第5話 過去
琴子を帰した伊織は、その後の退屈な授業を終え帰路についていた。学業から解放された彼は再び自分の孤独、人間嫌いについて思案した。夕刻が近づき、儚げな光が走る空の下、街路の地面に革靴の乾いた足音を立てながら、少年は考えを巡らせる。
伊織に思いつくのは彼自身の過去についてのことだった。自分が人間嫌いになった原因と言えば、それ以外に考えられない。一つの結論に行き着いて、目をやるものを求めるように彼は空を見上げた。雲は昼休みの時に比べれば薄くなり、一日の終わりを告げる色合い、暖かさと冷たさが同居したその色合いににわかに染まっていた。色づいた白い面に投影するように、少年は過去を回想する。
綾瀬伊織は比較的に平凡な家庭に生まれた。だがその平凡さが、彼を苦しめることになった。
稼ぎの少ない父親を、共働きの母親が支えるという構図の一家に、伊織は生を受けた。運送会社に勤める父と、小さな水道修理の会社に勤める母で、二人とも人間的能力の点でこれと言って特筆すべきところのない、ありふれた男女だった。人混みに入ればいくらでも見かける、有象無象の群れの一員に過ぎなかった。
そんな家庭において、伊織はほとんど突然変異的に誕生した。成長と共に、日に日に美しくなっていく伊織の姿は、両親を歓喜させた。この子は選ばれし特別な素質のある子供だと、二人は信じて疑わなかった。
伊織は大人しい静かな子供だった。同年代の子供たちが跳んで跳ねて遊ぶ横で、一人落ち着いて花を眺め、小さな昆虫を観察する。そんな穏やかな時間を好む幼児だった。決して引っ込み思案で子供たちの輪に混じりたいのに混じれないという訳ではなく、ただそうしていることが、幼い伊織にとって幸福なのだった。
しかし、両親はそれを良しとしなかった。自分の子を過度に特別視した二人は、親の理想を息子に押しつけ出した。
父は男なら活発に生き、運動にかまけろと息子に接した。昆虫よりもボールを追いかけろと何度も説教した。自分にスポーツの素養があったわけでも無いのに、我が子はテレビ中継で活躍する選手になれると妄信し、伊織が愛好した穏やかな時間を彼から奪い去った。伊織は好きでもないスポーツクラブに所属させられ、心身は疲れきっていった。
母は勉学こそが現代人の全てだと提唱した。花よりも参考書を眺めろと高説し、自分は高校卒業後進学せずに、そこそこに時をすごしてから結婚した一般女性に過ぎなかったのに、息子は高名な難関大学の戸を叩けると確信していた。様々な勉強書を買い込んでは伊織に読ませた。小学校の授業後には塾に送り迎えし、帰宅後も自ら教鞭を振るった。伊織は望んでもいない教育を施され、精神を摩耗させていった。
全ては二人の男女の平凡さのためだった。己の人生の中で何者にもなれぬ虚しさの清算を、我が子を代償になそうとし、幼い命の熱の何もかもを、天へと捧げる思いで理想化の型に押し込めたのだ。
当然伊織は多大な負荷をおった。彼の人生から安らぎや楽しみといった物は悉く失われていき、彼の時間は両親を満足させるためだけに費やされた。朝も昼も夜も、彼の神経は親の言うことを聞くためだけに働いた。幼い子供には他に選択肢が無い。狭い世界で生き、何の力も持たない子供にとって両親ほどの絶対者は存在しない。もし一言でも嫌だと言えば、殴打か罵詈雑言が飛んできた。彼の好きだった花も虫も、彼を助けてはくれなかった。
それでも伊織は、いつかは両親が自分を愛してくれると信じていた。本当の自分、スポーツで名を馳せ、難しい学校に入る自分では無い、流れる時間を、思うままに生きる自分を認めてくれると信じていた。そのためにも二人の思いに応えようと、与えられるだけの試練には懸命に立ち向かった。だが伊織がどれほど必死になっても、得られる成果には限界があり、ましてや本来自身が望んでいない分野とあれば無理もなく、スポーツも勉強も、ある程度成長した時点で伸び悩んだ。それは両親が期待していた程度とはほど遠かった。
事が思い通りにいかなくなると、綾瀬一家の空気はたちまち悪くなった。父母の伊織への態度はいっそう厳しくなり、また両者の間で、元々スポーツか勉学かという意見の相違もあり、言い争いなどの衝突が絶えなくなった。自分の息子の美しさ、それに伴う過大な期待によって、二人の男女の認知は完全に狂わされていた。そして、大の大人が互いにぶつかり合う光景は幼い伊織には異様な景色に見え、事ここに至ってようやく両親への疑念を覚えたのだった。
両親は本当に自分を愛してくれるのだろうか。二人が求めているのは自分という人間ではなく、自らの思いのままに動く人形ではないのか。二人はいったい、何を見ているのだろうか。二人の視線の先に、自分はいるのか。
伊織は悩んだ。そこである実験を試みた。塾のない日、小学校から帰った彼は外に繰り出し、適当な昆虫を探しに歩いた。すると街灯の下にコガネムシがうずくまっているのを見つけ、捕まえて虫かごの中に放り込んだ。光沢の眩しい綺麗な虫だった。捕まえたコガネムシを自宅に持ち帰り、リビングのテーブルの上に虫かごを置いた。透明な容器の中をコガネムシは歩き回り、その動作の度に丸みのある緑色の背中に光が煌めいて、伊織は思わず見とれた。
