急転直下


 ピー、ガッ。



『対象は無事か?』


 今のはなんの音だろうと疑問が浮かんだ次に聞こえたのは籠もった声だった。目を上げる。こちらを覗き込んでくる亜麻色の瞳。インカムとマスクをつけた男に背を支えられていた。

「あー」 理性がある。髪も亜麻色の青年はちらっと眉を顰めて、「ギリセーフ?」

 ……心臓跳ねた。びっっくりした。だだ誰だ? いつの間に? 前回、こんなの展開はなかった。てか、誰だ?

『ギリ? なぜ疑問符を付ける』

 くぐもってはいるが、インカム越しの声には聞き覚えがあった。つい最近。亜麻色が答える。

「ボロボロだもん。殴られてる」

『げ』

「でもまだ犯られてはいないよ。殴られちゃった分の責任は代表して怒られてよね。隊長」

『わかった。油断はするな』

 亜麻色の男がひゅーう、と意味の無い音を立てて無線の向こうを囃し立てる。

「おっとこまえー」


「制圧完了」

「ふはははは! アルファに打ち勝った!」

「……あれだけ下準備して、あれだけギミック投入して、多人数で獣に墜ちた相手に勝って、よく素直に喜べるよねえ」

「充分凄いだろ。あの年寄り」

「俺は年寄りじゃねえよ! 年寄り共の引率だ!」

「まだ立ってるアルファはいませんかー? いませんねー?」

「いるぞ」

「あっ?」


 ダレかとダレかの会話を聞きながら、くらりと意識が遠のきそうになる。気を抜けば気絶しそう。

 気を抜ける場面じゃないのに、

「……ど、して」

 絞り出した声は掠れてる。理解できない。

 ……助けられた? まさか。そんなの、前回は無かった。つかこんな国籍不明の怪しい連中の侵入を許して上は何やってんだ? いやアルファの刺客が紛れ込んだ時点で失敗だけれど、この集団は何だ? 既存の組織じゃない。どうしてオメガのフェロモンを浴びて平気なんだ?

 亜麻色がマスクを外して安心させるようににっと笑う。

「大丈夫。襲わないよ? オレらベータだからね」

「申し訳ありません、さくらさん。主の制約が多く、中々国から離れられずここまで遅くなりました。間一髪でしたね。心臓に悪い」

「君が肝心な事だけは殆ど何も話さなかったから苦労したんだって。おかげでギリになったのは許してね」

 知らない眼鏡に親しげに名前を呼ばれ、亜麻色には謂われの無い文句を吐かれる。

 ……本当にわたしはこの人達を知らないのか? なんか、でも、見覚えがある、ような?

 亜麻色がインカムをわたしの耳に近づける。


『はじめまして。主の要請に従い助けに馳せ参じました。とある近衛騎士団長のアーサーと申します。今、私自身はそちらには窺えず通信越しでの挨拶となる御無礼をお許し下さい。事後になりましたが私どもがシロの国次期王警護に参加する許可を求めます』

「……アー、サー?」

 近衛?

 肩書きが違う。混乱しながらもそんな事をまず考えてしまった。平民騎士団って近衛になれるのか?

「おい。責任者の許可を求めるならそいつじゃなく俺に言え」 多分に怒りを含んだ声にびくっと身が竦む。ぐいっと腕を引っ張られて身体を強制的に移動されられた。「お前、何処の者だ」

『所属国は今は伏せさせて頂きます。さくらさんはご存知です』

 不機嫌そうな殿下に目で問われて思わず頷いたが、わたしはご存じなのか? ご存じで良いのか?

