第8話 要求


 昼休みになり食堂でカツサンドを買った伊織は、いつものように池の畔へと向かった。しかし自分の憩いの場所に行くというのに、その表情は険しい。彼はある事態を予測していた。

 

 ベンチに座り、カツサンドの封を開けようとすると、落ち葉が踏み散らされる音がした。音の方を見る。鈴木琴子がそこにいた。手に包みを持って、たどたどしい足取りで木々の間を抜けてくる。露出した木の根や地面のくぼみに躓きそうになりながら、伊織のもとに近づいてきた。

 

 恥ずかしげに彼女は言う。

 

「お昼、一緒にいいかな」

 

 これが伊織の予測していた事態だった。彼女は伊織の学校内唯一の憩いの場である池の畔の存在と、そこで彼がいつも昼食を摂ることを知っている。であるとすれば、綾瀬伊織の恋人となった彼女は、容易にその結界を破り、自分と同じ空間で同じ時間を過ごそうとするだろうと、伊織は考えていたのだ。そしてそれは現実となり、伊織の孤独の楽園は無惨に破壊された。

 

 伊織は答えなかった。否定も肯定もできなかったのである。相手の沈黙を許しと受け取り、琴子は伊織の隣に座った。二人分の重量に、ベンチはかつてないほど軋んだ。

 

 伊織は考えることをやめて、とにかくカツサンドを片付けようとした。彼は封を開けるのに手こずった。指先がやたらと滑り、ビニールが逃げてしまう。仕方なく爪を立てて力ずくで穴を開けた。ビニールが裂ける音が悲鳴のようだった。

 

 カツサンドを頬張った伊織は、しみこんだ甘ったるいソースに胸焼けしそうになりながら、琴子のほうを見た。琴子は包みから出した小さな弁当を、ゆっくり静かに食べていた。一見淑女じみた丁寧な食事姿だったが、それが彼女の気弱さからくるものなのは明白だった。草食獣が肉食獣から隠れて、身を潜めて草をはむのと同じことなのだった。

 

 大した量ではなかったので、カツサンドをすぐに平らげた伊織は、その場から動くことも出来ず、沈黙を続けた。ただ琴子が食事を終えるのを待つしかなかった。しかし待ったところで、そこから先に何かがあるわけでもないのは彼自身にも明らかだった。人との関わりを拒んできた伊織は、他者と交流する術を持たない。同じ屋根の下で暮らす恵理や昌子とでさえ、相手から話しかけられない限りは会話にならないのである。静止と沈黙だけが彼に残された選択肢だった。

 

 伊織は後悔した。なぜあの時、自分はあんな試練をこの少女に突きつけたのか。いつものように素っ気ない態度で、にべもなく断れば全ては終わっていたのだ。今となっては全てが終わったのは自分のほうだった。この池の畔も、もはや綾瀬伊織一人のものではなくなってしまった。

 

 伊織が悲嘆に暮れているうちに琴子は食べ終え、食べかす一つ残さず空になった弁当箱を包みに戻した。ごちそうさまでした、とか細い声が響いた。

 

 弁当箱を脇に置いた琴子は伊織の方を見た。伊織も琴子を見ていたので、二人の視線が重なった。瞬間、伊織は自分と同居する少女、恵理と視線が交差した時の事を思い出し、咄嗟に無意識的に、二つの体験を比較した。それらは全く異なる感触を持っていた。伊織は両者の差異がどこから来るのか、その正体を探ろうとした。

 

 恵理との視線の交差は、どこか気まずさや重荷に似た感覚を伴うものだった。一方、琴子との視線の重なりは、本能的な嫌悪、拒絶反応、一種の恐れとも言える衝撃をもって伊織に降り注いだ。彼はこの自分にのしかかる衝撃に覚えがあった。

 

 痛感する伊織をよそに、彼が粗食で昼食を済ませたのを見て、琴子は微笑みながら言った。

 

「ご飯、それで全部なの? サンドイッチだよね。もっとちゃんとしたもの、食べなきゃだめだよ」

 

 それは母親の言葉だった。声色こそ穏やかだったが、伊織がかつて幾度母に言われたか知れない、精神を束縛し支配する言葉だった。伊織は戦慄し、確信した。あの色あせて死に絶えた夕焼けが幻視される。母の影が琴子の背後からせり上がる。傍らには父もいる。ふたつの影法師が自分を見下ろしている。近くから、遠くから、距離という概念の喪失した位置から、真っ黒の冷たい視線で、見つめている。鈴木琴子という少女は、伊織の両親そのものだった。死したふたりの、蘇った姿なのだった。

 

「ああ……」

 

 伊織は声を漏らした。全てに納得がいったのだ。なぜあの時、自分は琴子の告白を断らずに、あんな試練など突きつけたのか。なぜ彼女を試すような真似をしたのか。それは死した両親への挑戦であり、復讐だったのだ。思いかえせば自分は両親にされるがままだった。どんな苦しみを押しつけられようと、幼く無力な自分はなんの抵抗もできなかった。その恨みつらみを、今こそ晴らそうとしていたのだ。両親の生まれ変わりである、この消えゆくような少女に向かって……。

 

 伊織の顔に密かな笑みが浮かんだ。隣の琴子が気づかないほど微かな表情だったが、確かに彼は笑っていた。そして彼女に向き直り、初めて言葉を放った。

 

「一つ、君に頼みたいことがあるんだけど、いいかな」

 

 琴子は虚を突かれた反応をした。まさかいきなり頼み事をされるとは思ってもいなかったのだ。

 

「頼みたい、こと?」

 

「ああ。君は俺と付き合っているんだから、いいだろ」

 

 伊織はさも当然の権利を行使しているかのように言ってのける。無論胸の内には、琴子に対する明確な悪意が、隠された刃物のように煌めいていた。少年の少女に対する試練、両親に対する復讐は、静かに再び動き出していた。

 

「俺はさ、甘いものが好きなんだけど」

 

 嘘である。彼に食の好みなどなかった。

 

「最近なんだかケーキが食べたくてさ。でもケーキってそう食べる機会ないだろ? だからこの機会に、君が俺にプレゼントしてくれよ」

 

 内に秘める邪念とは裏腹に、彼の要求は実に簡単なものだった。しかしそれこそが彼の狙いだった。

 

「うん。いいよ」

 

 琴子は快諾した。それくらいなら自分にもできるという、小さな献身の心が表れていた。

 

 そうこうしている間に、昼休みの時間も終わりが近づいてきた。二人は池の畔を離れて教室に戻った。教室への道中、二人は全く無言だった。少女はそれで満足なようだった。少年は元より、会話などしたくなかった。

 


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