十五 鬼が出るか、蛇が出るか 贰

 場の、空気が変わった。

 病に罹っている者であっても、少なからず不安は残っているかもしれない。が、それでも求めていたものが手に入ったのだ。口にする事に忌避は無いだろう。しかし、病に罹っていない者に関してはそう単純な話とはいかない。

 それまで静まっていた夜の気配がざわつき出す。薬は毒ではないと理解しつつも、困惑は大きくなるばかり。何故、病では無い現状で薬が必要なのか。そんな不安を解消する為か、董仲躬の言葉は続いた。


「今、病でなくとも、いずれあなたも病に伏す日が来るやもしれない。その時、都合よく病が治る手段が手に入るとは限らない。そもそもこの薬は、病に伏し、一度肉体と魂の乖離が必要。何やら恐ろしく聞こえるやもしれませんが、反対に言えば、死を迎えるその時まで、何の効果も無いものなのです。なので――」


 どうぞ、躊躇いなくお飲み下さい。


 それは、病の恐ろしさを目の当たりにした結果でもあっただろう。もしかしたら己も同じ目にあうやも。今回は運良く薬を手に入れただけやも。そんな思想に取り憑かれたのなら、もう惑いは消えたも同然だった。董仲躬の声に促されるように、一人、また一人と口に含む。

 蚩尤もまた、一粒口に含むふりをした。このような怪しげな薬など、騶潤の忠告が無くともそうしていた。飲んだふりをして、皮の袋へと入れて懐へしまうと辺りに目配せする。恐らく、そこに居た者の――蚩尤を除く全員が、薬を飲んだと思しき頃合い。董仲躬の言葉通り、何か変化があるわけでもなく、夜闇にはもう安堵するような呼吸ばかりが響く。しかしそれも鎮まり、ふつと静寂が広がった。そこに、再度董仲躬の声が落ちた。


「では、皆様。大切な方が家で待っていることでしょう。我々一同、一日でも早い回復をお祈り申し上げております」


 さあ、お帰りください。董仲躬の声に、何も――金品の一つも要求されないことに不安を覚えたのか、僅かに騒ついた。しかし、一人、また一人と門へと向かう姿に、次第に皆が同じ方向へと歩き出していた。蚩尤もまた騶潤を従え帰ろうとした――のだが。

  

「あなたはまだ残って頂かなくては。お話があります」


 暗闇の中、蚩尤の肩が掴まれる。男と思しき力で引き留められ、蚩尤は仕方なくその場に留まる。綿布をつけた男が、布地の向こうから睨むようにして、蚩尤の肩を力強く掴んだのだ。騶潤の背後にも人が立ち、気づけば二人は取り囲まれる形になっていた。


「どうされた」


 蚩尤は何気無く言う。しかし董仲躬もまた、冷静。ゆっくりと草を踏む音が蚩尤へと差し迫ると、周りの警戒の色も強まった。蚩尤を疑るような視線。逃がさないという敵意。蚩尤の肩を掴んだままのそれを無理やり引き剥がして、蚩尤は董仲躬の影を目で追った。

 暗闇で、蚩尤がいるであろう場所へと当然のように近づく気配。それが、黒い影の様相で蚩尤の目の前でピタリと止まった。

 

「何故、あなたは飲まなかったのですか」


 暗闇の中。蚩尤は董仲躬の目が勝ちあった気がした。真っ直ぐに、蚩尤を見やるその双眸が蚩尤だけを見つめているような。それだけではない。周りを取り囲んでいた者達の顔は面布で覆われている。それでも、視線もまた蚩尤へと向いていた。


「何の事だろうか」

「あなたは口に含んだふりをしただけですよね。あなたは妹が病に伏せっているから此処まで来られたと仰られましたが――本当にそれが目的なのでしょうか」


 見透かしたような声が蚩尤を刺す。それに合わせて、取り囲む者達の殺気立った気配が強まった。蚩尤は動じない。だが、騶潤はそうもいかなかったのだろう。蚩尤から一歩下がったその場所で立ち尽くし、僅かな呼吸の乱れがある。妙な場には慣れていても、疑念の眼差しが集まる状況ではどうやっても怖気が滲み出る。そうすると、隙を逃すまいと董仲躬がすかさず口を開く。