「……わかった。許可する」

「良いんですか? オレ達を信用して」

「兄を助けてくれて感謝する」

 被せ気味の返答。感謝してるって声色じゃ無いんだが。


「で……で、んか」

 てか、まだ逃げてなかったのか。

 嫌だな。発情中に弟の腕の中ってどうよ。恥すぎる。荒い息を必死に整えていると低い、呪うような声がかけられる。

「逃げ口は塞がれていて、逃げられると思うか? 馬鹿が」

「あ。そ、か」 判断力鈍ってんなあ。と、見上げれば罵倒しながらも涙目だった相手に毒気を抜かれる。どうした。「……怪我、ないか?」

 心配のあまり背中に震える腕を回して確かめる。肉親の安心感は強い。てか大きくなったなあ。

「無いわ馬鹿!」 耳がキーンとした。「さくらの馬鹿! 兄さんの大馬鹿者!」

 がっと強めに頭を押されて視界が胸板だけになる。顔を見られたくないらしい。でも感覚が異様に鋭敏になっているから、わかる。

 はたはたと肩に当たる熱い滴の感触。

 ぼろっと貰い涙が零れる。


 なんだ。


 嫌われてなかったのか。


 ピー、ガッ。


『ゲート外の敵の排除はこちらにお任せを』

 ざわりと産毛が逆立った。……え?

 殿下が溜息をつく。

「外にもまだいるのか」

『裏切り者の洗い出しの方もうちの騎士がお役に立てますよ。こちらには問題を解決する準備がある』

「随分、用意が良いな。まるで」

『子細は省きますが、予知していたんでね』

「予知? 胡散臭いな。なぜ無関係の組織が俺を助けた」

『申し訳ありませんが殿下を助けたわけではありません。ついでです。番の危機には万全の態勢を整えて挑むものだろう?』

「…………お前は誰だ?」

 殿下が聞く。わたしも聞きたい。

 途中からアーサーの声じゃなくなった。

『……あァ。肩書きだけは多いので好きなように呼んで下さって結構。亡国ニホンの盟主。勇者の末裔。未来の貴方の兄』

「は? 巫山戯るな。誰が馬の骨にさくらを渡すか!」

『突っ込みどころ沢山用意してやったのに最初にそこに引っ掛かんのかよブラコンが』

 弟の手から光の速さでインカムを奪い返す見覚えのある光頭。

「あんたイキナリ喧嘩売ってどうすんですかああ!? 大国相手! 相手大国!」

 正座してインカムに向かって説教してる。どういう心境だアレ。インカム──耳に引っかける通信蟲が自分に言われても困る、とでも言いたげにうねうねと蠢いている。 

 心境は実際それどころではなかったけれど、切羽詰まった時程、わたしはどうでも良いものを観察してしまう。


 心臓がバクバクしてる。

 これ以上の刺激は危険だとおもう。しぬ。──なのに。

 閉じられていたゲートが開いた。


「誰だ!?」

 誰何したのは弟だ。すぐ傍なのにその声が何だかやけに遠くから耳に届く感じがする。自分の神経の全てが一点に集中してしまっている。新たな人物に対し、警戒してるのは残っている人間の中では弟だけだ。 

 目が吸い寄せられて離せない。


 インカムつけてる。背が高い。ほんと、無駄に背が高い割に均整の取れた体躯に、黒髪。

 黒の瞳に射竦められる。こっちを見たまま、

「カイウス」

「はっ」

 インカムを放って渡された光頭は敬礼しながらも苦り顔。

「ブラコンが過ぎて兄離れ出来ない癖にいつまでもグレたガキみたいな言動続けてるアホを前にしてお前ならどうする」

「俺を巻き込むな主」


「あおと」

 呼びかける。

「……」

「蒼翔」

 もう一度呼びかける。

「……」

「蒼翔」

 もう一度。

「…………さくら」

 睨み合いから離れてやっと真面にこっちを向いた。怒られたモモみたいな弱り顔。正直髪と瞳の色以外の面影が無い。

「お前。ほんっとうに、蒼翔か?」

「……ああ」

「いきてた、のか?」

「さくらのおかげだ」

「ほんとに?」



「……近付くな!」


 鋭い静止の声にびくんと身体が撥ねる。我に返れば弟の腕の中なんだった。警戒心バリバリで蒼翔を睨んでる。

「あの人なら殿下。大丈夫だ」

 弟は聞く耳を持たない。

「──お前はアルファだな? この状態のオメガに近付いたらどうなるかわかっているだろう。絶対に側に来るな。コイツとは親しいようだが、だったら尚の事! お互いの人生を棒に振る事になる。っおい」

「……えっ」

 かつかつかつかつ。早足で近寄ってくる──え!?

