第3話 グロリエン王太子

 ヘルミーネの行く手を遮って「待て!」と言ったグロリエンの態度は、王太子という身分といえど女性に対してするには横暴のようにもみえた。

 しかし同様にヘルミーネの態度も王太子であるグロリエンにするには、あまりにも無礼なものだ。


「ぐぬぬ……そこをどいて下さいまし!」

「うむむ……俺は待てと言っている!」


 まるで意地の張り合いの様にしてお互いの身体をぶつけながら、一歩も後に引かない二人の関係はどういうものなのか。

 そして古今無双の公爵令嬢と謳われるヘルミーネの強化された筋力に、互角のパワーを発揮しているグロリエン王太子とは一体何者なのであろう。


 彼はグロリエン・フェンバード。フェンブリア王国の二十歳になる王太子だ。その高貴な身分だけでも彼は十分な有名人であるのだが、グロリエンを本当の意味で有名にしているのが、彼が神から授かった加護『勇者』の存在であった。

 勇者の加護はここ三百年は現れていない超希少加護で、戦闘力はもちろん魔法に関しても最高レベルの能力を発揮する。しかも王家の者が授かったという記録は歴史上かつてない。


 王家からの勇者の誕生は、フェンブリア王国の未来をこの上なく明るいものにした。

 ゆえに自国でのグロリエン人気は熱狂といえるほどに凄まじい。フェンブリア王国の人々の間ではグロリエンを指して、未来の大陸の覇者だと信じて疑わないほどである。


 だがそれは裏を返せば近隣諸国にとっての脅威に他ならず、殊に隣国のペイルディス帝国からの警戒は非常に厳しかったようだ。


 ところでグロリエンとヘルミーネは、幼い頃からずっと友人関係にある。ヘルミーネの兄がグロリエンの従者をしていた縁で、ヘルミーネも王子の遊び相手をする機会が多かったからだ。

