灰の少女 琥珀の少年

恐竜洗車

第1話 少年


 

 憂鬱な一日だった。何もその日だけが特別な訳ではなく、少年にとっては毎日が、気怠く、退屈で、無為にして無味な時間だった。

 

 授業中、窓際の席で頬杖をつく少年に、外からつめたい風が吹き込んだ。季節は冬が近づいているというのに窓は換気のため僅かに開けられていた。冷感とともに伸びた前髪が目にかかる。不愉快な感触を手ではらうと、学生服の袖がつっぱった。それはより不快な感触だった。

 

 少年は制服を嫌った。硬い肌触りや動きづらさはもちろん、その窮屈な着心地に、自分という存在が型にはめられ、歪められていくかのような感覚をおぼえた。彼にとって制服の利点があるとすれば、自分の身分が誰の目にも明らかになることくらいである。学生服姿の出で立ちだけでなく、上着の右胸に誂えられた高校の校章の刺繍も、それを後押ししてくれている。人付き合いの悪い人間にとって、他者への説明事が一つ減るのは助かった。尤も、同じ格好をした若者で溢れ返る学校内では、あまり意味を為さなかったが。

 

 諸々の現象に嫌気がさし、少年は窓の向こうを見た。自分をからかった冬の風を睨みつけてやろうと思った。しかしそんな彼の瞳に写ったのは一羽のカラスだった。黒い翼が視界を横切る。彼にはそのカラスの飛翔が、ただ偶然に自分の目に観測されたものではなく、大自然の自由な鳥類からの、文明社会の不自由な人類への嘲笑であるかのように思われた。

 

 もう全てが嫌になった。少年は世界と向き合うのをやめて机に突っ伏した。

 

 「綾瀬あやせ綾瀬伊織あやせいおり! 起きろ!」


 教師のしゃがれ声も耳には入らない。綾瀬伊織は自分の意識を闇の中に沈めた。

 

 

 教師はすぐに諦めて授業の進行に戻ったので、伊織は甲高いチャイムの音で目を覚ますことになった。昼休みの始まりである。眠気の残る端正な顔を手で拭い、席を立つ。教室を出ようとしたところ、女子生徒のグループに話しかけられたが、適当にあしらってその場を後にした。それはクラスメイトへのものとは思えない冷淡な対応だったが、女子生徒たちに不満はないようで、むしろ嬉しそうに笑いあってはしゃいでいた。去りゆく伊織は背後から、彼女たちが自分をかっこいいだのなんだのと評する声を聞いた。彼の憂鬱さは増した。

 

 教室を出ると廊下は生徒たちで溢れている。各々がそれぞれの友人と話し合い、決して広くない空間に、無数の声がこだましている。耳を塞ぎたくなる思いをこらえながら、会話相手などいない伊織は直線の通路を足早に進んでいく。階段に着くと、そのまま下の階を目指す。一歩一歩段差を降りる度に自分の足音が響いたが、それが周囲の人間の声を多少遮ってくれた気がした。

 

 目的地は食堂である。そこは昼休みになれば当然多くの人が集まるので、伊織はなるべく早く到着するようつとめていた。やたらと騒ぎ立てる名も知らない連中の渦に飛び込むのは苦痛極まりない。

 

 急ぎ足が功を制し、彼は無事まだ人気のない食堂にたどり着いた。職員以外に誰もいない空間は広々としていた。並べられた飾り気のないテーブルと椅子も、この瞬間ばかりは上等なインテリアのように思えた。しかしうかうかしてはいられない。伊織は持ち運びのできるサンドイッチを購入すると、やはり足早に食堂を去った。外廊下に出ると、校舎から生徒たちが波のように押し寄せてくるのが見え、彼の足はさらに早くなった。



 伊織は食事を一人でとることを望んでいた。それは彼の人間嫌いの症状のひとつであった。仲間と連れだって食堂へ向かっていた生徒たちのように、大抵の人間は食事をまるで宴のように捉え、大勢で楽しもうとするらしい。だが自分にはそれが理解できない。伊織は栄養を摂取するという生理的行動に際して、他人の存在を認識したくなかった。故に彼は人から遠ざかる。既に高校生活も二年目となる伊織は、学校内で自分一人になれる場所を見つけていた。

 

 学校に三つある校門の内、もっとも利用者の少ない寂れた校門があった。その校門へと向かう通路は、人ふたりが通れる程度の狭さな上に、左側にある校舎の影になっており、右側には二階建ての屋根ほどの高さの木がさながら林のごとく乱雑に茂っていて、やはり影がさしていた。

 

 しかしその林のなかに、実は人がくつろげる空間が存在することを伊織は知っていた。木々をすり抜けた先には、人工的に作られた池があり、畔には木製のベンチが用意されていたのだ。恐らくは憩いの場として生み出されたと思われる空間だったが、池の水は循環せず茶色に濁っており、ベンチは雨風に晒され、既に崩れかけている。地面には周囲の木からこぼれた落ち葉が積もり、人の手入れは行き届いていない。当然、人が出入りすることもない。綾瀬伊織を除いては。

 

 誰からも忘れ去られた場所。伊織はそれを好んだ。この空間にいる限り、他者に煩わされることはない。あるのは物言わぬ木々と静寂な池のみ。学校内において唯一、彼が落ち着ける場所だった。

 

 伊織はベンチに座ってサンドイッチを食べ出した。味気ないパンと主張の強い卵の具を咀嚼しながら、池を眺める。すると濁った水の中から、小さなザリガニの姿が浮かび上がった。池にはザリガニが生息していたのだ。


 誰かが放したのか、雨の日に陸伝いで他の水場から移住してきたのか、それはわからなかったが、伊織はザリガニたちに妙な親近感を抱いていた。池は完全に閉鎖されており、外部からの水の流入はない。つまりザリガニたちはいつ降るかも知れない雨や、偶然水に落ちてきた虫などといった限られた資源を頼りに生きている状態だった。その過酷さと孤独さが、彼の胸を打った。少年は、この学校で自分の理解者たり得るのは、このザリガニたちだけだろうと思った。

 

 伊織はサンドイッチをちぎって池に投げ込んだ。白いかけらが水面に落ちると同時に、濁りの奥底からいくつもの鋏が伸び、かけらを獲りあって、やがては消えていった。

 

 伊織は奇妙な侘しさを覚えた。その感傷のせいか、彼は木陰から自分を覗く視線に気づかなかった。




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