十七 鬼が出るか、蛇が出るか 肆
蚩尤が伸ばした腕。それを、
轟々と唸る嵐にでも攫われたような心地で、蚩尤は地に足が着いていない状態だった。気を抜くと、中空に放り投げられてしまうのでは無いか。蚩尤の腕を掴むものの力強さは並大抵では無かったが、それでも宙に浮いた状態が嫌な連想をさせた。
轟々と風が続く。一刻も早く、この場を離れようと勢いづいているのか恐ろしい速度で空を泳ぐ。そうしていると、落とされるという不安よりも寧ろ騶潤が吹き飛ばされないかと不安が過った。蚩尤の頸あたりに居る騶潤を、空いているもう一方の手で押さえる騶潤もまた蚩尤の衣の爪を食い込ませるほどに必死の様子。人間の姿の時よりも、余程の事が無い限りは振り落とされる事は無いだろうが、それでも万が一を考えると蚩尤は騶潤を支える手を離しはしなかった。
もう地上は暗闇に飲み込まれて、蚩尤は元いた場所を視認することは不可能に近い。蚩尤は上空を見やる。と言っても、視界に入るのは空などではなく、龍の喉や腹だ。
――なんとか、上手くいった……か
まだ危うげな速さで飛び続ける龍に腕を掴まれるという状態。それでも、無事と言える状態で目的を達成できたことに、安堵した。その、直後。漸く龍の飛行速度が緩やかになる。均衡感覚に余裕ができて、蚩尤は腕を掴む龍の手を軽く小突いた。合図に気づいたか、僅かに腕が緩む。蚩尤はもう片方の手で龍の手を掴み、力を入れるとひょいひょいと軽技のように龍の身体の上へと登って行った。そこには速度が落ち着いたことにより、同じく安堵したユマの姿があった。騶潤も場が落ち着いたからなのか、力尽きたようにずるずると蚩尤の肩から降りる。途端にユマは慌てて駆け寄った。
「騶潤! どうしたの⁉︎」
ユマは今にも泣きそうな顔で、貂を両腕で抱え上げる。ぐったりとして、軟体動物のように身体はぐにゃりと曲がってしまっている。それが返事も無いとなると、少々、嫌な想像をしてしまうかもしれない。
「ユマ、大丈夫だ。ただの疲労だ」
蚩尤が諭すように言っても、ユマから不安は消えることはない。震える声で、「本当?」と問い返す。
「ああ、そのまま寝かせてやれ」
「……うん」
ユマは騶潤を膝の上に乗せると、騶潤は身を縮こまらせるように丸まってしまった。
騶潤の背を撫でるユマを尻目に、緩やかな速度に落ち着いた龍の背の上で、蚩尤は背後を振り返る。暗闇の底へと沈んだ省都
「二度とやらねぇからな、寿命が縮む」
不満を隠しもしない口調。流石に表情までは見えないが、何となしに口調と同じで顔も不満げに違いない。
「縮むような寿命では無いと思うが」
蚩尤がしれっと言うと、またも不満げでぶっきらぼうな声が返ってきた。
「少しは反省しろ。これで、目的の物が手に入ってなかったら間抜けだぞ」
「それなら――」
蚩尤は懐にしまっておいた皮革の袋を取り出す。中には無死の妙薬と呼ばれる丸薬が収まっていた。
「二つ、手に入った」
不治の病である『黒蝕病』を治すことができるというが、一度死ぬことが条件とされる。
虚か実か。その二つの要因だけでは治りきらない様々な憶測が蚩尤の中で駆け巡る。
――これが成果になり得なければ、俺はとんだ大間抜けだがな
蚩尤は手に入れたそれを、そっと懐へと戻す。蚩尤もまた龍の背の上、ユマの隣へと腰を下ろした。ユマの膝の上では、疲れで全く動かなくなってしまった騶潤。その姿を視界に入れると、思い出されるのはほんの先ほどの光景だった。
蚩尤が薬を口に含もうとして、酷く動揺した姿。何かが
――無理をさせてしまった
自身の失態と、苦悶、まだ未知なる成果。己の慢心を呪いながら、蚩尤もまた瞼を閉じた。
◆◇◆◇◆
あっという間に過ぎ去った豪風。董仲躬が瞼を開いた時にはすでに、標的は跡形もなく消えていた。
董仲躬は唖然とするしか無かった。風が過ぎ去った方角を目で追うにも暗闇が邪魔をして、焦燥に駆られる。
「あれらを追えるか」
董仲躬はそばに居た一人に命じる。綿布越しに、その瞳は過ぎ去った風の正体を映したように一点を捉える――が。
「……駄目だ。阻まれた」
綿布越しのまま、男と思しき低い声は苦しげに答える。
「俺よりも上手の夢見がいる」
「あの獣人族の男か?」
「姿は見えなかったが、多分違う」
多分、と言うが、何かしらが垣間見えたように、視線は夜の彼方を見つめるばかり。
「他にもう一人いたんだ。それに、あちらには龍人族の仲間もいた。どう考えても個で動いてはいないぞ」
董仲躬は夢見と思しき男の言い分に、肩を落として嘆息する。
「……油断をしたのはこちらか」
董仲躬もまた、己の目には見えぬ彼方を見やる。董仲躬には豪風が過ぎ去っただけの時間だった。けれども、風が人を
――あの男、何者だったのか……
董仲躬の目線は以前、虚空を眺めたまま放心して動かない。その脳裏に過ぎるのは、いつかの記憶だった。
『
いつかの記憶を思い起こす度に、一度死んだ記憶が鮮明に蘇る。それこそ、病の苦しみも、死の苦しみも、死の瞬間でさえも。そして、死にそうな自身の横で嘲笑う、男の声と顔も。
「
その記憶を遮るように、夢見の男が董仲躬に問う。
「報告は、私がしよう。私の判断であの男を招いてしまった。判断を仰がねば」
「どうなると思う」
「さあね、あの方のお心も考えも、誰も理解などできまい」
董仲躬の目線は薬を持ち去った男が消えた方角を眺めながらも、
「何せ、誰一人このような面倒なやり口で薬を配っているのか、知らないのだ」
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霧中の人君 柊 @Hi-ragi_000
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