 勇者の加護という戦闘に特化された加護を持つグロリエンにとって、筋力強化により何をしようともビクともしないヘルミーネは最高の遊び相手であったのであろう────



『よしヘルミーネ、お前が勝負に勝ったらそのお人形遊びとかいう下らないものに付き合ってやるぞ』

『本当に? じゃあ殿下が赤ちゃんの役であたしがマミーの役よ。はいどうぞ』


 そう言ってグロリエンに人形を差し出したヘルミーネは、その時五歳だった。二人は三歳違いだったのでグロリエンは八歳だ。


『バカっ、何がはいどうぞだ。勝負でお前が勝ったらって言っただろ』

『まあ! ヘルミーネはバカではありません。殿下こそバカよ、あたしに一度も勝負とかで勝った事ないくせに』

『うるさいっ、今日こそは俺が勝つ!』

『ふーん、なんの勝負をするの?』

『決まってるだろ、レスリングだ!』


 結局この日はグロリエンが赤ちゃん役をするはめになったのだが、今日現在に至るまでグロリエンはヘルミーネとの勝負で一度も勝った事が無い。

 お互い負けず嫌いという性格もあり、数えきれないほどの勝負を本気でしてきた。それでもグロリエンはただの一度も勝てなかったのである。


 ちなみに上覧武術大会でも二度の決勝戦で二度とも負けている。

 だからと言ってグロリエンの心が折れたり腐ったりする事は決してなかった。彼にとってヘルミーネとの勝負は、ただの勝ち負け以上に大切な意味があったからだ。


『俺はヘルミーネとの勝負に絶対に勝って、俺の方がヘルミーネより強い事を証明してみせるんだ! それが出来ない俺ならばヘルーナの夫となる資格は無いッ』


 つまりそういう事なのだ。グロリエンは子供の頃から一途にヘルミーネを愛していた。そして勝負に勝ったら直ぐにも愛する気持ちを伝えようと思ってきた。

 だがしかし勝てないのである。だからヘルミーネが婚約したと聞く度にグロリエンは不安になり、歯軋りをして己の不甲斐なさを憎み葛藤した。


「おい、ヘルミーネ! お前をフッた婚約者の名を教えろ。その不届き者に俺が意見をしてやるっ!」

「はぁ? 余計なお世話ですわ。これ以上私に恥をかかせないで下さいまし!」

「余計ではない。お前がフラれるなど、あってはならん侮辱行為だ! 婚約者の奴は謹んで結婚をお願いするべきだろう」

「まあ! グロリエン様は私が結婚する事をお望みですの?」

「なにっ!?」


 グロリエンはすぐにはヘルミーネからの問いに答えられず、考える様にして眉根を寄せる。

 眉間の皺がどんどん深くなっていくにつれて彼の不機嫌さも増していき、「むうっ」と唸ると激しく首を横に振った。


「望んでなどいない。だがお前が侮辱されるのも我慢ならん! うーむ、困ったな……。いやまて、そもそも結婚を望んでいるのはお前だろ?」


 今度はヘルミーネがグロリエンからの問いに即答できず、小首を傾げる番となった。


「んー、それは誰とですか?」

「誰って、婚約者とに決まっているだろ」

「ご冗談を! 何で私が婚約者と結婚しなければなりませんのよ!?」

「だってその為に婚約したんだろ?」

「違いますわ、兄上が勝手に婚約を決めてくるのです」

「えっ? マッドリーの奴が何の為に?」

「えっ? 何の為って、グロリエン様は身に覚えがございませんの?」


 目を大きく見開いて驚くヘルミーネに、グロリエンは悪びれた様子もなく頷いた。


「うん、まったく」


 そう答えた瞬間である。ヘルミーネの強烈なボディブローがグロリエンのみぞおちに突き刺さった。


「グエッ! ナ、ナイスボディ……」

「ナイスボディじゃないっ!」


 さらにもう一発ボディブローを繰り出そうとするヘルミーネを、グロリエンは慌てて止めて言う。


「ま、待てヘルミーネ、落ち着け! お前は婚約の事で怒っているようだが、俺が何をしたというんだ!? マッドリーのした事が俺に関係しているのか?」

「呆れた……。本当に覚えていないのですわね。ますますムカついてきましたわ!」


 ぎりりと拳を強く握りしめたヘルミーネに、グロリエンはファイティングポーズをとって身構えた。おそらく命の危険を感じたからに違いない。


「だから待てって! ちゃんと説明してくれよ。俺に失態があったのなら謝罪するからさ、頼むよヘルミーネ」

「頼むよって……」


 ヘルミーネは握りしめていた拳を解いて脱力すると、小さく溜め息をついた。

 今まで吊り上がっていた眦も見る見るうちに垂れ下がり、むしろ悲し気な表情へと変わっていく。


「嫌ですわ」


 一言だけそう答えると、ヘルミーネは顔を俯けたままグロリエンの横を通り過ぎる。その様子の変化を心配したグロリエンの呼び止めをも無視してだ。


(あんな事を言っておいて、何も覚えてないなんて酷すぎる──)


「ちょっ、待てよヘルミーネ!」


 怒りとも悲しみとも判断のつかないモヤモヤとした不快な感情が、ヘルミーネの心にこびりつく。

 再三呼び止めるグロリエンの言葉はもはや彼女には届かない。ヘルミーネはただただこの場から急いで立ち去りたかった。


「ヘルミーネ……」


 この異変に顔色を青くし呆然と立ち竦んでしまったグロリエンは、もはや夜会どころの騒ぎではなかったのだろう。

 ヘルミーネに対してやらかしたらしい記憶にない失態を、必死で思いだそうと頭の中を探し回るのだが……


「うむむむむ」


 しかし一向にそれが見つかる気配がないのである。


「ヤバいっ、これはヤバいぞ!」


 そう叫んたグロリエンは踵を返し一直線に自分の執務室へと駆け出して行った。執務室にはヘルミーネの兄であり、自分の側近でもあるマッドリーがまだ居たはずだからだ。

 彼を捕まえて婚約のことでヘルミーネが怒っていた理由を聞かねばならない。


 蹴破るような勢いで執務室のドアを開けると、果たしてそこにはまだ仕事をしているマッドリーがいた。


「おいマッドリー! お前に聞きたい事があるっ」


 机を前に座り何かの書類を作成していたマッドリーは、グロリエンの荒々しい行動にもまったく動じた気配がない。

 眼鏡越しにちらりとだけグロリエンを確認すると「何でしょう?」と聞き、すぐに視線を書類へと戻して仕事を続けた。


 この冷静沈着な男はマッドリー・ロックス。ロックス公爵家の嫡男である。歳は二十一歳でグロリエンの一つ上だ。

 いうまでもないが、ヘルミーネの婚約を勝手にしてくる迷惑な兄とは彼の事だ。


 幼少期よりグロリエンの従者を務めてきた彼は、現在では側近となりグロリエンの右腕として補佐官をしている。

 その政治的才能と彼が授かった特殊な加護『超記憶力』により、将来グロリエンが国王となった暁には宰相になるだろうと噂される有能な人物である。


「仕事なんかしている場合か!」

「お言葉ですが殿下、仕事より優先されるものなど私は一つしか知りませんね」

「なんだその一つというのは」

「むろんヘルミーネの事です。我が妹の事は全ての事に優先されますので」

「ああそうかい、俺はそのヘルミーネの事で話があるんだよっ!」

「なっ! ヘルミーネの事ですとッ!?」


 途端マッドリーの鋭い目が眼鏡の向こうでギラリと光り、今まで見せていた冷静沈着な態度が消し飛んだのであった。

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