雪菜子 2

「人間関係?」

 雪菜子が? ……と、そのまま続けようとした唇をひん曲げ咄嗟に止める。

 雪菜子だって人間だ。悩むこともあるだろう。上手くやっていそうでも。

 けれど、悩むような、雪菜子に何か意見できるような人間はシエラの中では芳永さんくらいのもの。その芳永さんはあまり細かいことをとやかく言う人じゃない。大雑把な、良くも悪くもこだわらない性格。

「疲れるから?」

 自然、口に出た。

 疲れたじゃなく疲れるってどういうことだろう。それは現在進行系で何か雪菜子を悩ます人間関係があるように聞こえるし、また、これからそういう人間関係が始まるんじゃないかという風にも聞こえる。

 社員ってことだし、配属先のシンボルラインに誰か、知り合いで、嫌な人でもいるんだろうか?

「苦手な人でもいるの?」

 そう訊いた。だいたいをカバーできそうな問い。言いにくそうなことでも言えるよう、なるたけ軽くを心がけた。けれど雪菜子は首を振るばかりでその先を続けようとしない。

 ここに来て言葉少なになり、言い淀むことにわたしは不思議に思うと同時、たぶんここだ、ここなんだ、という予感めいたものを抱く。

 雪菜子の根幹。闇。秘密。彼女の根幹に横たわる――

 救いのない巣食い。

 チラとこちらを振り向いたその瞳に色はない。

「子供が生まれない身体なの」

 一瞬、上手く反応できなかった。わたしは眉根を思いっきり寄せていたと思う。なにいってんだこいつとでもいうような。だって――

「結婚してたっけ?」

 たぶん、わたしは告白の意味を理解出来ていない。

 セックスレスだとか、夫との間に子供が出来なくて、それをどちらの問題かで言い争いあい次第に生活に嫌気が差してきて、何もかも逃げ出したくなって家庭も子供も、みたいな、そんなインターネットの場末に転がっているような話が今まさに始まるのか……

 目。交錯。

 真摯な眼差し。瞬きが二度三度。四度。長いようで短い沈黙。

 違うな。

 雪菜子の唇が一瞬震えたように見えた。

「生まれてこれまで一回も生理が来たことない」

「そんなこと」――あるの?

「小学校で一回も来なくって、中学校で変だって思って生理用品とりあえず用意しておいて定期的に使ってもいないのに捨ててた。誰にも、絶対に言わなかった。高校に上がってしばらくして親にバレて病院に連れていかれた。先天性の欠陥だって先生に言われた」

「欠陥」

「そのあと慌てたみたいに卵巣機能不全って言ったあの先生を私は今でも覚えてる」

 いつかうぇぶりで聞いたことを改めてわたしに言う。

 売り場で聞く声。店内で挨拶交わす声。

 それよりも一段と低い声がわたしをつき刺す。

「彼氏はできたことない。いつか私に向けて言ったよね? そんなことある? って。ちゃんと覚えてるから。しっかり覚えてるから」

「彼氏くらい、なら」

 生理なんか。

 来ない方が。

 べつに、子どもができる心配をいちいちしなくていいぶん楽なんじゃない?

 言えるわけがなかった。

「できるよね。私だったら。それは。それはそう。モテるよ私。モテたんだよ私。学生時代から告白なんて何度もされたことある。みんなにも言われた。それは。けどね。手を繋いだらキスだってあって、きっとその先にはえっちだって当然あるんでしょ。知らないけどさ!」

 吐き捨てるようだった。

「私はそれが嫌。死んでも嫌。自分の裸見られるくらいなら死んだ方がマシ!」

 雪菜子の大声をはじめて聞いた。

 大声を出すような子だったんだ、と、ぼんやり思った。そうして、わたしはたぶん、いいや確実に、雪菜子をこれまで知らず傷つけてきた一員になっていたんだと知った。

「コンプレックス」

 なんて、言葉で括ってもいいものかどうか。わたしは呟いてしまったから気が付く。全身ギプスにまみれ、半身起こした雪菜子に強く睨みつけられていることに。

「どうしてわたしに言ったの?」

 だって、言う必要のないことだ。

 秘密五つなんて元より、辞めるでお終いで良かったじゃないか。なんで。

 わざわざ自分を傷つけるようなことを。

 みんなと同じ。

 傷つける側のひとりだったわたしに。

「どうしてだろうね」

 ふう、と溜息つきながら言う。険を帯びていた瞳はいくらか大人しくなり、それでも彼女の中で燻るイライラは収まっていない。それは今しがた吐いた息の温度から知れた。

「連れてきてくれたからじゃない?」

「連れてきて?」

「箒ちゃん」

 ふと、唐突に記憶が蘇った。箒ちゃんのことじゃない。いつかの――


『着てきてくれたらいいね』


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