第19話 彷徨

 


 伊織は苦痛によろめきながら当てもなく歩いた。屋上から立ち去ったので、自然階下へと下ることになった。道中、多くの人間とすれ違い、その度に彼は、人が異様なものを目撃した際に放つ、驚愕と恐怖の入り混じった視線に晒された。すれ違った相手の中には伊織のクラスメイトの女子グループもあった。彼女たちはもはや伊織に羨望の視線を向けはしなかった。彼をかっこいい等ともてはやすこともなかった。

 

 伊織は幾度となく血塗れの顔を拭ったが、拭った手が赤く染まるばかりで一向に血は止まらなかった。止むことの無い焼けるような痛みが、絶えず彼を苦しめていた。

 

「お、おい綾瀬。おまえ大丈夫か」

 

 しゃがれ声の教師に呼び止められた。教師は皺だらけの手を伊織の肩にかけたが、伊織はそれを振り払った。歩き去っていく少年の背に、教師はそれ以上なにもしなかった。

 

 伊織が歩いている内に、やがて彼の後方から駆けてくる足音がした。

 

「伊織! 伊織っ!」

 

 猫を思わせる高い声が響く。恵理だった。彼女は息を切らし、スカートを揺らして伊織の行く手を阻んだ。その瞳には、すれ違った多くの人々と同じ驚愕の色があったが、恐怖は無く、代わりに罪悪感めいたものが渦巻いていた。

 

「そんな……。こんな、私こんなことになるとは思わなくて……」

 

 負傷している伊織以上に恵理は慌てふためいていた。

 

「私、私なの。太一先輩に告げ口したの……。伊織と皐月先輩が二人きりでいるって……。でも私、こんなつもりじゃなくて、ただ、ただ伊織を取られたくなかったから……」

 

 涙ながらに弁解する恵理を、伊織はうつろに見据えるだけだった。彼女に対してなんの感傷も抱きはしなかった。大きく泣き始めた恵理の肩を、赤く染まった手でどかし、彼はまた歩き出した。背後に少女の泣き声が聞こえた。それは次第に小さくなり、やがて消えていった。

 

 


 彷徨い歩く内に、伊織はいつの間にか池の畔にたどり着いていた。久方ぶりに、彼はかつての憩いの場所を訪れた。木々の間を抜け、広がる空間に立つと、積もる落ち葉をかき分けながら風が吹いた。冷えた空気が顔面の傷にひどく滲みた。疼く痛みに、まるで世界が自分を追い立てているような感覚を覚えた。


 苦痛にあえぐ伊織はとにかく身体を休ませようと思い、木製ベンチに腰掛けた。しかし彼が体重をかけた瞬間、ベンチは限界を超えて軋み、ついに木質が砕けて崩れ落ちてしまった。伊織は仰向けに投げ出され、地面に叩きつけられた。またしても苦痛が少年を襲った。

 

 伊織はしばらくの間、倒れたまま空を見上げていた。分厚い雲が果てしなく広がっている。見上げながら、伊織はこの冬に何度こんな空を見ただろうかと思った。淀んでどす黒く濁った雲。天空に蓋をしたような重苦しい雲。後何回こんな空を見なければならないのだろう。この世界に生き続ける限り、いつまでも続けなければならないのだろうか。空だけでは無い。人間の迷妄と俗悪。自分が憎むそれら全てのものと、どこまでも向き合わなければいけないのか。

 

 伊織の目から涙がこぼれた。傷の痛みのためではなかった。彼はこの世の全てのもののために泣いた。もうこのまま傷が悪化して、死んでしまってもかまわなかった。空と対面しながら少年は泣き続けた。そうする内に、彼の意識は遠のき、薄れていき、そして途絶えた。


 


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