十六 鬼が出るか、蛇が出るか 参

 鋒が、四方八方から蚩尤へと向けられる。そんな、危機的状況にも等しい中でも、騶潤は背中を丸め、頭を抱えたままだった。「俺が……どうしよう……」と、自責の念に駆られたような言葉を呟いては、蚩尤と目線を合わせようとしない。蚩尤は周りに目を向けながらも再び騶潤の肩に手を触れれば、その肩は大きく跳ねる。だがそこで、漸く騶潤は顔を上げて蚩尤の顔を見た。


「……手順は覚えているか」


 蚩尤が一言声を掛ければ、騶潤は力無くも頷く。


「先程も言ったが、これは俺の失態だ。気に病むな。それよりも、転じられるか」


 今度は先ほどよりも強く、騶潤は頷いた。同時、騶潤の身体は波打ち、身体はみるみると小さな獣――てんの姿へと変わっていく。


「おや、お連れ様は獣人族でしたか。ですが――小さいですね」

「ああ、逃げるには良い塩梅だ」

「お連れ様だけにがすおつもりですか?」

「いや、俺も逃げる」


 貂の姿へと変わった騶潤は、蚩尤の身体を駆け上り、肩まで辿りつくとその背にしがみつく。何かを察したであろう、剣を掲げていた一人が蚩尤の首筋へと鋒を当てた。金属の冷たさが、蚩尤の首に伝わる。少しでも力を入れたなら、今にも肌に鋭利な相手が食い込むだろう。

 蚩尤は落ち着き払い、董仲躬は夜闇の中で笑った。


「どうや――」


 どうやって。そう紡がれる筈だった董仲躬の声を掻き消すように、轟――と風が唸った。突風が吹き荒び、荒れた邸は今にも崩れ落ちそうな音を立てて軋む。誰もが痛いほどの風に顔を覆った。

 蚩尤は動いた。今にも喉を掻き切りそうだった剣を払い、相手の上腕を掴むと鋒を当てていた主を思い切り手前へと引く。均衡を崩し、前のめりになった相手の背に、蚩尤はトンと乗った。そして、その者を踏み台にして、高く跳躍して見せる。その目線は、はるか上空を見つめ――夜闇に染まる空へと向けて手を伸ばしていた。


 ◆◇◆◇◆


「こりゃ凄ぇ」


 蚩尤達が向かった、邸よりもずっと離れた楼閣の上。雷堂はユマと共に、邸を見やった。もう都は眠りの中にあり、静寂を遮るのは風の音だけ。びゅうびゅう――と冷たい風が頬を切る。夜闇に包まれた都。月明かりも無い新月とあって、ただ墨で塗り潰されただけの景色だ。が、それは、夢見なる存在が無ければの話。


 今、雷堂の目には全てとはいかずとも、ユマと同じものが見えていた。いや、ユマの意思によって、雷堂にと言った方が良いだろう。雷堂の肩には、止まり木替わりに羽を休める雌鷹めだかの姿。


「あんまり長い時間は出来ないかも」

「ただの薬の受け渡しだ。そう時間は掛からないだろう。だが無理はするなよ」

「大丈夫」


 ユマの声は、雀が鳴く声のように小さかったが、力強さはその比では無かった。


 夢見の目は常夜とこよを見やる。琥珀色の猛禽類の瞳は夜を写して、墨色に染まってしまった都にぼんやりとした輪郭を持たせた。そこに、魂の色が仄かな輝きとなって都を彩る。

 ユマと同調した雷堂の瞳。その目で見やる邸は、やはりぼんやりとする。動きもはっきりとは見えず、雷堂は少々不安も覚えた。


 ――何も起きなければ、それまで。俺は合図を待てば良い

 

 近づいて、気配を消す選択は無かった。蚩尤は一つの仮説を立て、雷堂もそれに賛同したからだ。

 董仲躬の仲間には、夢見がいるかもしれない、と。


 ◇


『――それと、疑われている可能性を考慮した方が良いかもしない』


 神妙な面持ちの蚩尤は、にべもなく失態を犯したと述べた。

 

『一つの疑問点を度外視したまま勇足でこの地に赴いてしまった』

『待てよ、何を無視したって?』

『夢見の存在だ。あちらにも夢見がいると考えた方が良い。丁家の弟は、誰から話を聞いたかを覚えていない、記憶も朧げだったと言った。これが夢見によるものである可能性を考慮していなかった』

