第10話 献身


 

 授業中、教師の声は伊織の耳には入らなかった。母親から無理矢理に教育を押しつけられた彼の脳は、自分に不必要な情報を受け流すのに慣れていた。教室という人の密集した空間は伊織にとって不愉快極まりなかったが、授業中であれば生徒達は静かで、教師さえやり過ごせばよいので多少はましな居心地だった。ノートと教科書を開き、形だけは模範的な態度を装うのが彼のやり口だった。行き場のない退屈さと無為さを、手の中でペンを弄んで紛らわした。机の上の消しゴムを指先で弾いてみたりもした。教師は気づかない。所詮教科書を読み上げればよいだけの仕事なのだろうと伊織は内心軽蔑する。

 

 教師を小馬鹿にするのにも飽きた彼は教室の端に目をやった。並んだ席の最後列の右端、出入り口近くの席が、鈴木琴子の席だった。ちょうど伊織の真反対の位置である。比較的に目立つ位置にあるのに、長らく琴子の存在に気づかなかったのが伊織には奇妙に思えた。それほど琴子は目立たない少女だったのだ。

 

 琴子は真面目に授業を受けているようだった。こまめに教科書と黒板に目をやり、ペンを動かしている。教師の言葉を一つ一つ記憶しようと静聴する姿も伊織とは正反対だった。先週の彼から受けた仕打ちにもめげず、ひたむきな姿勢で彼女は日々を送っていた。そんなひたむきさにも関わらず、少女は学校内では影の薄い存在であり続けていた。

 

 伊織と琴子の交際が始まって一週間が過ぎたが、対外的には二人の立ち位置はなにひとつ変わっていなかった。伊織は相変わらず美貌の少年としてもてはやされ、琴子は地味な少女として誰からも触れられることもなかった。無論二人の関係に気づく者もいない。世界は平穏に回り続けていた。

 

 一方対内的には二人はある程度同じ時間を過ごすようになっていた。毎日昼休みになると、池の畔で昼食を摂る伊織のもとに琴子が訪れ、共に食事を摂るのである。二人はベンチに座ってほとんど無言でいた。そこには拒絶も受容もなく、ただ時だけが流れた。

 

 伊織は授業に真剣な琴子の姿に心底不快感を覚えた。取るに足らないことに本気で取り組むこと以上に滑稽なものはないと彼は思った。こんなくだらない授業を受けたところで彼女の現状が変わるはずはない。鈴木琴子は誰にも必要とされず、注目もされない消えかけの少女として在り続けるのだろう。それなのになぜこうも彼女はひたむきでいられるのか、何もかも投げ出して自棄になってしまうほうが楽ではないのか。彼女に果たしてどのような希望があるのだろうか。伊織には全く理解が及ばなかった。

 

 軽減されていた不快さが増してきたので伊織は仕方なく教科書に目を移した。どうやら真面目に授業を受けたほうがよさそうだった。教師の定型文じみた無機質な語りが教室内に響き渡っていた。

 

 

 昼休みの時間になり、伊織は池の畔にきていた。寒空の下で景色は森閑としている。池の水にも、辺りの木々や地面の落ち葉にも、生物の息づかいは感じられない。生き物たちは眠りにつく季節なのだった。そんな状況に足を踏み入れた自分自身に異物感さえ覚えながら、伊織はベンチに座った。焼きそばパンの封を開けようとしたところで、彼は琴子の登場が遅いことに気づいた。いつもなら彼女は伊織のすぐ後に現れて、隣に座る。飼い主の後を追う犬のように急いでついてくるはずが、今回は遅れていた。伊織は琴子がいつ現れるのかと、木々の向こうに意識をやりながらパンを頬張った。彼女がいなくとも彼になんの支障もなかったが、それでも平時と異なる展開には気になるものがあった。

 

 琴子が姿を現したのは伊織がパンを食べ終えてからだった。彼が最後の一口を呑み込んだその時、落ち葉を踏み散らす音と共に少女は現れた。手には何やら紙袋を持っている。袋を揺らさぬように慎重に近づいて、伊織の前に立った。ゆっくりと、少年に袋を差し出す。

 

「綾瀬君。これ、どうぞ」

 

 それはいつか見た光景だった。伊織はおおよその事態を察しながらも尋ねた。

 

「なんだ、これは」

 

 琴子は笑みを浮かべて答えた。

 

「ケーキだよ。手作りしてきました。綾瀬君、手作りがいいって、前言ってたから」

 

 彼女は健気にも、伊織の要求に応えるために、手製のケーキを用意してきたのだ。

 

「料理部の人たちに頼んで、冷蔵庫を借りてたの。取りに行ってたら遅くなっちゃって。中身を崩しちゃいけないし……」

 

 彼女の言葉には一切の打算も嫌味も無かった。自分に無茶な試練を突きつけた相手のために、一度は自分を突き放した恋人のために、わざわざそんな苦労までするのが、鈴木琴子という少女だった。その表情には屈折したものがなにひとつ無い。ただ純粋なまでに純粋であることが、彼女の存在そのものだった。冬空の冷たい光が、彼女の髪を灰色に輝かせていた。

 

 しかし痛ましいほどの琴子の純粋さが、却って伊織の心に闇を落とした。伊織の両親も、ある意味では純粋だった。我が子を顧みない純粋な盲目さのために、彼は苦しめられた。純粋であるが故に人は迷妄を抱き、過ちを犯す。伊織にとって琴子の存在は、両親の過ちの再演でしかなかった。この認識によって、少年の中の堰は崩された。それまでの彼の気怠さは吹き飛ばされ、琴子の笑みが瞳に焼き付き、彼の奥底に眠る怒りがうなりを上げて湧き上る。今こそ眼前の少女の全てを殺す時だった。冬空の光が、彼の髪を琥珀色に照らしていた。

 

 伊織は琴子から袋を奪い、地面に叩きつけ、全力で踏み潰した。

 

 一瞬の出来事だった。少年と少女の間で、紙袋が潰れ、乾いた虚しい音が響いた。同時に中にあるケーキが、地に落ちた熟れた果実のように、軟らかに弱々しく破壊された。潰れて皺だらけになった紙袋は、元の形に戻ろうと、皺と皺を軋ませて力無く蠢いた。絶命直後の轢死体のようだった。少女の思いは惨殺された。

 

 呆然とする琴子を前にして、伊織は無言だった。これほどの殺戮劇を演じながらも、彼は何も語らない。もはや言葉など必要なく、そもそも出てもこなかった。彼はただ冷酷な琥珀色の瞳に憎悪を宿して、灰色の少女を見据えていた。琴子もまた、動かなくなった紙袋を、他にとれる行動は無いというように黙って眺めていた。

 

 二人の間で幾ばくかの時間が流れた。数瞬であったかもしれないし、何分か経過していたかもしれなかった。空気は気温以上に冷え込んでいた。日の光もどこか翳りがあった。少年と少女はただ立ち尽くしていた。木々に囲まれた池の畔の空間にはすでに安寧など無く、何かが歪んで狂っていた。

 

 その歪みのなかで、先に動いたのは琴子のほうだった。自動人形のように彼女の身体はぎこちなく動き出した。その動作は潰れた紙袋へと向けられていた。伊織は無言のまま驚愕した。彼女にまさか何か行動をする力が残っているとは思いもしなかった。

 

 琴子は屈んで紙袋の中に手を入れた。潰れた袋の中から潰れた箱が取り出された。白い多面体に無数の折り目が刻まれている。琴子は静かに丁寧に、ひしゃげた箱を解きほぐし、封を開けていく。面と面の擦れ合う音が何度か聞こえた後、箱は開かれた。

 

 中から現れたのは無惨な姿となったショートケーキだった。包装ごと踏み潰されたそれは、慎重に成されたと思しき成形が破壊され、スポンジとクリームの層が曖昧となり、いくつか並べられたイチゴは粉砕されて血のように滲んでいた。もはやケーキとは言えない代物だった。到底人が口にする物では無くなっていた。