 ど、どうすれば。

「集合!」

 ざざっ、という足音と共に目の前にたくさんの人の背中が並んで蒼翔の姿が見えなくなった。


「……どういうつもりだ」

 イラッとした蒼翔の声が聞こえてくる。

 部下に阻まれている?

「いやいや、どういうつもりはそっちでしょう?」 脂汗のベディヴィアが早口で捲し立てる。「もし暴走した時には俺を止めろってな無茶な命令を出したの、アンタ自分ですからね王様!? なんであんな命令したんですか怖ええわ!」

「ステイステイ、ステイステイ、ステイステイステイ」

「無体はいけませんよ!? 後で後悔して悔やみますよ!? 許して貰えなくなったら今までの苦労が水の泡です!」

「ここはじじいに任せろ! ぬはははこういう時こそ老兵の出番なのだ。俺の屍を拾ってゆけ」


 現場は相当錯乱してる。

 鍛え抜かれた騎士とは言え、ベータがアルファに逆らうのは相当な勇気が必要だ。怖い。だが誰も退くつもりはないらしく、半泣きで壁をしてくれている背中を呆然と眺める。

 すごいな。味方につけたんだ。この人たちを。


 ピー、ガッ。


『お話中に失礼致します。私からは状況は見えはしませんが、騎士を怯えさせないで下さい主』

 今度はアーサーの声だ。

「圧は掛けてないぞ」

『どうでも良いです。ここで部下に阻止されたという事は、貴方、順番を間違えているでしょう? 突進する前に大事な事を伝えるのを忘れてはいませんか?』

「……」

 だいじなこと?

 騎士連中には通じているようで、ガクガクと頷いている。

「……う」

 なんか弱点を突かれたらしい蒼翔が呻く。

「王様、頑張れ!」

「大丈夫ですよ。長年の想いをぶっちゃけるだけだもん」

「男ならがつんと言ったれ! ほれ!」


 そして蒼翔を応援し始めた。

「……」

 察した。

 待ってみる。

「……さ、さくら」

 さっきまでの威圧的な態度から一変、多分に緊張を含んだ声色で呼びかけられる。

「うん」

 こっちまで緊張してくる。

 なんで弟と騎士の壁越しに会話してんだろ? とか我に返ったら駄目だけど。

「ひ、久し振り」

 眼の前の肩の壁が一瞬、がくんと沈んだ。

 ずっこけたな。


 和みと同時に焦燥を味わっている。


 いい加減、やせ我慢も辛くなってきたんだけど。

 ……いや気のせい。まだ大丈夫、相槌がうまく打てなくて無言で頷いたが、壁の向こうの相手には見えてないな。でもフォローは出来ない。

 今、少しでも声を漏らせば変な声になりそうで奥歯を噛んで堪えてるから。

 蒼翔がこんな良い仲間を集めた中で醜態を晒すなんざ、嫌だ絶対に嫌だ。……早く。

 

「……むり」

「おいまだ告白すらしてないぞ!?」

「だあっ!! ったら!!」 あこれ叫んだ方が発散ができてちょっと楽かも。という気付き。これは良い。ぎゅっと弟の手を握って叫ぶ。「モタモタすんな!! わたしが欲しかったらさっさと来いヘタレ! こっちは早く欲しくて辛いっつってん……、だ?」


 わたし、何を、叫んだ?