『そりゃ、文字通り夢の出来事とか言うんじゃないだろうな』

『憶測だがな。夢見が夢に干渉できる可能性は考えていなかった』

『そういや、ユマは出来ないって言ってたな。騶潤は出来るとか。けどよ、それなら騶潤はなぜ疑問に思わない。あいつは――』


 そこまで言って、雷堂は言葉に詰まる。夢見の能力には個人差が有る。ユマは夢を覗く事を当然のように言ったが、それは騶潤が当然のように出来るから、なのだろう。

 騶潤が出来る事は夢を覗く事だけで、相手の深層心理には干渉できない。または方法を知り得ないとすれば。夢見を常識で考えてはいけない。自身の知り得ない情報を、自身の知見だけで語るなどもってのほか。


『後ほど、騶潤に確認は取る。だが、騶潤がその時点で俺に疑念を投げかけなかったのであれば――そういう事なのではないだろうか』


 蚩尤の淡々とした物言い。既に得心した様子。雷堂はもう飲み込むしかないのだが、そう容易に受け入れ難い話だった。


『ああくそ、頭がこんがらがる』

『あくまでも可能性を考慮するという話だ。夢見が薬を渡す相手を選んでいた場合、そもそも薬の噂はそう大きく出回らない。それでも、何かしらのきっかけで漏れ出ることもあるだろう。ほんの少しづつ広まる筈だった噂の出始めを、たまたま騶潤が見つけ目をつけたとしたら』

『じゃあ、お前が薬を探す事自体が既に、相手方にとっては予定外って事か?』

『それも可能性だが、十二分にあり得る話ではある。ここまであまりにも簡単に来すぎてしまった。見つけるのが早すぎたんだ』

『でも突っ込むんだろ?』

『俺を誘い込んだのとしたら今はまだあちらも疑心暗鬼になっている筈。此処で引き下がれば、二度目は無いだろう。もう後戻りは出来ない』

『だがよ、何故あちらはお前を探らない。三日という猶予があれば何かしら行動できた筈だ』

『問題はそこだ。宿屋の主人に尋ねても、俺を探りに来た奴はいないそうだ。怪しい奴もうろついてはいない。だが、あちらもこちらを誘い込むつもりでいるとしたら、下手な聞き込みはしないだろう』

『宿の主人が隠している可能性は?』


 宿は下の上程度の、ぼろ宿とまではいかないが、そう質は良くもない。その割に宿代が少しばかり高く、手入れも今ひとつだ。顔を合わせた店主の人当たりは良いが、どうにも宿の状況から上辺だけの人相に思える。金さえ積まれたら、ポロッと客の情報程度吐くだろう。雷堂にも、その程度は読み取れていたが、蚩尤の言葉は雷堂の更に上をいった。

 

『あの男であれば金の二重取りぐらいするだろう。ある意味信頼できる情報筋だ』

『まだ二、三度しか顔合わせてないだろ。それとも何か、また勘か?』

『ああ、勘だ』

 

 勘と告げる蚩尤は実に清々しいまでにすっきりとした顔をして、曖昧な勘という言葉と違って確信がある。


『前から思ってたけどよ、お前のそれは――本当に勘なのか?』


 蚩尤は答えない。ただ不敵に笑って、『さあ、どうだろうな』と濁すに終わった。


 ◇

 

 蚩尤の性格上、勘という言葉の根底には、恐らく何かしらの確信がある。


 ――あいつは根拠が無いものは好まない。だのに、時々勘と言いやがる


 雷堂の胸にしこりが出来たような。今までも不可解と思いながらも、小さいことだと考えないようにしていたような。そんな、僅かな違和感に悶々としてしまう。


 だがいつまでもそうしてはいられない。先ずは目先の――今起きている問題を片付けなければ。


こうさん?」


 ふつと、雀の声が耳横で鳴る。僅かに目線を下せば、小首を傾げた雌鷹がつぶらな琥珀色の瞳で雷堂を見つめていた。


「悪い、考え事してた。そろそろ動きそうだな」

「うん」


 雷堂は一旦は考えを振り払い、目前に集中する。

 そう、夜闇の中、一際忙しく魂が動いている場所。その時、一つの色に変化があった。雷堂は動く。身体を人から龍へと変じると、今度はユマが人へ戻り、雷堂の頭へと飛び乗る。そのまま角を腕の中に抱くように――振り落とされないようにと、強く掴んだ。


「ユマ、良いか?」

「うん」


 ユマの力強い返事を耳にした雷堂は、瞬間、それまで足場にしていた屋根瓦を踏み台にして恐ろしい速度で――飛んだ。

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