第3話 少女
学校の昼休み、伊織はいつものように池の畔を訪れていた。立ち並ぶ木々の檻を抜け、不揃いな落ち葉を踏み散らして、崩れかけのベンチに座る。木材が軋む感触が臀部に伝わる。
彼は焼きそばパンをかじり、ある程度食べすすめてさして評価することも無い味わいを確認すると、パンをちぎって池に投げた。水面に落ちたかけらは茶色い水を吸い、沈む。するとザリガニたちが姿を見せた。ザリガニたちは貴重な食料に群がるが、伊織はその動きがどこか鈍いことに気がついた。肌寒い風が木立の隙間をぬって吹いた。冬が近づき、ザリガニたちは活気を失いつつあったのだ。彼らは冬眠する生き物である。
もしこの池の住人たちが眠りについたら、自分は本格的にこの学校で一人になってしまうのだろう。そんな考えを伊織は巡らせた。
ふと空を見上げた。天気は曇りで、分厚い雲が一面を覆っている。白いもやが無数の層をなして重なり、その色をほの暗くくすませ、迫り来るような量感を放っている。本来吹き抜けのはずの空に天井が設けられたようで、伊織は息が詰まりそうになった。
そもそも彼が学校内で孤立したのは、無論彼自身の人間嫌いのせいであったが、一方周囲の人間たちの態度にも問題があった。
昨年、伊織はその美しさのために、入学そうそう他の生徒たちの注目の的になった。人付き合いの苦手な彼の意思は完全に無視され、女子生徒たちはしつこく会話を求め、それを見た男子生徒たちは、あたかも王に仕える従僕のように、彼の異性からの人気を礼賛する。かっこいい、イケメンだ。何度激賞の言葉が教室にこだましたかわからない。そんな状況に伊織が冷めた反応を示してみせても、美しさ故にかえって孤高の美少年といった評判を呼び、俗世の観念を超越した存在として、凡庸さに悩む少年少女たちは羨望の眼差しを絶えず向けた。教師たちは伊織がある種の神格化を受けていく一部始終を目撃していたが、誰も目撃以上のことはしなかった。かくして学校内は、綾瀬伊織にとってすっかりすごしづらい場所になってしまった。人間嫌いは重度を増して、少年を孤独へと誘ったのだった。
淀んだ水を眺めながら、伊織は己の孤独についてふと考えた。自分が人付き合いを嫌悪しているのは確かである。だが一方で孤独であることに思うところがない訳でもない。周囲の人間たちの活動を見ていれば、自分が異質な存在であることはしつこいほどに思い知らされる。では内心他者の温もりを求めているかというとそれは怪しく、いざ人と会話をしたり、人の群れと出くわしたりすると、己の異質さへの感傷は一気に消え去り、誰とも関わらぬこと、ただ一人でいることの、孤独の喜びへと心は回帰していく。ではやはり自分は徹底した孤独の徒なのか。自分は一体何者なのか。そもそも人間嫌いの根源はどこなのか。
伊織にはその心当たりがあった。過去の出来事。思い出したくもない記憶。脳裏に点滅するようにちらつく無数の情景。それらの断片。
内省し、精神の深淵に少年が触れかけた時、木々の隙間から落ち葉が散る音が聞こえた。風などの自然現象ではなく、人間活動による音だった。落ち葉が人の足で踏み散らされる音である。
伊織は現実世界に引き戻された。今まで自分以外何人も足を踏み入れなかった空間に、別の誰かが侵入してきたのだ。悩みは瞬く間に思考の隅に追いやられ、少年は異常事態に身構える。
音のするほうへ視線を向けると、そこにいたのは一人の女子生徒だった。伊織と視線が合い、一瞬身を震わせる。黒のセーラー服と丈の長いスカート姿に眼鏡をかけて、木立の間に風をうけて揺れている。
少女はベンチに座る美少年の存在を確認し、ゆっくりと歩き出した。臆病と、緊張と、躊躇いにおぼつかないような足取りで、徐々に距離を縮め、ベンチのそばに寄った。
目の前に立たれたことで、伊織は少女の姿を鮮明に捉えた。露出が少なく体型の出にくい衣装でもはっきりと認識できる華奢な全体像に、重力に屈したようなミディアムヘアーがいかにも弱々しい印象を放っている。髪は黒髪だが、その色がいささかくすんだ色合いなのも薄弱感を強める。それに対して瞳は深みのある黒で、二重瞼とよく通った鼻筋で顔の造形そのものは悪くなかったが、大きな黒縁眼鏡が野暮ったく、にわかに痩せこけた頬が病的だった。
