第16話 写真


 

 帰宅した伊織を迎えたのは昌子だった。彼女は上着を預かりリビングのドアを開けた。暖房の効いた生暖かい空気が冷えた玄関に流れ込む。伊織は中に通された。昌子が用意したお茶が食卓の上で湯気を放っている。席についてお茶を飲んだ彼は、家の中が妙に静かなことに気づいた。あの騒がしい恵理の姿が見えない。少女は出払っているようだった。

 

 静寂とお茶の香りに落ち着いた伊織に、昌子が話しかける。

 

「ねえ伊織ちゃん。私こんなものを見つけたんだけど」

 

 昌子は手に持ったものを見せた。それは写真だった。伊織はちらと目をやり、その後二度見で凝視した。写真はどこかの公園か何かで撮影されたもので、二人の男女に挟まれて子供が笑っている。その男女とは伊織の両親であり、子供は伊織自身だった。彼が幼い頃に、生前の父母と出先で撮ったものだった。

 

「片付けをしていたら出てきたのよ。きっと伊織ちゃんがこの家にやってきたとき、一緒に預かったものでしょうね。これ、伊織ちゃんにあげるわ。あなたが持っていたほうがいいでしょう?」

 

 伊織の内心も知らぬままに、昌子は写真を手渡した。彼はお茶を喉に流し込んで自室に戻った。ベッドに仰向けで寝転がり、写真を見る。持つ手の親指の爪が食い込み、平面の景色が歪んだ。

 

 写真に写された子供、幼い伊織は、両親の間で笑っていた。しかしその笑顔は作り物の笑顔であることを、写真を見る少年、現在の伊織は知っていた。彼は撮影時の記憶をとうに無くしていたが、それでもかつての自分がどういう存在だったのかはよく覚えていた。歪な舞台に立ち、小さな身体で大の大人に忖度し、自らの意思や欲求を封じ込めて生きる幼子。そういう奇怪な劇を演じていたのが、綾瀬伊織の幼少期だった。

 

 左右に立つ両親も、また笑っていた。伊織は二人の笑顔の意味を考えた。彼らの笑顔は、息子との人生の喜びを分かち合う、親としての笑顔だろうか。いや、それはありえない。この写真に残された笑顔は、足下の子供の笑顔が偽物であることも見抜けない、愚か者の無知蒙昧な、唾棄すべき薄ら笑いなのだ。人間の俗悪と迷妄の表出なのだ。

 

 伊織は写真を放り投げた。写真は不細工な軌道を描いて床に落ちた。彼の目には天井だけが映った。なにも写らない白い面のほうが、過去の風景よりも優れた絵だった。

 


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