼女の明るい色は消え失せていた。
「ああ」伊織は軽く返答した。
「そうなんだ。私はこれ」
恵理は右手の中の物を伊織に見せた。白い掌の上を何かがよろめいた。それは小さな木彫りの像だった。円柱状のデフォルメされた身体に、強面の人面が彫られている。
「なんでこんなものを寄越したんだろう。わけわかんないよね」
恵理は呆れて言った。彼女の言うとおり、とても年頃の少女への土産物とは思えない代物だった。伊織も多少恵理に同情心を覚え、自分が実の父親からこんな得体の知れないものを渡されたらどう反応すればいいのやらと考えた。先ほどまでくだらないものと感じていたストラップの亀も、多少ましな土産に思えた。
「こんなので、父親やれてると思ってるのかな、あの人」
恵理は不満を漏らす。不機嫌な表情は諦観の表情へと変わり、口はかすかに開いて眉は力なく落ちていた。彼女は自分の父親の在り方を良しとしていなかった。伊織の部屋を訪れたのも、その不満を誰かに吐き捨てるためなのだった。
恵理は憂いを帯びた目で伊織を見た。瞳の中で淡い光がかすかに揺れている。伊織もその揺らめきを見た。互いの視線が一つに重なった。
瞬間、恵理の瞳に色が浮かび、強く求める眼差しに変わった。彼女は力なく体勢を崩し、そのまま寝転ぶ伊織の胸に飛び込み、顔を埋ずめた。縋り付くように両手を身体に回し、強く抱きしめた。自分と相手の身体を一つにするかのように、全身を震わせながら密着させる。事実、彼女は悲嘆と共に甘美に震えていた。傷を癒やすように甘さを味わう。少女が身もだえする一方で、恵理の熱と鼓動と吐息を感じながら、伊織はされるがままにしていた。
恵理の密着を受けながら、伊織の脳裏にあるのは鈴木琴子の姿だった。あのかすれゆくような少女のことを、目の前の媚態の少女に話すかを考えた。つまり、自分に交際相手ができたことを、恵理の媚態を打ち崩すであろう出来事を伝えるかを考えたのである。もっとも、伊織は琴子のことを本気で愛している訳では当然無いが、それでも恵理の思いを崩壊させるには十分すぎる出来事だと思われた。彼女が父親のことで打ちのめされている今ならなおのこと、その一手で伊織は今後少女の狂騒に煩わされることは無くなるのだった。
「お父さんってさ、よく喋るよね。私、あれが好きじゃないんだ」
顔を埋ずめたまま、こもる小声で恵理が話し出した。こもってはいたが、不思議と柔らかに染み渡る声だった。
「お父さんだけじゃないや、学校にもああいう人がいる。私嫌い。声を上げて話しかけてくるの。ああじゃないこうじゃないって。どうでもいいようなことをさ。きっとああいうのは、自分のくだらなさを隠すために、いっぱい喋るんだろうね。だから私は嫌い。お父さんのお土産だって、なんにもならない、くだらないもの……」
語る恵理の声色には、自己への憐憫と、他者への軽蔑が宿っていた。
「伊織は違うよね。ねぇ、伊織はどうして他の人とは違うの?」
恵理は顔を上げて言った。その声はもうこもってはいなかった
。
問われた伊織は、妙な疲労を感じていた。理由は分からないが、体中に激しい疲れが溢れている。琴子との一件のせいか、正夫と久々に対面したせいだろうか。あるいは恵理に強く抱きしめられているせいかもしれない。ともかく、疲労のために全てが億劫に感じられた。もう琴子との交際を打ち明ける気も失せていた。
「面倒だからかな……」
伊織は自分の心境をそのまま口にした。返答になっていない答えだった。
「そう。そうなんだ」
しかし恵理は納得していた。彼女はまた顔を下げ、額を伊織の胸に軽く当てた。
「うん。それがいいんだ……」
一際よく染み渡る声で、恵理はつぶやいた。心底まで感動に浸っている声色だった。
恵理はゆっくりと立ち上がり、伊織から離れた。離れる最後の指先まで、彼女は少年の熱を感じようとしていた。接触が解かれた瞬間、二人の間の空間には奇妙な余韻がうねった。それが全てであるかのように思われた。
恵理はなよやかな足取りでドアまで行き、静かに部屋を出た。去り際、伊織に軽く微笑み、小さく手を振ってみせた。
伊織の心はいたって平坦だった。それでいて益々疲れていた。重しの消えた身体の寝相を直し、そのままただ寝続けた。仰向けになったので、必然的に天井を見上げる形になった。天井は相変わらず真っ白で、その色は伊織の存在する世界とは真逆の色相だった。
この世はひどく混色だ。恵理も正夫も琴子も、誰も彼も、皆雑多な色で塗り潰されている。誰も美しい純白にはなれない。無数の色の中に埋もれて生き、そして死んでいくのだ。
白い天井をキャンパスにして、伊織はそんな考えを思い綴るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます