第9話  灰色


 授業が終わり、生徒たちは椅子の脚で音を立てながら、各々の活動を開始した。部活動に向かう者、帰宅する者、学校内に居残って時間を潰そうとする者、それぞれが散り散りになって教室から去っていった。伊織も帰路につこうとしたところ、琴子に呼び止められた。

 

「綾瀬くん、この後、予定とかあるかな?」

 

 琴子は兎のような目をしていた。

 

「いや、特に無い」

 

「そうなんだ。じゃあ、私と一緒に来てくれるかな?」

 

 放課後に一緒に出かけようという琴子の提案だった。彼女が何を考えているのか伊織の知るよしもなかったが、断ることもないと思い了承した。琴子は兎のように微笑んだ。

 


 学校を出て二人は街路を進んでいた。肩を揺らして歩く琴子の後ろを、伊織がついて歩いている。並木道を時折冷風が吹き抜け、脇を走り去る自動車の速度に大気が渦巻いた。空は昼間の明るい色が失せはじめ、夕刻が近いことを物語っている。気温も徐々に冷え出していた。

 

 二人が歩いていると、すれ違う通行人たちが、度々怪訝な表情を浮かべて寄越した。類いまれな美少年と、いかにも冴えない少女が連れ立って歩くのが、なんとも奇妙に映ったのだろう。

 

 二人が歩いているのは街の駅へと向かう道だった。駅は駅併設の商業施設を中心に、周辺に様々な店舗や施設が賑わう街の中心地である。駅に近づけば近づくほどに、周辺の建造物は人目を引く派手な物が増え、繁華な様相を呈していった。

 

 道なりに進むうちに、伊織には琴子の考えが読めてきた。目の前の少女が何を思って自分を連れ出したのか、おおよその見当はついたが、あえて何も言わず黙って彼女の後をついて行った。不愉快な街の喧騒が増しても、彼は耐えた。

 

 とうとう二人は駅前へとたどり着いた。ここまでくれば、そこは静寂を好み人だかりを嫌う伊織にとってはもはや地獄のような空間になっている。人の密度はそれまでの道のりとは比較にならないほど増え、ありとあらゆる雑音が鳴りかっていた。伊織には人々の話し声、足音、身動きの際の衣擦れ、果ては口内の唾液の弾ける音さえ聴き取れる気がした。それらは巨大な爆発音のように轟き、耳元を跳ぶ蚊の羽音のように響いた。

 

 伊織が生理的嫌悪感に吐き気すら催し始めた時、琴子は彼に向き直って言った。

 

「少し、ここで待ってて」

 

 伊織の苦痛をつゆ知らず、琴子ははにかんで駅併設の商業施設へと入っていった。ややぎこちないが軽やかな足取りで、気分の高揚がうかがえる。一方喧騒の中彼女を待つはめになった伊織は、少しでも苦痛から逃れようと辺りを見回した。駅前の広々とした空間には、バスターミナルが設けられている。その脇の歩道の曲がり角に、柳が一本植えられていた。コンクリートに囲まれた中植えられた樹木はあまりに頼りなさげだったが、それでも伊織にとっては救いの手のように思われた。

 

 伊織は柳に寄り添った。めくれかけた荒い樹皮の感触が、彼の吐き気を癒やした。

 

 背中に伝わる柳の生命を頼りに、人の渦をやり過ごしてしばらく経つと、琴子がガラス扉を開けて施設から出てきた。手には白い手提げ袋を持っている。袋の中身を気にしながら早足で伊織の元へ歩み寄った。伊織は柳から背を放した。

 

「はい、これ」

 

 琴子は手提げ袋を伊織に差し出す。

 

「これは?」

 

 伊織は琴子の考えを察していたが、そうでないふりをしてみせた。

 

「ケーキだよ、プレゼントの」

 

 琴子の病的な白い顔に、にわかに光が弾けた。

 

「お昼に言ってたでしょ? だから、はい」

 

 袋に入ったケーキを掲げて琴子は微笑む。伊織は事ここに至って、自分はこの少女のこんな顔をよく見るな、と思った。少年の脳裏に琴子を初めて見た時の印象が蘇る。あのか細い少女はいま幸福に満たされてこんな似つかわしくない顔をしているのだろう。本来屍のような少女が生き生きとしているのが伊織には気に食わなかった。屍は屍らしく死んでいればいい。彼の中にどす黒い感情が渦巻く。両親への復讐。自分はこの少女を殺さなければならない。死した両親を、その化身の少女を殺さなければならないのだ。

 

「はい、どうぞ」

 

 琴子はケーキの入った手提げ袋を伊織に渡そうとした。伊織はそれを一瞬受け取り、しかしすぐに乱暴に琴子の胸にぶつけるようにして突き返した。衝撃を受けて琴子の棒きれのような身体がよろめく。彼女は瞬間何が起きたか理解できないという顔をし、そしてすぐに驚愕と怯えの表情を浮かべた。

 

 よろけて目線が下がった琴子を伊織は見下ろす。この上なく冷徹な瞳が鈍く輝いている。そのまま彼はあらゆる罵倒を吐き出そうとしたが、すんでの所で踏みとどまった。良心からではない。鈴木琴子を殺すにはまだ足りない、機はまだ熟していないと考えたのだ。

 

「こんなもの、どうせ工場で作った大量生産品だろ。俺は手作りのが食べたいよ」

 

 それでも伊織の言葉は十分辛辣だった。不敵な態度で言い放つそれは、人を怒らせるか、悲しませるには十分だった。だが琴子は体勢を立て直すと、再び伊織と目線を合わせ、再び笑って見せた。

 

「うん、わかったよ」

 

 伊織には意外な展開だった。てっきり彼は、琴子はもっと悲しみの表情を浮かべるものと思っていたのだ。彼女が全身に纏う気弱そうな雰囲気からすれば尚更である。そもそも伊織は、最初からケーキなど求めていなかった。彼が琴子に妙な要求をしたのは、彼女の思いを否定し、踏みにじることで、この世にのさばる愛情なる概念の欺瞞を暴くためだった。琴子は自分に好意を、愛情を寄せているが、そんな思いは冷たく無下にしてやれば簡単に覆ると伊織は考えていた。それが彼女を絶望させ、両親への復讐にも繋がるだろう。少女の無垢な恋心を憎悪へと反転させられれば、愛など所詮迷妄にすぎないという彼の理論は証明されるのだ。

 

 しかし覆されたのは伊織の予想のほうだった。琴子はその印象に反し、一瞬驚き恐怖はしたがそれで心折れることはなかった。自分の誠意を一蹴されても、彼女は愛情を投げ出さなかったのである。

 

 とはいえ伊織にはまだ手があった。より凄惨な形で琴子を葬る算段を彼は既に考えていた。

 

「じゃあ、もう行こうか。こんな時間だし」

 

 琴子はケーキの袋を持ち直し、軽く空を仰いだ。気づけば辺りは暗くなっていた。伊織は自分が人混みの中にいることを思い出し、早く立ち去ろうと歩き出した。琴子も後に続き、伊織の隣を歩こうと彼の横に躍り出た。彼に受け取ってもらえなかったケーキを大事に抱えている。


 街灯の白い光が世界を照らしていた。その光の中で、琴子のくすんだ黒髪が灰色に輝いたのを伊織は見た。あの突き返したケーキは、この少女が一人寂しく食べるのだろうと、彼の中に奇妙な感傷が渦巻いた。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る