第4話 試練


 

 少年の宣告が何を意味するのかは明白だった。水面に浮かぶボールを取るためには、淀み濁った池の中に足を踏み入れなければならない。身体が汚れるのは必至である。美しい少年を手に入れるために、汚濁に身を投げた打なければならない。まさしく試練だった。


 伊織は完全に自覚的に、この試練を琴子に突きつけた。それが彼の狙いだった。あなたを愛すると吠える者の心を揺さぶる。その時真に人は試されるだろう。彼女がどう動くのか。拒絶を見せるか。己の愛を、つい先ほど宣言したばかりの愛を投げ捨てるか。少年の残酷な実験だった。

 

 琴子は怯えたような素振りを見せながらも、ゆっくりと池に向かって歩みだした。伊織には意外な展開だった。水の縁まで近づくと、靴を脱いで裸足になり、長いスカートを汚さぬようめくり上げる。肌色の面積の増加に伊織は目を細めた。

 

 おそるおそる、つま先から浸けるように、琴子は池の中に足を踏み入れていく。慎重な一歩一歩で、浮かぶボールめがけて進み出した。白い足で、落葉や鳥の糞や生物の死骸など、あらゆる沈殿物が堆積した水底を踏みしめる度に、水中にもやが上がり、汚濁はいっそう強まっていく。少女を中心にして濃い色が広がり、まるで茶色い煙に抱かれながら歩いているようだった。

 

 不潔に耐え、琴子はなんとかボールにたどり着いた。屈んで細い手を伸ばす。しかしその時水底の堆積物がぬかるみ、足を取られた。重心を崩し、盛大に転倒する。正面から水の中に飛び込む形となり、激しい水しぶきと濁りを巻き上げて、少女は全身に汚れを受けた。

 

 伊織の口からも思わず声が漏れたが、琴子はすぐにまたしぶきを上げて水から立ち上がった。もう汚れなど気にせずに、スカートで水面に尾を引きながら陸地に向かい歩き出す。その手にはしっかりとボールが握られていた。

 

 体中に水滴をしたたらせ、汚臭を纏うただならぬ姿となって、少女は再び少年の前に立った。自分から仕掛けたことながら、伊織は唖然としていた。流石にやり過ぎたかと思った。

 

 後悔しかける伊織を尻目に、琴子は満面の笑みを浮かべてボールを差し出した。受け取ろうとした伊織だったが、ボールが当然水浸しになっていたために、それは君が持っていろ、と琴子に押しつけた。琴子は嬉しそうに、スカートのポケットにボールを押し込んだ。布地が内側から圧迫され、汚れた汁がにじみ出る。

 

「君、今日はもう早退しろ。そんなんじゃ授業に出られないだろ」

 

「うん、そうだね。そうする」

 

 琴子はなおも笑っていた。

 

 

 その後、琴子は体操着に着替えて早退し、伊織は彼女は体調を崩したのだと適当に理由をつけて、琴子の早退を担任教師に伝えた。なぜ伊織がそれを伝えに来るのか教師は疑問に思っていたようだったが、伊織は気にしないことにした。


 かくして、二人は付き合うことになった。

 

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