「おや、お付きの方はどうされたのでしょうか。嘘が露呈して、焦っている様子ですねぇ。先ほど、あなたに耳打ちをしていたようですが、何を言われていたので――ああ、もしや口に含むなとでも? 理由をお尋ねしても宜しいでしょうか?」

「俺はこれでも跡取りでな、俺に何かあると、この男は仕事も帰る場所も失う。俺よりも慎重なだけだ」

「そうですかそうですか。ですが、他の方は何事もなく服用しました。問題無いことは証明されました筈です。さあ、どうぞ」


 蚩尤に逃げ場は無くなっていた。して、どうしたものか。などと考えている暇もない。いや、必要無かった。蚩尤は迷う事なく、今し方懐にしまったばかりの袋を取り出していた。

 相も変わらず手元は暗い。それでも、一粒取り出して掌の上で転がせば、その姿はぼんやりとだが丸薬が見える気がした。

 それを、蚩尤は思い切り飲み込もうとした。が――


「ダメだ‼︎」


 騶潤が既のところで、蚩尤の手を止め、遮った。顔は見えないが、それでも焦りと怯えだけは色濃く蚩尤には感じられた。


「だめだ……これは……飲んだら……」


 息は荒く、しかし怯えたように声は震える。騶潤は蚩尤を止める為に、必死だった。


「……大丈夫だ、飲みはしない」


 蚩尤は騶潤を宥めるように言って、そのまま薬を仕舞う。蚩尤が落ち着けと諭せば、騶潤は正気を取り戻した様子だったが、「すまねぇ……」と呟く声は震えたままだった。


「あなたが謝ることじゃない。これは、俺の失態だ」


 落ち着かせるため、騶潤の肩に手を当てる。しかし、騶潤の嗚咽する声は続いて、自信を失った背中は丸まった。そこに、またも嫌味な声が届く。

 

「飲めば、信じたんですけれどねぇ」


 もう、後戻りは出来ない。蚩尤が騶潤から目線を戻せば、辺りを囲んでいた者達は蚩尤と騶潤へと近づき、董仲躬もまた距離を詰めていた。


「さて、薬を探りに来たあなたは、一体誰なのでしょうか。素直に話していただけませんか? そうすれば、お連れの方共々、無事に返して差し上げます」

「……白々しいな。最初から、俺のことを見抜いていただろう。此処で始末をつける為――下手に探られる要因を増やさぬ為、まんまと虎穴へと誘い込んだと言うわけか?」

「こちらもね、元より出来る限り、噂が出回らないようにやっていたつもりなんですよ。人の口に戸は立てられないと言いますか……人に話すなと言ったところで、どうやっても噂は広がってしまう。あなたのような方が訪ねて来る事も想定していなかったわけではない。――ただ、あなたの知識には引っ掛かりを覚えましてね。知識は武器となるとはよく言ったものだ。もしやこちらを探ろうとしているのかと、疑わざるを得なくなった。しかし、あなたも演技がお上手で。本当に妹君の為に薬をお求めになっているのなら、まあ手を貸すのも良しと判断しておりました。だから、最後の選択として、薬を飲むかどうかを試したのですよ」


 薬を飲んだのなら、薬の救いを求めに来た者だろう。しかし、薬を拒絶したのであれば、薬への疑念を抱いて探りに来た者だ。

 

「そうか、あと一歩だったか」

「ええ、素直に飲んでいたら、騙されていました――それで、あなたの目的は、薬を手にいれることでしょう。手に入れて如何するおつもりですか? あなたのお名前は? 主人の名前は?」

「吐く気はない」

「そうですか。まあ、そうですよね」

 

 董仲躬は蚩尤の眼前まで差し迫り、黒い影の僅かな表情が浮かんだ気がした。そして、「残念でしたね」、と董仲躬は愉悦混じりに言葉を吐いた。一歩、二歩と下がり、それと入れ替わるように、先程腕を掴んだ者が前へと出る。その手には、殺意の籠った得物。恐らく、剣。その得物を構える気配は、取り囲む者全員から、殺意と共に迸った。

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