十四 鬼が出るか、蛇が出るか 壹

 三日後、その日は新月だった。

 とある、廃墟となった邸。聞けば、昔は貴族か豪商でも暮らしていたのかそれなりの敷地に建てられた家屋。しかし今は、かつての栄華は見る影もなく、無惨な姿だけが取り残されたままだ。門は朽ち、扉は外れかけ、その隙間を潜れば、外壁に囲まれた邸が顔を出す。敷石は剥がれ、庭は荒れ、屋根は所々穴が開き、柱が折れて崩れている部分すらある。もう人が住まなくなってどれくらい経つのだろうか。過去の住人の幻影すら感じさせぬそこへと、蚩尤は騶潤と共に踏み込んだ。


 新月とあって、邸は暗闇に包まれている。一寸先も映さぬ闇の中、囲われた中庭には、確かに人の気配だけは蚩尤にも手に取るようにわかった。皆一様に不安気で、足音は落ち着きがない。それもそのはず。ここに入って、灯りを消すように言われてしまって、隣人どころか自身の指先すらも見えやしないのだ。もう暗闇というだけで不安と心細さに苛まれているに違いない。藁にもすがる思いで辿り着いた土地。騙されたかもと疑心暗鬼になっているかも知れない。そわそわと、草を踏む音を幾度と響かせる落ち着きのない気配と僅かな騒めきが殆どだった。


 しかし反対に、全く動じていない気配もある。

 幾人かの、暗闇の中でも慣れた様子で佇み、身動ぎの一つも無い姿。いるのかいないのか、それすら曖昧になりそうなほどに落ち着き払った様子。それこそが、董仲躬を含む太乙救苦天尊を崇める者達だろう。蚩尤達――薬を求める者は中庭に集められ、その者達は邸の一角からこちらを望む双眸だけが、存在感となってしゆうにも伝わっていた。

 そうやって蚩尤が辺りを眺めるのにも飽きた頃、ようやく一人の男の声が邸の方から響く。その声は、董仲躬のものだった。

 

「皆々様、先ずはここ迄辿り着いた事を心よりお喜び申し上げます。遠方よりお越し下さった方もございますでしょう。どなたも、ご自身か、ご家族が病に伏して、さぞや不安だった事でしょう。ここまでの旅路ご苦労様でございました。我々の力ではまだ、お一人お一人に寄り添い、お力添えをする事は難しい。しかし、皆様はここ迄辿り着いた。僅かでも、救いの手を信じて下さった」


 顔は見えない。始まった口上に耳を傾けながらも、蚩尤は辺りへの警戒は怠らなかった。と言っても、それまで不安気だった気配は一様に言葉を聞き入っている。今度は期待の存在を前にして、息を詰まらせてしまいそうなほどの緊張が伝わっていた。


「太乙救苦天尊は如何なる魂も、死後の願いにより――または生前の強き救いを求める声により、人々を救う神である。そのお力を信じ、家族を救うのだと、病を打ち払うのだと、強く願いなさい。さすれば太乙救苦天尊が願いを聞き届けて下さるでしょう」


 そこで、董仲躬は一度、紡いでいた言葉を止めた。代わりに、董仲躬と同じく邸の側で待機していたであろう者達が動き出す。ゾロゾロと幾人――六人程度が、薬を求める者達を取り囲むように並ぶ。それが合図か、董仲躬の口は再び開いた。


「さて、長々しい口上もここ迄にしましょう。私では皆様の患いを治せませんからね」


 ふっと、火が灯る。董仲躬の顔をぼんやりと映すだけの、仄かな提灯の灯り。

 

「我らが太乙救苦天尊の加護を受けた薬――無死の秘薬を飲めば、一時は病に苦しむことになろうとも、その苦しみを乗り越えた先で病に打ち勝てるでしょう」


 董仲躬は前に出た。先ず、一番前にいたであろう人物に寄り添い、問いかける。


「あなたは、どなたが薬を必要とされて?」


 問われた人物は、緊張と惑いか震えた声で答えた。


「妻です。妻はもう家を出ることは不可能です。とても、神殿まで妻が歩くことも、ましてや妻を運ぶのはとても……ここ迄来るにも、隣人の手を借りて妻の世話を頼んでいますが、いつまで力を貸してくれるか。だから早々に帰らないと……薬が、どうか薬を頂けないでしょうか」


 どうか、どうか、と尻窄む声は今にも消え入りそうだった。切なる願いの籠った声は、周りにも響いただろう。同じく救いを求める者達の同情の眼差し。同調する空気がしゆうにもひしひしと伝わり、それがどうにも――蚩尤は胸騒ぎが大きくなった気がした。


 董仲躬は次々に話を聞いて回る。その誰もが、救いを求め、悲嘆の声を上げ、ここが最後の希望なのだと訴えかけた。中には、病にかかる本人の姿もあった。神殿を頼りに省都に来たが、治療を受けるのも一月以上先なのだと言われ、殆ど、門前払いのような状態だったと。その者は農民で、省都に長期滞在する金銭は持ち合わせていない。その頃に、果たして歩けるのか……今も、右足を引き摺るように歩いているような状態だった。


 そして、最後。董仲躬は蚩尤の前まできた。


「……おや、あなたでしたか」


 驚いているような言い回しだが、その声は実に落ち着いている。ぼんやりと照らされた董仲躬の顔。目を細め、蚩尤の心中を見透かしたように、余裕の笑みを浮かべているようだった。

 蚩尤にも何か問うかと思いきや、董仲躬はそのまま振り返り当初の位置へと戻って行く。かと思えば、そのまま取り囲んでいた者達に指示を出す。その者達が近づいて、初めて顔に綿布をしているのだと気づく。気配も小さく、目の前にいても存在感が薄い。その一人が、蚩尤に何かを手渡した。


 蚩尤の掌の上には、三分程度(※一センチ程度)の丸薬が二つ。それまで大人しくしていた騶潤も気になるのか、背後からひょこりと顔を覗かせた。しかし、丸薬を目にした瞬間にそのまま背後へと戻る。薬を配る者達が遠のいた隙を見て、騶潤は恐々とした声で一言。


「絶対に飲むなよ」


 とだけ、小声で告げた。勿論、蚩尤は飲むつもりなどない。目的は達成され、あとは帰路へと着くのみ。の筈だった――。


「皆様のお手元に、丸薬を二つご用意させて頂きました。ああ、ご自身で来られた方にはお一つ」


 いつの間にか提灯の灯りが消え、夜闇の中でまたも董仲躬の声が鳴る。


「一つは、病に伏されるご家族の為。もう一つは、その信心に報いる私達の心付けと思って頂ければ」


 そう言うことか。蚩尤は手の中を覗き込む。と、同時。董仲躬の声は続いた。


「現状まだ十分な数は用意出来ない状態です。ですので、下手に人に広められては困ります。なので、どうか一つはこの場で飲んで頂きたいのです」

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