しかし伊織は昆虫観察のために虫を捕まえにいったのではなかった。むしろ観察するのは自分の両親の方だった。伊織が考えるに、両親は息子が昆虫を好いているのを知らないはずはない。もしも両親が自分のことを少しでも慮ってくれているなら、テーブルの上に置かれた虫かご、その中のコガネムシを、息子が愛好から捕まえてきたことを察し、そのままにしておくか、それについて訪ねにくるかといった気配りをするはずだ。だがもし両親が自分を見ていないなら、愛していないなら、コガネムシはきっとどうにかして殺されてしまうだろう。
これは実験だった。幼子の、親の愛への証明をかけた実験だった。用意を終えてリビングを出る伊織の背後で、コガネムシは透明の壁に脚をかけて、何かに縋るようにもがき続けていた。
しばらく経って、夕刻、玄関の鍵が開き、扉が開く音がした。伊織は固唾を飲んだ。物音の立てかたからして、帰ってきたのは母らしかった。伊織は自室に閉じこもり、そして頃合いを見て、母のいるリビングへと戻った。部屋から部屋への僅かな時間、僅かな距離が、彼には果てしなく思え、時を刻むように汗が滴った。あのコガネムシはもう生きてはいないかもしれない。両親が自分を愛していないという事が、明らかになってしまうかもしれない。幼子は無限に等しい時間と距離を、小さな足で踏みしめ、歩んだ。
汗が滲む手でゆっくりとドアノブを回し、伊織はリビングに踏み込んだ。窓から差し込む夕焼けの光が痛いほどに降り注いで、嫌になるくらい眩しかった。光に目が慣れると、視界に写ったのは何も置かれていない、衛生的で綺麗なテーブルだった。にわかに殺虫剤の、本能的嫌悪を煽る、むせかえる匂いが空間に漂っていた。
伊織は全てを悟った。薄々感づいてはいたことだったが、彼の思考は停止せざるをえなかった。あれほど眩しかった夕焼けの橙の光も、急速に色あせて消え失せた。事態に立ち尽くす伊織を尻目に、母親は無言で夜の支度をするばかりだった。
それ以来、伊織は虚ろな日々をすごすようになった。両親の言いつけにも、かつては見せた健気な態度は死に絶え、生返事を返し、視線は常にうわの空を見上げていた。心ここにあらずというよりも、心そのものを喪失してしまったような有様で、常に空虚さを纏い、風に流れる薄雲のような曖昧さばかりを示した。それが親の愛という物を完全に諦めた子供の姿だった。しかし両親は息子の変容を目の当たりにしていたのにも関わらず、その変化に気づきはすれど、己が態度を改めようとはしなかった。むしろ全ての責任は伊織自身にあるとし、我が子は自堕落に落ちたと嘆いた。
そしてある休日、伊織が野球クラブでやる気なくボールを投げたり拾ったりしていたその日、伊織の両親は命を落とした。二人で車で出かけている最中に、事故にあったのだ。その事を知らされた伊織は不思議と冷静だった。親の死に対する感傷はほとんど無く、どちらかと言えば険悪な仲となっていた二人が、一緒に出かけたことへの疑問のほうが大きかった。それについてもよくよく考えれば、別れ話でもしに出かけたのかもしれないと、子供心に推理して納得した。
伊織の両親が死亡した事故はニュースにもなり、伊織は幼くして親を亡くした悲劇の子供として、世間の同情を誘った。だが実態は、伊織は悲劇どころか親を亡くしてむしろせいせいした気分だった。それまでの虚ろさも多少は晴れ、皮肉じみた笑みさえ浮かべるようになった。
問題なのは伊織の生活についてだった。当然幼い彼は一人で生きていくことなどできず、また彼の祖父母は体調を崩していてとても子育てなど無理な話で、頼りになる親戚筋などもいなかった。このまま孤児院に引き取られるかと思った矢先、ある一家が名乗りを上げた。時田家である。一代で事業で財を成した男を大黒柱に持つこの一家は、ニュースで知った哀れな少年への同情心から、引き取り手として率先して名乗りを上げたのだった。
こうして伊織は時田家に引き取られることになった。綾瀬伊織十二歳の時のことであった。しかし伊織はこのことに対して冷笑的だった。時田家が成金の一家だという事実が、孤児の引き取りを金持ちの道楽的な物だという印象を彼に与えたし、なによりあの両親、息子を真に愛さなかった両親のために、伊織はこの世の慈善や愛情全てに懐疑を向けていた。両親から愛されなかった自分が、赤の他人に愛されるものか。いやそもそも愛というもの自体が、人間の作り出したまやかしにすぎないのではないか。彼はただそう考えていた。
時田家に迎えられたその日、伊織は歓迎する一家にただ無表情で応対した。その氷のような美貌が、一家の娘、恵理を魅了した。
このようにして、自分の人間嫌いは形成されたのだと、伊織は回想を終えた。我ながら、そうなるだけの体験をしてきたなと、自嘲気味な気分になった。しかしだからこそ、あの鈴木琴子との出会いは、彼に何か宿命めいたものを感じさせた。
琴子はまるで関わりのない伊織に対して、ただその容姿に惹かれたというだけで、交際を申し込んできた。彼女は相手の内面、伊織の内面を何も見ていない。それはまさしく伊織の両親と同じ構図だった。両親は、一応は自分のことを愛しているつもりだったのだろう。しかしその愛と称した物は、相手の意思を無視し、自分の願望を一方的に押しつける、ある種の迷妄だった。鈴木琴子も、容姿だけを見て、綾瀬伊織という人間の意思を全く無視している、同じ迷妄の持ち主だと伊織は考えた。
伊織はある意味戦慄した。そんな相手と交際するはめになるなど、妙に因縁じみている。自分の人生から消え去った両親の影が、再び立ち上がって現れたかのように思われた。
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