第13話 憂鬱



 夕食を終えた伊織は自室のベッドに仰向けに寝転んでいた。彼の視界には白い天井だけが映る。一日の終わりが近づく時間帯に、柔らかなベッドに身を投げ出し、しかし眠りはせずに天井を見つめるのが少年の日課になっていた。

 

 そうしている内に、次第に伊織の中に日々の出来事が反芻されだした。澱が舞うように様々な体験が浮かび上がる。まず彼が思い出したのは意外にも琴子のことだった。伊織はもう琴子とは顔を合わせることさえ無くなっていたのにも関わらず、あの薄弱な少女は強烈な印象となって彼の中に残っていた。彼女の息絶える寸前のような弱々しい笑みが、伊織の脳裏に焼き付いていた。だが彼はそれに何を思うでもなかった。ただ琴子の笑みが思い出されるという事実だけを伊織は認識していたのだった。そこには何の感傷もなく、泡沫のごとく沸いてでる過去の景色を、まばたきとともに消すのみだった。少女の主張した愛情も、振り返って見れば些細な感情の湧出にすぎなかった。愛情など所詮迷妄にすぎないという伊織の持論は、ある意味では証明されたのであろう。二人の繋がりは過去の景色に溶けて途切れていた。

 

 次に浮かんだのは皐月の存在だった。あの絶世の美少女は、それまで硬く閉ざされていた伊織の心にいともたやすく潜り込んできた。彼が他人と拒否感なくともに過ごせるというのはあり得ないことであり、彼自身にもにわかに信じがたいことだった。なぜ自分は彼女に対しては人間嫌いを発症しないのか。伊織は度々考えたが答えらしい答えは見つからない。ただ和泉皐月という少女の持つ、超然とした存在感と空気感がそうさせるとしか言えなかった。彼女は時折、どこか寂しさや悲しさ、例えようのない寂寥感を醸し出してみせる。彼女ほどの美貌の持ち主に、何の憂いがあるのだろうか。それもまた皐月の存在を謎めいたものにし、絵画のぼかした色彩のように、見る者を魅了する力となっているのは明らかだった。結局のところ、全ては彼女が美しいからという点に収束するのかもしれないと、伊織は当面の結論を見出した。

 

 むしろ彼が気がかりのはなぜ皐月が屋上を訪れているのかだった。一般的な学生であれば、昼休みという自由時間を友人たちと過ごすであろう。わざわざ孤独を選び、人気のない屋上などに現れるのは、それこそ伊織のような異端者でなければあり得ない。彼女のような美少女が、友人に恵まれていないとも考えられなかった。ただその場にいるだけで、誘蛾灯のように他者を引きつけかねないあの少女は、何を思い一人曇り空の下でたたずんでいたのか。伊織は思考を巡らせるも、答えは見えない。何もかも皐月の美しさにかき消されてしまう気がした。

 

 思考を一段落した伊織が軽く寝返りをうつと、不意に扉が開いた。恵理である。相変わらずノックも無しに他人の部屋に入り込んできた。薄黄色のパジャマ姿で、ショートパンツから細い脚が伸びている。彼女は当然の権利のように伊織のベッドに腰掛けた。彼の視界に少女の臀部が映る。恵理は横になったままの伊織を見下ろした。その表情はどこか硬い。

 

「ねぇ、皐月先輩とは仲いいの?」

 

 恵理は単刀直入に問う。伊織はその言葉になにか含みを感じた。とはいえ、彼は問いかけに対してごまかしやはぐらかしを用いる必要はなかった。皐月とは単に昼休みをともに過ごすだけの関係である。そこにやましいものは何も無い。

 

「別に。ただ同じ場所で食事をするってだけだ」

 

「ふうん」

 

 そっけない伊織の返答に、恵理は釈然としないようだった。目線を伊織から外し、天井を仰ぐ。少女は白い面を見つめる。それは猫がふとあらぬ方向に顔を向ける様によく似ていた。

 

「皐月先輩って綺麗だよね」

 

 天井を見つめたまま恵理は言う。

 

「私、自分は結構かわいいほうだと思ってたんだけど、ああいう住んでる世界が違うような人を見ると、ちょっと自信なくしちゃう」

 

 後ろ姿から、恵理の憂いを伊織は察した。彼女の自信が皐月によって打ち砕かれたのだとすると、そんな二人が仲睦まじげにしているという事実に人間世界のおぞましさを感じずにはいられない。和泉皐月、あの超常的な美少女でさえ、人の世の俗悪からは逃れられないのだろうか。

 

 伊織は恵理に皐月についてのことを尋ねようかと考えていた。なぜ彼女は一人で屋上にいたのか。交友関係はどうなっているのか。それらの疑問への答えを彼に背を向けて座っている少女は知っているはずだった。しかしそれは憚られた。何か言い知れぬ嫌悪感、奇妙な妨害する力によって、伊織の中の疑問は組み伏せられてしまった。結局、彼は恵理から何も聞き出すことができなかった。

 

 やがて恵理は部屋を出て行った。いつかのような少年への身体的接触は試みられなかった。故に伊織の身体はいたって身軽だった。

 


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