 ああああああああ。手近な安心できる腕に縋り付く。涙目。あーもーヤダヤダ。強制的発情の最中に悠長にオメガにまともに会話続けられる余裕があると思ってんのか? わたしはがんばった。もう知らん。腕に埋まって視界を塞ぐ。

「兄さん」

「ふぐ」 目の前の腕をがじがじと噛む。身内の味がちょっと落ち着くような、気がしないこともない。もしかしてわたし、もうおかしくなってるか?

「ああ良い。構うな。噛んでて良いから」 頭を撫でられる。溜息ついててもやさしい。珍しい。本物の弟じゃないかもしれない。妄想か。本物はもう兄さんなんて呼んでくれない。昔は甘えたい時は兄さんで、大人ぶりたい時はさくらと呼んできたわたしの弟。最近はもう呼び方オイとかだったからなあ。「兄さん……良いのか?」

 良いってなにが?

「彼奴を選ぶのか?」

「……んーんんん」

「すまん普通に喋ってくれ。超能力は無いからわからん」

 ぷはっと腕から口を外す。急に悲しくなる。

「……あおとがいいなあ」

 でも無理だ。なんでだっけ? わたしの存在は恥ずかしいから。蒼翔は格好良くなってしまった。置いてかれたような、寂しい。


 頭を撫でる強さがガシガシ強くなる。あー。ちょっと痛いぐらいが丁度良い。

「……兄さんは面食いだったのか? でも顔で選ぶのは止めておいた方が良いぞ。あのイケ好かない男、絶対に性格曲がって……笑うな」

「つぐがおもしろい」 くすくす笑う。「知ってる」

「…………くそっ、俺はあんな奴知らない。本当いつの間に」


 突然、

 ぐるんと視界がまわった。

 心拍数がどどどど、と急激に上昇したのがわかる。

 ──なん、だ?



「……ふん」 弟が目を眇めてこちらを見ている。「よくも兄を奪ってくれたな」

 どこか投げやりな台詞を吐く。

 ……?

 弟が遠くに見えている、理由を考える。妄想だからか?

「──最初から俺のだ」

 低音の声が耳元に。ずくんと下半身に響いた。

 ぶわりと全身が熱を持つ。有り体に言えば赤面した。

「ひ、ぇ」

 ──匂い、が。


 ──乾いた砂の匂いだ。蒼翔の体臭は、嗅いだことが無いあの砂漠を思い出した。腰が砕ける。

 蒼翔の匂いがこんなだったなんて知らなかった。蒼翔が顔を顰める。

「きついな」

 その呟きに、

「こら、暴れるな危ないぞ」

 暴れるわ! 危なげなく抱え直されて動きを封じられる。

「臭いんだろ。離せよ!」

「いや? 良い香りだ。すごく」

 ちゅと。頭の天辺に顔を埋められる感触。

「ふあっ……あ? え?」



「あー……なあ、撤収する?」

 落としたインカムを拾いながら騎士が小声でやり取りしている。

「ええ。こんななんもない通路に王と番だけ残して? んなわけにゃいかねーだろ」

「我を失いつつありますね。このままでは時と場所を選ばず初めてしまいそうで緊張します」

「お前は何を言っている」

「騎士の矜持として下品な言葉は使えません」

「じゃ安全な場所まで運んでやるか? 誰が。俺たちが?」

「どうやってだよ。やばい予感しかしないよ」


「──止めておけ。この状態の番に外野がちょっかいをかけるのは自殺行為だ」

「やっぱり? 手負いの獣みたいで嫌ですよねえシロさん」

「人を犬のように呼ぶな」

「シロの国の次期王であらせられるハルツグ殿下におかれましては」

「面倒だ。元に戻せ。親切で手を貸したつもりでも執着するタイプのアルファなら、オメガに近づくだけで普通に殺しに来るぞ。で……アレはどうなんだ?」

「執着はしてますよ。滅茶苦茶重いですもんあの人」

「騎士として死ぬのは構わない。構わないがそんな死因は御免被るぞ」


 ちゅ、ちゅ。ちゅ。会話が聞こえている最中に、リップ音が続いてる。何を思ってか、さっきから頭の天辺にキスしてくるのだけど、ぞくぞくが止まらなくて目の前の身体に縋り付く。縋り付いて、腕の男の匂いに余計に駄目になった。なにこれ弟のと全然違う。うまく力が入らない。それでいて暴れ出したい。てか……誰たよこいつ。

 まるまると肥えて意地っ張りで可愛かったわたしの蒼翔は何処に消えたんだ?

