犬は癒やし



 耳鳴りが酷い。瞼をぎゅっと瞑って衝動をやり過ごして、気が付けば、皇子が宙を掴む形で固まっている。

「……だいじょうぶか?」

 皇子が聞く。

「え? ええはい。大丈夫。全然。すみません」

 無意識にそこから飛び退いてしまったらしい。まだ心臓がドキドキしてる。本当、おかしいよな。死んでるのに。

「……」

 わたしをじっと見つめて皇子は手を降ろす。

 しまった。気まずい。

 何も言ってこないし。

「……えっと、じゃあ、えっと、そうだ、手。わたしの手元、見てて下さいね。物を掴もうとしても駄目なんですよ。ほら食器も擦り抜ける。ね? だから残念。給仕は出来ません。あ。そもそも勇者とか最初から無理ですね。無能ですみません。でもモモは皇子に触れていたじゃないですか。だからモモは物に触れるんだと思って、ならごはん食べさせてあげたいじゃないですか。わたしモモが食べるところを見るの好きなんですよね」

 口数が無駄に多くなるわたしに、

「あなたは他人に触れられるのが苦手なんだな。自分から触るのなら平気か?」

 落ち着かせるような声でゆっくり聞いてくる。皇子の癖に。

「……」

「そうか……俺が怖いか」

「んなわけないし! あれ? 触れた」

 ぷにぷにしてる肌は、流石の若さで。

 触れる。なんならずっと触れてたいぐらいに気持ちが良い。

「らからひっらろ」

 いけね。皇子がされるがままだからつい無心に頬を伸ばしてた。そっと指を離す。

「……何でわたし、皇子だけ触れるんだろ。もしかして召喚者だからか?」

「どうだろうな」

「え。ちょっと待て。結局モモはミルク飲めるのか!?」

「心配するのはそこか」

「うう。でも待ってる。駄目だったらごめんモモ。お座り」

 ちょこと座る犬。

「顎」

 とふ、と手のひらに顎を乗せてくる。

「……そういう時の芸というのは『お手』ではないのか?」

 後ろから覗いてる皇子が聞いてくる。

「よく知ってますね。でもこの子は足が短いからお手はあんまり好きじゃないです。手に顎を乗せるのは好きなんですよ」

 手の上に顎を乗せたまま落ち着いてるモモの体温が気持ち良い。

「……躾を犬の好きにして良いものなのか?」

「躾に暴力なんて必要ないんです」 強めに言う。「……まあ、わたしは飼い主として甘い自覚はありますけど。でもちゃんと待てているでしょう?」

 気ままな性格の癖して、今はじっと号令を待っている。

 何でそこだけ律儀で健気なのかわからんけど。

「どうぞ」

 言ったと同時に皿に向かってミルクを飲む。ぴちゃぴちゃと響く音。 


 しばらくして皇子が聞いてくる。

「……飲めたのか?」

 心配そうな声音に笑ってしまう。

「はい。おいしそうに」

 間が空く。皇子はふっと息を吐く。

「なら、良かった」


 ──と、

「モモ?」

 モモが唐突にてってけ走っていくから慌てる。

 小さな庭に出た。背の低い木が数本植えられていて、ひとつにはオレンジ色をした実がなっている。どうやら木の実を食べに来た鳥が気になったらしい。

 走ったところで鳥が掴まえられるわけもないのだけれど、追ってるうちに楽しくなってきたらしく、走り回って遊ぴはじめた。

「わあ」

 走っている姿だけで感動する。箱庭みたいな空間だ。

「見ていたいならそこに座ると良い」

 庭が見えるよう外に張り出した板敷きの通路を差して言うから座ってみる。

 木の建物なんてどうかと思ったけれど……日差しに眩しさはなく、暖かだ。そよそよと頬に当たる風が心地良い。

「……居心地は良いですね。この建物」

「俺が一番贅沢している庭だ。縁側で日向ぼっこが出来る」

「ヒナタボッコ」

「ここは昔住んでた家に少し似てるんだ。さくらの言った通りだな」

「わたしが言った? どの台詞ですか」

「元々は使用人の棲み処だったって話さ。ここを自室にしたいと言ったのは俺の我が儘だったが、宰相も誰も反対しなかったのは嬉しかったな」

 まるで幸運だったように言う。

「皇子が使用人の住居に住もうとするかな……」

「落ち着くと言ったろう? 俺は三歳までは母と市井で暮らしてた。これほど立派な建物ではなかったが」

「これで立派って、どんな家に住んでたんですか」

「貧民街」

「へえ……え。貧民街!?」

「でも食べるものには困らなかったし、近所の人たちも親切だったし、悪い場所ではなかった」

 どうして。そう聞きかけて止める。

 事情は全くわからない。わからないが、その後、彼の母親がどうなったのか、それだけは予想がついたから。

「だから皇子は下々の事情に詳しいんですか……って待って三歳って、記憶あります? わたしは三歳の頃なんてろくに覚えてないですよ。その頃は一人っ子だったか? 弟生まれたのをおぼろげに覚えてるだけですよ?」

