第15話 絵画


 

 日曜日。皐月との約束がある伊織は出発の準備をしていた。自室でよそ行きに着替え、おおよその支度を済ませると、不躾に扉が開かれた。寝起きの恵理だった。パジャマ姿で片目を擦っている。休日の彼女の朝は遅かった。

 

「何してるの? さっきからゴソゴソして」

 

 あくび混じりに問いかける姿はだらしがない。伊織は辟易しつつ答えた。

 

「美術館の展覧会に行くんだ」

 

 そう言った途端、恵理の両目は見開かれた。彼女の眠気は吹き飛んだようだった。

 

「それって、皐月先輩と?」

 

 同居する少女の思わぬ察しの良さに、伊織は驚いた。しかしここでたじろぐ訳にもいかない。彼は気丈に振る舞った。

 

「ああ」

 

 冷たい声色で返答する。すると恵理の見開かれた目は再び薄くなった。

 

「そう。そうなんだ。そうなんだね」

 

 沈鬱に墜ちる少女をよそに、伊織はジャケットを羽織り、部屋を出た。予定より早い時間だったが、恵理の面倒に付き合うつもりはなかった。

 


 外の空気はすっかり冷え込んでいた。全身にまとわりつく寒気が、淀んだ空の向こう側から来る、冬の到来を告げていた。それは大口を開けて進行し、日本列島そのものを呑み込む勢いで突き進み、その軌道上の街に、白い季節の前奏の響きを奏でたのだ。吐く息は白く濁り、ジャケットを羽織った程度では肌寒いほどだった。しかしその肌寒さが、かえって神経を鋭敏にさせるように思われ、伊織は全身に外気の感触を捉えながら歩み行くことができた。これから起こる出来事を待ち受けるのに、ふさわしい集中力が心身に宿っていた。

 

 待ち合わせ場所の喫茶店で、伊織はコーヒー頼んだ。砂糖もミルクもつけず、真っ黒な液体の苦みを味わうと、自分が罰せられるようで悪くなかった。彼には希望的なものよりも絶望的なもののほうが好ましかった。コーヒーの黒い水面に緩やかな波紋が描かれた。

 

 皐月が現れたのはしばらく立ってからだった。ベージュのコートにロングスカートを組み合わせた格好で、衣服の端々と長髪を揺らしながら伊織のもとにやってきた。

 

「ごめんなさい。待った?」

 

「いや」

 

 皐月は伊織の対面に腰掛けた。知己の相手と休日に出会えたことの喜びが節々から漏れ出ているように、彼女の顔には堪えがたい笑みが浮かんでいた。伊織は少女の美しい顔を見、そして次にコーヒーの黒い水面を見やった。その二つには全く別の色相が秘められていた。

 

 皐月もコーヒーを注文した。運ばれてきたカップに砂糖とミルクをしっかりと入れ、マドラーでかき混ぜ、一口飲んだ。彼女の頬に暖かみが灯った。伊織は冷ややかだった。

 

「よく冷えるね。もうすっかり冬になったみたい」

 

 皐月は店の外に目をやる。ガラス張りから覗く風景は白みがかって見えた。

 

 二人はカップを空にして店を出た。後に残された店内の客足はまばらだった。

 


 店前のバス停で二人はバスに乗った。美術館行きのバスである。車内は暖房がよく効き、その温度のためにいささか空気が重たかった。座席に座ると、身体を包み込むような柔らかな感触がし、重い空気との間で全身が挟み込まれるようだった。

 

 バスは車体を揺らして走行した。伊織は窓際に座り外を眺めていた。とりとめもなく景色が過ぎ去られていく。すれ違う車や歩行者たちは、彼の心になんの感傷も残さなかった。

 

 ふと、道路の窪みにでも差し掛かったのか、車体が一際大きく揺れた。伊織の肩に小さな重みが触れた。それは隣に座る皐月の頭だった。彼女はいたずらっぽく笑った。

 

 バスが美術館に着くまで、小さな重みは伊織の肩に触れ続けた。

 

 十分ほどで美術館に到着した。美術館は広々とした敷地内に、二階建ての厳かな佇まいで少年少女を待ち受けていた。入り口そばの受付でチケットを提示し、二人は中に通された。落ち着いた色調の通路が、淡い照明に照らされて心地好く伸びていた。

 