「っ……ふっ」

「ちょお、もう見ちゃいけない雰囲気になってきてんぞ? どうするんだ!? どどどうするよ!?」

「その筋肉は飾り? 落ち着けよ」

「俺は初心なんだ! もっと慌てろ最年少!」

「やっぱ撤収かね」

「……自分の判断を呪いたくなってきた。発情した兄を見知らぬアルファに与えるとは」

「弟さんごめんね」


『……粗方察しました。仕方ない。騎士は全員、マントを脱いでそこに置いていけ。周囲の安全確保の後、速やかに帰還』


 人の気配が消えていく。


「ようやく肩の力が抜けたな」

 片眉を上げて楽しげに言う蒼翔だが、おかしいだろ。人に見られてリラックスする奴が何処に居る? という思いを込めて睨み付けるが……いやホント、

「誰だよアンタ」

「……わからないか?」

「あ。ごめん、わたしが大人げなかった」

 しゅんと萎れるから罪悪感に苛まれる。先入観が消えない。だってつい、さっきまで子供だった。頭を撫でようとすると、やっぱり思ったより背が高い。顔を見ようとしたのに喉ってどうよ。くつくつと喉が動く。

「もう俺の方が年上だがな」

「は?」

 聞き捨てならない台詞にギギギギと音を立てるようなぎこちなさで首を上げてその顔を見る。

「なんさいだ」

「二十五」

 頬を包んでくる手のひらがでかい。瞳を覗き込まれて──涙がだかだかと溢れてきた。

「おい。なんで泣く」

 自分でもびっくりだわ。

「い……やっ、その!」 焦る。涙を流しながら冷や汗が出るって珍しい状況に陥っている。落ち着けようと深呼吸したらしゃっくりが出た。あかん。うろうろと視線を彷徨わせる。この腕の中からは逃れられそうにはないよな。「は、はつじょ、のせい、で情緒、狂ってんだ。放っといて。だいじょぶ」

「……そうじゃないだろう? 理由はあるはずだ。話せ」

 蒼翔に何がわかるんだよ。

 当たってるけど。

 発情のせいなのは確かだけど、壊れてるのは感情の箍だ。焦る。これじゃいろいろ只漏れだ。格好悪い。

「さくら? 聞くから言ってみろ」

 引き結んだ口を指で叩いて促される。そうされると口がびくびくして閉じてらんなくなる。

 から早口で白状した。

「か、かわってないっておもったんだ」

「……」

「瞳が同じだ。色もおなじだけど、それだけじゃなくてわたしをみる目がおなじ。ぜんぜん変わってない。すごい。いまやっと、目の前の蒼翔とあの蒼翔がつながって、よ、よかっ」

「……」

「生きててくれたんんっ、」

 頬の滴を舌で舐め取ってくる。と思う間もなく口づけられた。

 ──。

 ────。


 顎に垂れた唾液を拭われて我に返る。

 呼吸を整える。頭の中には疑問符が飛び交っている。


 ? な? なんだ? いまの。

 涙も止まったわ。

 てか涙が止まるぐらいの時間だった? 長すぎた。

「あの」

「うん?」 蕩けるような甘い笑み。すり、と耳を指で撫でられて変な声が漏れた。「く……国を留守にして大丈夫なのか?」

 聞くと蒼翔が眉を上げる。

「はじめてのキスの後に色気がないな」

 いや言うなよこの空気に耐えられないから違う話題出したんだよ分かれよ。とは思っても口には出さない。

 舌を絡め取るような濃い奴、急にするか!?