「弟とは年が離れていたのか」

「……そう、ですね」

 会話が途切れる。

 モモの様子を眺めていると、皇子は調子を変えるように明るい声で続ける。

「俺は全部覚えてるぞ。母がいつも寝物語に楽しい童話を話してくれた。それで勇者の心躍る冒険談を知ったから勇者に憧れた」

「全部覚えてるは言い過ぎでしょうに」

 なるほど。

 ──教育という名の洗脳が正しく行われていたら宰相の方針に疑問なんて持たない。この閉鎖的な環境で皇子の思考が意外とまっとうなのは母親の存在があったおかげか。

「幸せな記憶は全部そこにある。だから宮城の暮らしにいつまでも馴染めなくて叱られるんだが」

 その記憶のおかげでまっとうな事が、この子にとって救いなのかどうかは判断が難しいところだけれど。

「……さっきの騎士は尊い身分の方ですか?」

「騎士? 急に何だ」 訝しみながらも、「……わからない。騎士は花形だから聖職者と並んで貴族の次男三男の行き先としての人気は高い。爵位を継げなかった連中の箔付けになるから確かに身分が高い者は多いが……本来あれは実力が伴わないとならぬから平民も多い。アーサーという騎士の名は黒子が知っていた。となると武勲を立てたかして、優秀な者だと思う。彼は平民だろう」

「……優秀だから平民?」

「同じ土台にいるなら狭き門なのだから平民の方が優れてるだろう。それに黒子らは下級貴族の名は覚えぬ」

 意外に細かく教えてくれる。

「職業じゃ身分の判断が出来ないんですね。でも見た目でわかりません? よくあるじゃないですか。例えば貴族は白騎士団でホワイトカラー、平民は青騎士団でブルーカラー着てる、みたいな区分け」

「ない。同じだ。身分を外見で判断するのは卑しい行為とされている」

「へえ。この国は平民と貴族を平等に扱うんですか」

「いいや。見た目では隠すが、見えないところで差を付けている」

「……複雑な真似しますね。それがここの常識ですか? 珍しい……かどうかはこの世界を知らないわたしが言うことじゃないか」

「俺も少し変わってると思う。宮殿特有だろうな。ここに来た時に戸惑った覚えはあるから気持ちはわかるぞ」

「宮殿に来たの三歳だったんですよね!?」

「理由は見当がつくがな。おそらく最上位の身分である黒子が姿形を隠しているから下位の者も習うしかないのだろう」

「え。アレ最上位なんですか!?」

「皇族を除けば一番尊いのは黒子だ」


「でも黒子って──」

 犬が庭の外に向かって吠える。


「黒子は皇族に直接仕える事が出来る、本来なら一番の名誉職だ。元々皇族というのは不可侵であるから直接触れる機会が得られる下働きの競争率は高く、高貴な者でもなりたがるのだが流石に差し障りがある。故に、身分がわからぬよう顔を隠す職となった」

「……はあ。なんか、すごい話ですね」

「俺の黒子になる理由は別だがな。嫌がらせをしても顔がわからなければバレない」

「なんでそんな」

「もうわかってるだろう? 俺は正統な皇族ではない庶子だ」



   ◇ ◆◆◆ ◇



「本来なら俺なぞに継承権など無い。だが皇家の血を引き、生きている子はもう俺しか残っていない」

 皇族が減るって。

「政権争いでもあったんですか?」

「争いがあったわけではない。皇族というのは皆、病弱でな。殆どが生まれる前に死んでいく。運良く生まれてきても三年保たず亡くなってしまう。継承者がいないあまり、帝が以前手を付けた奴隷の子を市井から捜して連れてこなけれならなかった程に」

「ああ。それはまた……厄介な遺伝病でも持っているんじゃないかなあ」

 似たような話はどこにでもある。

 権力者は一族で婚姻を繰り返す。そうすれば権力も分散しないし、諸々の都合が良いのだが、血が濃すぎると遺伝的に弱い者しか生まれなくなる。

「皇族は神の眷属故、人の持つ遺伝病には罹らないぞ? ──表向きにはな」 遺伝病っていう単語からして理解されないんじゃないかと思ったが、予想に反して皇子は片頬を上げて笑う。「まあ、都合の悪い話は表に出てこないものだから俺も真相は知らぬ。だが我が皇族は血族同士の婚姻──同じ親を持つ子での婚姻や、親子の婚姻程度なら当たり前に行われてきたから、」

「げ」

 自分に置き換えて考えてどん引くわたしだ。弟と婚姻とか無理すぎる。

「それで健常でいられる訳が無いだろうな。俺が生き残っているのは全く別の血が混ざってしまったからだ。正統な皇族だったら短命だ」

「……んだそれ。遺伝病の概念もしっかりあるのに近親婚繰り返すのは余計に駄目じゃないですか」

「遺伝病などより優先される物がある」

 血族同士の婚姻のリスクを知りながら、血を薄める選択肢はなかったって事か?

