第18話 殴打

 


 伊織は男子生徒に従い、彼の後についていった。体格のいい大きな背中が、目の前に広がっているのを見ると、にわかに幼少期に立ち返るような感覚がした。幼い頃、伊織はこうして両親の言葉に黙って従い、その後をついて歩いていたものだった。男子生徒が無作法にも食事中の伊織を連れ出したのも、息子の意思を顧みなかった二人の大人の姿によく似ていた。人間嫌いの少年が、傍若無人とも言える相手に従順な態度を示したのは、全て幼い日の体験からくるものなのかもしれなかった。

 

 二人の男子は会話もせず、無言で校内を進み、やがて上階へと上がっていった。そして数分ほどかけてたどり着いた場所は、例の屋上だった。入り口前の踊り場の、ほこりっぽい臭いの中で、伊織は薄々事態を察し出していた。

 

 男子生徒は渾身の腕力をこめて屋上への扉を開けた。大きな音が響き扉の枠が揺れるほどだった。その音によって、屋上の住人が二人の男子の方へと振り向いた。

 

「綾瀬君……。太一……」

 

 和泉皐月は突然の出来事に目を見開いていた。予期せぬ来訪者に驚きを隠せない。

 

「こいつの名前を先に呼ぶんだな」

 

 男子生徒、太一は顔を歪ませて吐き捨てる。

 

「皐月、おまえこいつとデートに行ったって本当か」

 

 問い詰める太一。皐月は黙っている。

 

「……答えろ!」

 

 怒号が走った。男の表情が怒りに燃えている。皐月は身体を震わせ、唇を小さく開け閉めする。伊織は目の前の状況をただ沈黙して眺めるばかりだった。

 

 少女は怯えながら、か細く答えた。

 

「は、い」

 あまりに弱々しい肯定。しかしその言葉だけで、怒りに燃える男を爆発させるには十分すぎた。

 

 瞬間、伊織の顔面に鉄拳がめり込んだ。

 

「ふざけやがって!」

 

 太一の拳が振り上げられ、振り下ろされた。美少年の端正な顔が歪む。伊織は背中から地面に倒れ込んだ。激痛が走り、うめき声が上がったが、それも一瞬だった。痛みに悶絶する間もなく、太一は倒れた身体に馬乗りになり、次々と拳を放った。

 

「人の女を! てめぇ! てめぇがっ!」

 

 繰り返される殴打に伊織はなす術もない。されるがままに唇が裂け、鼻が潰れ、血が噴き出る。

 

「殺してやる!」

 

「やめて! やめてっ!」

 

 皐月が泣きながら、太一を抱き止めた。美しい顔を涙に濡らしながら、情けなく縋り付く。

 

「離せ皐月!」

 

「やめてよ太一! ぜんぶ私が悪いの、私が! それにあなたとは、あなたとは別れるつもりだったの!」

 

 少女の掠れる叫びに、拳が止まった。太一は殴打をやめて皐月を見つめた。

 

「ごめんなさい……ごめんなさい……」

 

 皐月は泣きじゃくる。白い手で元恋人の服を掴んでいる。身体の震えが細い指先を通し、男の身体に伝わっていた。

 

 皐月を見つめる太一の表情から、次第に怒りが抜け落ち、失望のような色が浮かび、やがて虚無感へと変わっていった。彼は倒れた伊織の身体からゆっくりと離れ、立ち上がり、横たわる少年とへたり込む少女を虚しげに一瞥して、力無く歩き去って行った。

 

 倦怠感に覆われた屋上に、二人は残された。伊織の顔面は血塗れだった。美少年の面影はどこにも無く、グロテスクな肉人形という印象だけが漂っていた。出血が鼻腔と喉に逆流し、かろうじて息をしている状態だった。途切れ途切れに咳が漏れ、荒い呼気が掠れた音を立てた。

 

 号泣でぐしゃぐしゃになった顔のまま、皐月は伊織を抱き寄せた。流れる血に彼女の服が汚れる。

 

「ごめんなさい……。ぜんぶ私のせい……」

 

 うわごとのように少女は謝罪の言葉を繰り返した。苦痛にうなされる意識の中、伊織はなぜ皐月が昼休みを一人屋上で過ごしていたのかを理解した。彼女は恋人とうまくいかず、逃げるように屋上を訪れていた。ただそれだけだったのだ。神秘的な理由などなにひとつ無い、俗物的な行動の結果だった。

 

 伊織はなんとか身体を動かし、彼女の抱擁から離れた。

 

「ごめん……。ごめんなさい……」

 

 なお繰り返す少女。少年の表情は血塗れの下で冷ややかだった。

 

「……もういいよ」

 

 小さく一言だけを残し、伊織は立ち去った。

 


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