第7話 登校


 綾瀬伊織の朝は早い。彼は大半の学生たちよりも早くに目覚め、学校へと向かう。それは同じ学校に通う恵理と、登校のタイミングを被らせないためである。自分に好意を抱いているあの少女は、もしタイミングさえ合えば一緒に登下校しようとするに違いない。伊織からすればなんとしても避けなければならない事態であり、そうならないためだけに、彼の早起きは習慣になった。通学路で他の学生達とあまり出くわさないのも、彼にとっては喜ばしいことだった。

 

 その日も伊織は早く学校に到着した。まだ外は薄明るく、日光の色に世界が染まりきっていない。冬が近づき気温もずいぶん冷え込んでいる。校舎は薄明に包まれて厳かな雰囲気を醸し出している。伊織は寂れた校門を通り、暇な時間を潰して過ごすために池の畔へと向かった。

 

 伊織にとっては、池の畔が以前とは異なった様相を呈した空間になってはいないかが気がかりだった。前日、自分の唯一の憩いの場所であったあの小さな世界で繰り広げられた、鈴木琴子の告白劇。木立の間で揺れる少女。濁り水に踏み入れられた病的な白い脚。転倒。激しく上がるしぶき。拾い上げられたボール。滴る雫。それら異常事態によって、池の畔の印象が、醜く塗りつぶされてはいないかと心配していたのだ。

 

 しかし全ては杞憂だった。木々をすり抜け、開けた空間に出ると、そこには以前と変わらぬままの、伊織のよく知る世界が確固として存在していた。積もった落ち葉、崩れかけた木製ベンチ、淀んだ池、檻のように囲む木々。いずれも見知った、彼の愛好した世界の構成物だった。皆変わらずに存在していたのである。

 

 伊織は晴れやかな気分になって、その世界の全てを全身で味わおうと努めた。ゆっくりと歩き、踏みしめた落ち葉の割れる音を聴き、身体にそよぐ微風を肌で撫で、ベンチに座り、木質が軋むのを骨身に感じた。全て心地よかった。鼻で息を吸い、周囲の物が放つありとあらゆる香りを鼻腔に捉え、賞味する。淀んだ池の臭気さえも味わい深い。全てがそこに在った。伊織は自分がこの世界に存在するのだというこの上ない実感を覚えた。見回せば自分以外に誰もいない。これこそ幸福ではないかと彼は思った。夜の名残の冷えた大気が空間に漂っていた。

 

 伊織はまさに孤独であることの美徳に包まれていた。仮にこの空間に彼以外の人間がいたら、彼が感じている多幸感とそれに伴う感動はありえなかっただろう。同時に彼の中で、人々の騙る愛情というもの対する彼の疑心は、ほとんど確信に近い物へと変わっていった。

 

 鈴木琴子は今なにを考えているのだろうと伊織は思った。あの少女は自分と交際できることに喜んでいるのか。自分の愛情が叶い、この世の真理に届いたとでも思っているのだろうか。もしそうだとすれば、それは迷妄である。綾瀬伊織は鈴木琴子の存在しない瞬間にこそ、幸福を感じているのだから。

 

 伊織は池を覗き込んだ。水面の反射する薄明かりをかいくぐり、水底へと目をやった。腐りかけの落ち葉が堆積していたのが見えたが、それだけだった。池の住人であるザリガニたちはもう姿を消していた。寒さでついに活動をやめてしまったのだろう。伊織は真に孤独だった。

 

 広大な孤独の幸福に身を委ね、伊織はただ時の流れが過ぎ去るのを観賞した。時たま風が吹き、落ち葉が転がりささやく音を聴いた。次第次第に日の光が強まり、朝が自己を主張しだす様を目撃した。世界が色づいていく。日々繰り返される出来事が美しい。孤独の中で見据える天然自然の美しさの中では、あの鈴木琴子の存在は極めて矮小なものへと変わり果てていった。

 

 そうしているうちに時間がたち、学校内に生徒たちが溢れだしていた。もう教室へと向かわねばならない。伊織は虚ろな現実へと引き戻されて、池の畔を後にした。踏みつけた落ち葉が、声を上げて散ったように思われた。

 

 校舎の中ではあらゆるものが音を立てていた。滑らかな床を蹴る上履き。開け閉めされる扉。動かされる机と椅子。肩から下ろされる鞄。飛び交う会話の数々……。伊織は耳を塞ぎたい思いだった。

 

 対して長くもない距離を歩くのに途方もない疲労を感じながら、伊織は教室へとたどり着いた。無為な時間の始まりに辟易しつつ、教室内に入ろうとした時、伊織は、廊下の反対側からやってきた琴子と出くわした。

 

 瞬間、その姿を見たとき、伊織の中で矮小化されていた彼女の存在が、急激にその輪郭を濃くしていった。琴子は相変わらず、全身から放つ薄弱感を隠そうともしていない、今にも消えてしまいそうな少女だったが、それでも彼女は、綾瀬伊織という人間の人生の道中に立ちはだかった、一つの存在としての力を取り戻したのである。人との関わりを避ける伊織にとっては、この現象は未知のものに感じられたが、見知った相手と顔を合わせるということは本来、こういった感覚を伴うものであった。

 

「お、おはよう綾瀬くん」

 

 伊織の心境も知らずに琴子は挨拶する。弱々しい声である。

 

「……おはよう」

 

 抑揚のない声で伊織は返す。いかにも無感情に見えたが、内心では琴子への嫌悪に近い感情が渦巻いていた。

 

 対して琴子は照れたような表情で微笑んで、弾むような調子で教室に入っていった。ごく短い会話の交差が、彼女を高揚させていたようだった。

 

 琴子に続いて伊織も教室に入る。その表情は芳しくない。入り口近くの席に集まっていた女子生徒のグループが、伊織の姿を見るやいなや、媚びた声で彼に挨拶した。伊織はなおさら不愉快になった。当然挨拶は無視した。

 

 自分の恋人が異性を一蹴するのを背後に感じてか、琴子はまた微笑んだ。

  


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