十三 太乙救苦天尊 肆

『何せこの薬――一度、死んでいただく必要がありますから』


『どうにも俺は――一度死んだらしい』


 ――一度、死ぬ

 ――死の淵から舞い戻る

 ――無死の如く、蘇る


 蚩尤は日も暮れ始めた窓辺で、一人椅子に座り呆然と思考する。無死という言葉は、珍しいものでは無い。経典に確と記載された言葉であり、とある英雄が神より授かった異能とされるものだ。

 経典によれば、無死とは文字通り死の無い肉体である。肉体と魂の楔が消える事はなく、どんな傷を負おうとも、心の臓を貫かれようとも、肉体的な死は瞬く間に癒え目を覚ます。宵闇の異形なる存在に立ち向かったほどの豪傑な存在が有する能力は、如何なる畏れにも立ち向かう姿と併せて綴られることで、その真価を発揮すると言えるだろう。


 董仲躬は多くは語らなかった。『三日後に薬を配る場を設けるから、それに参加すれば良い』とだけ告げて、蚩尤達の前から去って行ってしまったのだ。もう、薬を手に入れる一歩手前まで来ているも同然。しかし――だからこそ、蚩尤は釈然としなかった。

 緑省に辿り着き、早々に情報を手に入ってしまったこともそうだ。あまりにも順当に事が運び過ぎて、気付かぬうちに虎穴にでも飛び込んでいる気分だった。まるで、誘い込まれてでもいるような気がしてならない。勿論、それこそ不可解な話になってしまう。蚩尤は騶潤という伝手こそ頼ったが、情報を選択したのは蚩尤である。

 胸によぎる疑心。特定の夢見にしか治せぬ筈の病を治す妙薬。無死という言葉。死後に救いを与える神・太乙救苦天尊。そして、董仲躬という信心深いが、どこか信用ならない人物。蚩尤は思考を巡らせれば巡らせるほどに、胸騒ぎは大きくなっていた。 


「此処で手を引くか?」


 蚩尤は突然の声に目線を上げた。いつの間にか対面の椅子には雷堂の姿。同じ部屋にいたことは確かだが、考え込み過ぎて、雷堂が移動する気配にすら気づいていなかった。その雷堂の顔は、蚩尤ほど悩ましげではない。蚩尤を否定するでも肯定するでも無い、揺るぎない目線が蚩尤を真っ直ぐに捉えていた。ただ、雷堂もきな臭いとは感じているからこその言葉ではあっただろう。

 現状、蚩尤は命令で動いているわけではない。そのような噂があったと、上役――父に伝えることも可能である。雷堂は、それとなく安全圏の選択を提示したにすぎない。しかし、蚩尤はそれを淡々と否定した。


「いや、探るべきだ。本当に黒い病を治せる薬などと触れ回っている理由を探らねばならん。死に戻る薬など、現実的にあり得ないと思いたいが、丁家の兄は実際に病の淵から生還した。偶然か、それとも本当に薬の効果なのか……そもそも、天上聖母ですらこの病は治らないと言っている。もしかしたら、丁家の兄の病が別のものだったという話の可能性も無きにしもあらずではあるが……」

「三日後だったか、俺は待機のままか?」

「ああ、龍人族が探っているとなると警戒心が生まれる。下手に藪を突くような真似は避けたい」


 龍人族は病に罹らない。何のために探る必要があるか、僅かな疑念も現状避けねばならないだろう。それ自体は雷堂も賛同していたようで、「ああ」と頷くも「それで」と続けた。


「あとは何を懸念しているんだ」

「わざわざ無死という言葉を選んだ理由が判らない」

「一度、死ぬんだろ? かの英雄とまではいかなくとも、効能を示すには一番近い名前じゃないか?」

「無死とは、何度死しても息を吹き返す能力だ。経典にもあり、神秘性も高いだろう。だが、太乙救苦天尊を崇めているのに、何故異なる伝承を連想させる」

「そこは、単純に考えたら駄目なのか。他に妙案が無かったとか。太乙救苦天尊を信奉しているというなら、経典もしっかりと読み込んでいるだろう。人に根付いて、それこそ分かり易い名前というと、無死それだった、じゃ駄目なのかよ」

「確かに経典は浸透性があり、無死なる言葉を知っている者も多いだろう。だが、丁兄弟は無死の妙薬とは一言も言わなかった……いやこれは、まだ薬の存在自体が秘匿とされているからあえて口にしなかったとも言えるか」

「最終的には薬を広めることも考慮しているとか? けどまあ、一度死ぬなんて触込みは下手に広めれば神殿や政府に何を言われるか分かったもんじゃねぇな。今は慎重に動いて、直に堂々と何か――」


 雷堂は考えついたままを口にしているだけだろう。それでも、蚩尤とはまた違った目線が言語化され、ふつと蚩尤の頭が持ち上がった。


「早急に広まりすぎるのは都合が悪い。効能自体には問題なく、ただ死という言葉が不安を煽る。だからこそ神秘性の高い無死なる言葉を使った。無死なれば、死を畏れることもなくなる。結果、効能自体が確かであれば、自然に太乙救苦天尊の噂は広まるだろう……今は大きく広める前段階といったところだとすれば……」

「そうやって聞くと、単純に一度死ぬことを忌避されないようにしているだけとも聞こえるが」

「そうかもしれない。だが、薬を広める前に調べられると都合が悪いと考えているようにも思える。だからこそ少しずつ広め――それこそ、董仲躬とうちゅうきゅうの言葉通り、天上聖母のような求心力を得て信仰が広まる可能性もある。その頃には、神殿や政府が薬の流通を止めようとすれば、今度は神殿や政府への不信感へ繋がるだろうな」

「……相手の動きを見極めるにも、手を打つにも、早めの方が良い、と」

「ああ――今は、どうやっても憶測の域を出ない。だからこそ、矢張り行かねばならん」


 雷堂は、一つ息を吐く。勿論、結論が出て安堵したのではないだろう。


「武器は」

「下手に薮は突かないと言っただろう。置いていく」

「お前に何かあると俺は殺されるんだが」

「肝に銘じておこう」


 そう言って蚩尤は、まだ尽きぬ不安を抱えながらも、臍を曲げたように晴れない表情をする雷堂に向けて、薄く笑った。

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