 やっぱ知らねえよお前誰だよ!?

「ていうか! お前、順番」

「理性が残っているのは何故だ?」

「んう?」

「あなたは発情している上に、俺達は運命だ。本来ならとっくに自我をなくしている筈だろ」

 首を傾げた。まるでそれが悪いみたいな言い方をする。

「……良いじゃないか、理性。ある方が。それになんだそれ運命って」

 笑ってしまうわたしを渋い顔で見下ろす。

「確かめたいんだ。あなたが大丈夫なのか」

「……大丈夫だよ」

 不安定にぐらついていたのが、キスのおかげで精神的には安定したのかもしれない。普通に笑える。

 ストッパーになっているものがあると言われればそりゃ、心当たりはあるけど。

「トラウマはあるけど平気だからさ」

 蒼翔は黙って、わたしの髪を撫で続ける。気持ち良い。ひとつ納得する。こんなんだからモモも撫でられるのが好きなんだな。くんと匂いを嗅ぐとより良い気分になった。この匂いに包まれていれば安心できる。怖くない。蒼翔は何かを躊躇っているみたいだ。自分の吐き出した台詞は不味かったかもしれない。困らせているらしいが……まあいいか。深く考えるのは面倒だ。などとたっぷり考えたぐらいの時間を置いてから、蒼翔は口を開く。

「その時の事を思い出せるか?」

「? どの時だ?」

「さくらが死ぬ直前にあった出来事だ」

 ……。陵辱の時の事を話せってのか?

「鬼畜だなあ」

 皮肉に口の端が上がる。

 蒼翔は今、この場に助けに来てくれた。しかも、わざわざベータだけで編成された部隊で。ベータならオメガの発情に引き摺られないないから──って事は、もう蒼翔は正解を大方知っている。

 確かに前は子供には早いとか言った気がするけど、大人になったから話せるって意味じゃないっての。

 ささやかに傷つきながらも根が素直なせいで、


 あれ?


 わたしの表情の変化に、蒼翔が詰めていた息を吐く。

 ……何だ?


「……おかしいな」


 


 わたしが死んだ記憶。それを順を辿って思いだそうとする。反対派の襲撃に、誘発剤を自ら射った──その後、

 ……モモに起こされた召喚の記憶に繋がってしまう。

 ……あれ?


「何も起こらなかったんだ」


「……え?」

「何も、起こっていない」

「なに、言って」

「さくらは今、生きている。生き延びた。ここであなたが死んだという運命は変わったんだ──だろう? だからくだらない記憶は消えた」

「え、でも」

 畳み掛けるように言われて混乱する。……あれ? ていうか、今わたしは何の話をしてたんだ?

「安心しろ。不都合は無い。女神には交渉済みだ」

「んなチートな! ……あれ?」

 思わず叫んだ。叫んでおいて、どうして今自分が叫んだのか、記憶が曖昧になった。

 おかしい。今、もの凄くえげつなくごり押しなチートを見せつけられた気がするのに思い出せない。

「え? 何だこれ。もやもやする……」

 ふ、と笑む蒼翔。

「この血は神には散々振り回されてきたのだ。恩恵の力なぞ、今使わずにいつ使う?」 だから何なんだよその悪い笑みは!?「それより俺に集中しろ」

「あ? ふ……あっ?」


 さっきまで、どうして平気だったのか急にわからなくなった。


 ぶわりと、自分からフェロモンが放出されたのが感覚でわかって産毛が逆立つ。その肌に触れているだけでぞくぞくする。首にかかる息が荒くて、それが嬉しくて蕩ける。

 ──やばい。駄目だ。これは駄目だ。一端離れて落ち着いた方が良い。

 なんて警告する自分の声がどこか遠くなる。

 腰が砕けるってこういう時に使うんか。


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