 

 ケーキと琴子を視界に収めて、伊織は立ちすくんでいた。これから何が起こるのか彼には予想もつかなかった。

 

 琴子は変わり果てたケーキに両手を伸ばした。そして細い指先で生地に触れ、何やら動かし出した。潰れたスポンジを二つの手で押し固め、形を整えていく。クリームが水気のある煩わしい音を立てる。彼女の指は白く汚れていった。生地にめり込んだイチゴも拾い上げられ、なんとか体裁を取り戻した。

 

 琴子が破壊されたケーキを修復しようとしていることに、伊織はしばらく気づけなかった。そんなことが現実に起こりうるとは思えなかった。だが呆然とする少年をよそに、少女は指先を動かし続けた。

 

 指先の動作と生地の立てる音がしばらく続いた後、少女の掌に包まれ、押し固められたケーキは、ある程度その形を蘇らせた。歪な肌色の円形に、爛れた白色が塗りたくられ、上部に潰れた赤がちりばめられている。やはりまだ人の食べ物とはいえない。しかしその惨めな姿形に、どこか奇妙な暖かみがあった。何者かの情念が込められたもの特有の、言い知れぬ存在感が宿っていた。

 

 造形を終えると、琴子はクリームに汚れたままの手で、ケーキの箱を持ち上げた。クリームがまとわりついた指先が軽く地面に触れ、かすかに落ち葉や土の微粒子が付着した。白と黒の混在した不浄な両の手で、ケーキを再び、伊織に差し出す。

 

「はい。どうぞ」

 

 震えた声だった。絞り出すように少女は言った。しかしその顔は笑っていた。今にも崩れそうな笑みを浮かべて、同じく崩れかけのケーキを少年に渡そうとしている。それは風が吹けば消えてしまいそうな光景だった。幸い風は止んでいた。無風の中で小枝のような細い両腕が伸ばされていた。

 

 伊織はたじろいだ。なぜ少女にそのようなことができるのか理解が及ばず、ただ困惑した。鈴木琴子の全てを踏みにじってやったつもりが、今や自分自身が彼女に圧倒され、恐怖さえ感じていた。粉砕された手作りのケーキ。それは人一人の心を殺すには十分なもののはずだった。そうすることで伊織は両親への擬似的な復讐を果たし、愛情の欺瞞を暴く算段だった。だが琴子は折れず、壊れたケーキを自ら修復し、なおも伊織に捧げてきた。なにが彼女をそうさせるのか、伊織にはまるで理解ができない。

 

 追い詰められた伊織が沈黙している間も、琴子の腕はケーキを差し出し続けていた。惨めにも思える歪な造形が、空中に浮かべられている。伊織は押し黙ったまま、そうするしかないというように、ゆっくりとケーキを受け取った。受け渡す際の衝撃で、生地の縁が僅かに崩れた。

 


 その後、打ちのめされた伊織は教室に戻らず時田家に帰宅した。家に入ると掃除をしていた昌子に出くわし、どうしたのかと問われたが、返答せずに自室にこもった。ベッドに腰掛け、無数の折れ目がついた箱からケーキを取り出し、手づかみで食べた。生地にクリームがしみこんでむせかえるような甘さがした。毒のような甘味だった。胸の内に何か重い物がのしかかって、伊織は今にも自分が死に至る気さえした。

 

 しばらくすると恵理が授業を終えて帰ってきた。彼女は伊織が自分より早く帰宅したことを珍しがっていた。毎日の習慣として伊織の部屋に突入してきた時、彼は横になって寝ていた。その琥珀の瞳の色がどこか鈍いことに恵理は気づいた。訝しんで、夕刻の光の中、少女は少年の顔を覗き込んでいた。放射する夕日に当てられて、二人の姿は暗く影になっていた。

 


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2024年11月26日 20:00
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灰の少女 琥珀の少年 恐竜洗車 @dainatank

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