 そうまでして皇族の血が重要なのか?

 そうまでして権力にしがみついていたいのか?

「……それはそれは。高貴な一族だことで」

 その言葉は皮肉だったが真面目に受け取られた。

「その通りだ。……しょせん俺は尊い皇家を卑賤の血で穢す紛いものだ」

「ヒセンのチでケがスマがイモノ?」

 咄嗟に頭の中で変換できない。

「俺は宰相の後ろ盾がなければ平民にすら劣る身分なのだ」

「ちょっと、もうわたしにはわからない話です」

「母は平民ならまだしも、婢だったのだ」

「……めやつこってなんですか?」

「最下層の身分だ。奴卑の中で流民や犯罪者がこの身分に落とされる。奴隷の中でも一番安く、端金はしたがねで売価される」

「ふうん。純血がそんなに偉いですかね? 犬なら雑種の方が丈夫ですよ。モモも芝犬系の母とダックスの父の子供なんです。雑種は良いものです」

「……ざっしゅ」

 不思議そうに繰り返した相手に笑いかける。

「この国の信仰って皇族信仰なんですか? ただの人を神格化するから無理が出てくるのに」

「信仰する神は別にある。元神を信仰しているのが教会だ。皇族はその神の愛を一身に受けるが故に現つ神として信仰対象になるのだ。ただの人ではない──神の遣いであり神に愛される皇族がある限り、この国は飢えず乾かず滅ぶことがない。だから皇族の血は最も尊ばれ守られねばならぬ」

「もう良いです。皇族が尊いのはわかりました。反論しませんよ」 肩を竦める。「つまり、神の遣いである尊い皇族で生き残った皇子って選ばれた子じゃないですか」

 ──少しばかりおだてたつもりだった。けど、

「俺は違う」 強い口調できっぱり否定される。「俺は生まれてはいけなかった人間だ」

「……え?」

「俺がいなければ母は殺されなかった。民も苦めなかった」

「……」 呆けてしまって、はっとするる「違うでしょうそれは、皇子のせいじゃない」

「……」

「聞いてます? 母親が殺されるとか、んなの子供ひとりの責任なわけがないんです」

「……」

 ショックを受ける一方、やっぱりと納得している自分がいる。──おそらくそうだろうなと予想していた。皇子を教育する上で奴隷の母親なんて邪魔でしかないし、唯一の肉親を始末すれば子供は言いなりになる。

 いつの間にかモモは遊ぶのを止めて、一点を見つめてる。

「……お母様が亡くなったのは何年前ですか?」

「俺がここに連れて来られて一年経った頃だ」

「九年前……? 塔の崩落に巻き込まれたとか?」

 どこで聞いたんだ? って顔で見られて、ただ肩をすくめる。

「黒水晶の塔が砕けた時よりは前だな」

「どうやって殺されたんです?」

 滅茶苦茶失礼な質問の自覚はある。けど皇子は淡々と答える。

「母は目の前で首を切られた。即死だったのは救いだった筈だ」

 がさっと林が揺れた音を呆然と聞く。

「ささ、さらっと言わないでくださいよ! びびびっくりした。冗談ですよね」

「冗談なら良かったが事実だ」

 かせる為に聞いたけども!

 キツい質問にどこまで律儀に答えてるんだ。

「……。ねえ。皇子は勇者を召喚に何を求めていたんです? 何をしようとしてたんです?」

「そもそもの話か……騎士の話を聞いたろう? 今起こっているのは我が国ではあり得ない事態だ」

「……あり得ない?」

「九年前、黒水晶の塔が砕け散った時まで我が国では悪天候も飢饉も流行病も、どれも起こった事がなかった」

「いやそっちのがあり得ないでしょ!?」

「だから俺の責任なのだろう。厄災は全て俺が皇子として宮殿に上がってから起こっている。……恐らく、このままでは我が国は滅ぶ。なのに止め方が、わからない。苦肉の策で、打開策としての召喚だった」

「……」 犬がまた外に向かって吠えてる。「ああ、うん。モモは偉いね」

 皇子がふと笑う。

「犬が無駄吠えしても褒めるのか。さくらは本当に甘い飼い主だな」

「そりゃ、ちゃんと仕事したら褒めますよ。盗み聞きしてる相手には鳴き声が届かないから牽制にはならないんですけどね。ちょっと尾行してきますね」

「は?」

「ああ、帰ってくるのでご心配なく。モモ、行くよ」

「俺も行く」

 訳も解らず立ち上がろうとするから、

「皇子が来たらバレるから駄目です」 屈んで顔を覗き込む。尚も開こうとした唇に指を落として黙らせる。「大人しく待っておいで」


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