 展覧会はある画家の絵を特集したものだった。会場では広間の白い壁に絵が掛けられ並べられている。油絵の鈍い色合いが、一面の白の中で咲いた花々のようだった。

 

 数人の来場客が絵を眺めていたが、その全員が年配の客だった。美術館の展覧会などは若者の興味をまったく引かないものである。伊織と皐月の二人組は、会場のなかでいささか場違いな存在だった。

 

 伊織は気まずさに顔をしかめ、歩も進まなかったが、一方皐月は嬉々として展示された絵に駆け寄った。顔を近づけ、様々な角度から覗きこみ、鑑賞者らしく小さな唸りを上げ、そして子供のように破顔してみせた。

 

 美しい少女は年配客の群れに交じって笑っていた。その様を少年は遠巻きに眺めていた。彼の目に映る少女は、いつかの屋上で静謐にたたずむ非現実じみた美少女とは似ても似つかない。和泉皐月の存在は急速に陳腐化していた。

 

 伊織の内心などつゆ知らず、皐月は彼を手招いた。ともに絵を鑑賞しようと、白い指先を上下に動かす。それは極めて俗人じみた動作だった。少女は己の存在を風化させることに余念がなかった。

 

 伊織は苦悶の表情をなんとか堪えながら、脚を動かした。遠くにぼやけて見えていた絵が次第に明瞭になっていく。彼が注目したのは一枚の宗教的モチーフの絵だった。ローブを纏った聖人が、跪く民衆に施しを与えている。その絵を見て、伊織は直感的に、この聖人にはモデルとなった人物がいることを理解した。そしてその人物は、こうして絵画のモチーフとして描かれているからこそ、高貴な存在として、非現実的な存在として後生に伝わったのであり、その実存在、すなわち絵画の中ではなく現実世界を生きた生前のその人物は、きっと取るに足らない俗人の一人にすぎなかったのだと考えた。聖人がもたらした教えや訓戒は、単なるペテンであり、施しは偽善であったのだ。ローブを纏った荘厳な姿の下に、くだらぬ自尊心や承認欲求を抱えていたに違いない。少年は冬の外気よりも冷え切った目で絵を見つめた。彼をそのような心境に至らせたという点で、絵画は芸術品としての一つの役割を無事果たしていた。

 

 聖人画を見る伊織のそばに皐月がよってきた。

 

「きれいだね」

 

 少女は空虚な感想を述べた。

 


 会場を後にして、二人は美術館に併設されたレストランで食事を摂っていた。フォークに巻き付けられたパスタが伊織の口に運ばれる。クリームソースの厚ぼったい味わいが舌の上にのたうつようだった。皐月はハンバーグをナイフで切り分けて一つ一つ食べていた。食器の小突き合う音が密かにこだまする。

 

「どうだった? 綾瀬君」

 

 咀嚼の合間に皐月は尋ねた。

 

「どうって?」

 

「展覧会、楽しかったかなって。なんだかずっと険しそうな雰囲気だったし」

 

 彼女は伊織の態度に気づいていたようだった。にわかに申し訳なさそうにしている。

 

「いや、よかったよ」

 

 適当に取り繕い、伊織はパスタをまた食べ出して会話を打ち切った。皐月も食事を再開した。二人の間に置かれた皿の中身はどんどん減っていった。

 

 食べながら、伊織は皐月をちらと見た。料理を小さな一口で食べていくその姿に、彼はなんの感動も覚えなかった。なぜ彼女への興味や好感を一切失ったのか、伊織はおおよその答えを出していた。以前、和泉皐月と出逢った時に抱いた感動。それは単なる錯覚に過ぎなかったのだ。屋上に一人、空を背景に風に吹かれて佇む美しい少女。そういったある種の幻想じみた状況に、彼の人間嫌いが一時的に欺かれただけのことだった。空の中の皐月の美しさは彫刻に似た美しさだった。しかしハンバーグをつつく皐月にそのような美しさは無い。伊織が嫌悪する迷妄と俗悪にまみれた人の群れの一員に堕してしまったのだ。

 

 伊織は店の外の空を眺めた。切れ切れの白い雲が青の中を漂っている。あの二色の中に人の愚かさの全てを還してしまえればいい。彼はそう思った。少年はわだかまる意識を虚空に投げかけた。冬空は物言わず天に広がり続けていた。

 

 食事を終えた二人はまたバスに乗り、別れた。伊織は一人帰路につく。冷めた空気だけが彼を包み込んでいた。

 


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