伊織は自身にとって身近な少女である恵理を思い浮かべ、両者を比較した。恵理も細身な少女ではあったが、その細さは若さの発露から来るもので、頬も形よく線を描いていて、瞳には光が踊っていた。それに比べ目の前の名も知らぬ少女は、まるでろくに食事にもありつけず、痩せさらばえた捨て犬のような、痛ましくか細い雰囲気をまとっている。セーラー服の赤いリボンの発色に、かき消されてしまいそうな少女だった。
来訪者を前にして、伊織は無言だった。元より人とのふれあいを苦手とし、ましてや少女の顔にも覚えがなかったのでは無理もない。自己の世界を侵食されながら、彼は沈黙するしかなかった。
少女もまた、出したいはずの言葉が出てこないという風にしばらく押し黙っていたが、ようやく心を決めたのか、振り絞るような声で話し出した。
「綾瀬くん、私、同じクラスの
自信なさげにそう言われたが、伊織の記憶に琴子の影すらなかった。微妙な反応に琴子もそれを察し、「ごめんなさい。私、存在感ないから」と付け足した。
相手の素性を知ったところで、伊織の中に疑問が生まれた。この鈴木琴子はいったい何をしにきたのか。まさか自分のように昼食を食べにこんな場末にきたわけでもあるまい。
「何をしにきたんだ。こんなところに」
おおよその同年代の男子よりも高音の、中性的な美声で伊織は問う。問われた琴子は再び言の葉に窮し、口をまごつかせるも、再び決心してしゃべり出す。
「私、綾瀬くんに、お願いがあるの」
そう言う琴子はなにかただならぬ雰囲気を放っていた。伊織が何事かとさらに疑問を湧出させかけた瞬間、少女は言った。
「私と、付き合ってください」
……伊織には言葉の意味が理解できなかった。
「付き合うって何に」
困惑してまた問う。
「その、えっと、そういう意味じゃ無くて」
琴子は耳まで真っ赤にして言う。
「恋人どうしの、男女のお付き合い、という意味です」
琴子の返答に、伊織はますます困惑した。恋人どうし、男女の付き合い、交際。彼女の言いたいことは理解できた。しかし、なぜ、自分と? 彼にはそれがわからない。目の前の少女は自分とそういう関係になりたいと言っている。つまり自分に恋している。だが伊織は過去の記憶をたどってみても、やはり琴子の存在を思い出せなかった。彼は恋をするからにはそれなりのきっかけが必要だろうと考えていた。しかしこの鈴木琴子は、ほとんど初対面に等しい自分に恋し、告白までしてきたのだ。それは伊織の理解の及ばぬ出来事だった。
「なぜだ?」
「えっ」
「なぜ俺なんだ」
伊織は赤面したままの琴子に、自らの疑問をそのままぶつけた。普段極力人と関わらぬ彼にとって、珍しい行動だった。琴子は顔の熱をさらに増して答える。
「だって綾瀬くん、綺麗だから」
実に単純な回答だった。およそ関わりの無い少年相手に少女が恋した理由。それはただ純粋に、少年が美しかったから。たったそれだけで、誰かを愛するには十分なのだった。
伊織は肩すかしと同時に納得した。なるほどたしかに、自分は容姿で人目を引いてきた。露骨に異性に色気を使われたこともあった。けれども重度の人間嫌いのために、特別誰かと親密になったことはなく、愛の告白という一歩踏み出した展開に至ることはなかったのだ。そう考えれば全て合点がいった。むしろ今まで越えられなかった壁を越えてきた鈴木琴子という少女は、ひ弱な外面に反してある種驚異的な存在のように思われた。
伊織は立ち上がり、琴子の姿をまじまじと見た。伊織にとって琴子は単に自分に好意を向ける少女以上の存在に思えた。人間嫌いの彼には他者がひどく不気味で嫌悪感を煽る異物に見える。だが琴子の華奢な姿のその輪郭の奥に、なにかがある気がした。実に曖昧で漠然とした感覚だったが、それに触れれば全てが解き明かされる気がしたのだ。
「わかった。ただし条件がある」
伊織の言葉に琴子の顔に光がともったが、すぐに条件という単語に彼女は首をかしげた。
「条件って、何?」
問われると、伊織は屈んで先ほどまで座っていたベンチの足下に手を伸ばし、落ち葉に埋もれかけていた野球ボールを取り出した。それは以前彼が池の畔を訪れた際、途中の通路で拾ったボールだった。適当に手の中で弄んで暇を潰すのに使っていたが、飽きたのでベンチの下に放置していたのだった。
伊織はボールを池に放り投げた。白い球体が茶色い水面に落ち、わずかなしぶきが上がり、波紋が広がる。濁り水に反射して歪んだ鏡の曇り空の中を、白色が漂った。目を丸くする琴子に伊織は告げる。
「あのボールを取ってきてくれたら、君と付き合う」
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