第2話 琥珀色

 


全ての授業が終わり、伊織は帰路についていた。憂鬱な時間は終わりを告げ、そしてまた新たな憂鬱が、彼を呑み込もうとしていた。

 

 人通りの多い校門を避け、寂れた校門から学校を脱出する。あえて遠回りの経路から住宅街へと進み、何の印象にも残らぬ家々を抜き去って、いくつか角を曲がる。そうすれば、彼の住まい、広い敷地内の三階建ての、洋風の外観を淡いクリーム色の外壁で繕われた、一際目立つ家屋へとたどり着くのだった。

 

 

 上下二つの鍵を開け、伊織は帰宅した。ただいま、と一応挨拶すると、リビングから迎えが来た。

 

「お帰りなさい、伊織ちゃん」

 

 言いながら出てきたのは伊織の保護者の女性、時田昌子ときたしょうこ。伊織に微笑みかける柔らかな表情に違わぬ温和な女性である。だが伊織は彼女の温和さに苦手意識を感じ、いつも微笑みに苦笑いで返すことしかできなかった。

 

 昌子は二階に向けて伊織の帰りを伝える声を送ろうとしたが、それより早く、部屋のドアを開ける音と、廊下を走る物音と、階段を駆け下りる騒音とが立て続けに響いて、上階から少女が飛び出してきた。

 

「おかえりーっ、伊織っ!」

 

 昌子の娘、時田恵理ときたえりが、猫を連想させる高い声を上げて、伊織に飛びついてきた。横向きに結われた髪と、学生服のミニスカートを活発に揺らし、細身の身体で伊織に体重を預ける。小動物的な愛らしさを存分に溢れさせる彼女は、一つ上の異性の帰宅の度に、こうして自らの少女性を発揮するのだった。伊織にはそれがうっとうしかった。

 

 恵理を引き剥がした伊織は手洗いうがいをすませ、水筒を学校指定の鞄から取り出し、自分が洗おうとする昌子に遠慮して、流し台の前に立った。その姿を見ていた恵理は、自分が制服姿のままなだらしなさを自覚し、部屋着に着替えるために自室に戻っていった。

 

 少女が消えた隙に、さっさと水筒を片付けて少年も自室へ向かった。伊織の部屋も二階にあった。



 

 伊織は黒いトレーナーとズボンのラフな格好になると、ベッドに寝転んでスマートフォンを手に取る。しかし手に取ったはいいがそれで何をすればいいのかが思い浮かばなかった。彼にはゲームもネットサーフィンの趣味もない。音楽を聴いたり動画を見たりということもなく、ましてや人とデバイス上でコミュニケーションをとるなどもってのほかだった。


 身体を横にして部屋を見渡すも、無趣味な彼の部屋には勉強机と壁際に置かれた小さな本棚くらいしかない。だからといって勉強をする気にも本を読む気にもなれない。結局スマートフォンを投げ出して仰向けになり、天井を眺めることになった。

 

 白い平面にシミの一つでもないか、虫でも張り付いていないかと思ったが、あるのはただ白いだけの景色だった。突きつけられた純白さが、何かの罰のように思えた。

 

 しばらく白を見つめる刑罰に伊織が科せられていると、突如部屋のドアが開いた。刑は中断された。恵理がノックもせずに入りこんできたのだ。

 

 着替えを終え、淡いピンクのシャツとショートパンツ姿になった恵理は、さも当然のようにずかずかとした足取りで部屋の中を歩き、伊織が寝ているベッドに勢いよく腰掛けた。

 

「今日ね、学校で友達がはやりのアイドルについて話しててね」

 

 聞いてもいないことを恵理は語り出す。

 

「友達はみんなはまってるみたいなんだけど、私そういうのよくわかんないから、そのアイドルの画像見せてもらったの。でもなんか私的にはピンとこない感じ? こう変に着飾ったような雰囲気がさ。普通の子はあんなのが好みなのかな」

 

 普通の子、という表現に伊織は若干の違和感を覚えるも、突っ込むのも面倒なのでそのまま黙って話を聞き続けた。何もない天井を見つめること、中身のない少女の語りを静聴すること、どちらがより無意義なのかわからなかったが、彼はそうして時間の流れをやり過ごすしかなかった。

 

 恵理はその後、勉強や街に新しくできたレストランや、明日の天気といったとりとめもない話題を一方的に展開し、一通り話し終えると、声を発するのをやめて、満ち足りた表情で伊織の顔を覗き始めた。

 

 諸々の会話は、すべてこのための前置きだった。同じ屋根の下で暮らす少年の、端正な顔を観賞すること。それが少女の最大の幸福だった。

 

 伊織は美しかった。肌は雪のように色白で、その白さが全体の輪郭をぼやけさせる。かといって何もかもが曖昧になるということはなく、鼻立ちやまぶたといった容貌の構成要素を、強すぎず弱すぎず、適切な主張で描き出している。各部位が一部の狂いもないバランスで配置され、あたかも計算されつくした芸術品の様相を呈し、明確な二重の曲線に縁取られた大きな瞳と、凹凸のそぎ落とされた小顔のシルエットが中性の美を演出する。特にわずかにブラウンがかった髪と虹彩の色が、恵理のお気に入りだった。それは光の当たり具合によって、琥珀色に輝いた。

 

 ちょうど帰宅時間になると、夕日の光が窓から差し、その琥珀色を拝めるので、恵理は毎日のように伊織の部屋に押しかけていた。


 当の伊織は彼女が自分に向ける意識に当然気づいていたが、無視するようにしていた。彼の人間嫌いは恵理に対しても例外ではなく、彼女の好意はともすれば不愉快にも感じられた。だから日々の少女からの接触を、少年はただやり過ごすのだった。

 

 とはいえじっと見つめられ続け、流石に視線が気になりだした伊織は、軽く身をよじり、首を回し、ちらと恵理の顔を見た。瞬間、視線と視線が重なった。光をたたえた丸い瞳が、少年に向けられていた。

 

 恵理はしばらくのあいだ伊織の美貌に焦がれていたが、次第に気恥ずかしさを感じ始めたのか、突然顔をそらすと、そのまま立ち上がってそそくさと部屋を出て行った。音を立てて扉が閉じ、伊織は一人になる。彼は自分が世界から隔絶されたように感じた。それは心地よい感覚だった。少女が消え、伽藍とした部屋の静けさを伊織は味わった。

 

 伊織は身体をベッドをに打ち付けるようにして寝返り、何かを見つめることすらやめて、目をつむった。何も考えず、何もせず眠ることに彼の行動は帰結した。

 

 伊織は昌子に夕食に呼ばれるまで、ベッドで寝続けた。食事と入浴を済ませると、明日の支度をし、またしばらく恵理の会話に付き合い、やはりうっとうしく感じる自分を再認識した後、就寝についたのだった。





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