第27話 霧の晴れ間

 頭の中に霧がかかっている──


 ヘルミーネの意識はそんなぼんやりとして危うい感じの中にずっと漂っていた。


 しかしその霧にようやく晴れ間がのぞいたのはついさっきの事だ。

 ヘルミーネ自身は知る由もないが、おそらく比翼の鳥の効果が消滅しかけたのがその原因だろう。


 その僅かな霧の晴れ間が、ヘルミーネに劇的な変化をもたらした。

 今まで漂っていた意識がまるで目覚めたかのように、はっきりと自覚出来るようになったのだ。


 しかし──


(何だろこれ? 変だわ、この感覚は私のものじゃない。誰かの感覚が私の中にあるような……)


 それは自分であって自分でないという違和感。考えて行動しているのは紛れもなく自分であるはずなのに、自分でない者がそうしているような曖昧な感覚。

 霧の晴れ間から見えてきたのは、そういうちぐはぐな意識であった。


(確か私は精神攻撃を受けて、状態異常をおこしているのよね。ならこの変な感覚はそのせいなのかしら?)


 ヘルミーネはグロリエンが自分にそう言った事を思い出すと、急にまた違和感を覚える。


(グロリエン様が私にそう言った? 違う。私はグロリエン様が誰かにそう言っていたのを聞いていたんだ。誰に?──私にだ。けどそれは私じゃない……)


 何だか頭が変になりそうとヘルミーネが混乱していると、突然あるはずの無い感覚が流れ込んでくる。


(グロリエン様を殺したい──なにこれ? 何で私はこんなこと思っているの!?)


 それはまさしく本物の殺意だった。ヘルミーネはワケが分からなかった。

 グロリエンを殺したいという感情は微塵も無いのに、意識の中には確かにその感覚があるのだ。


 ヘルミーネは怖くなり、慌ててその殺意を取り消そうとする。しかし殺意は一向に消えようとはしない。

 まるで自分の中に他人の感情が居座っているかのようだった。


(ああもうっ、どうしたらいいのよ!)


 ヘルミーネは思わず目の前にいるグロリエンに、助けを求めようとした。

 しかしグロリエンは霧の向こうの幻影のようで、まるで実態感がない。


(グロリエン様は私に気づいていない?)


 だがそうではなかった。グロリエンは確かにヘルミーネと会話しているのだ。自分でないヘルミーネと。

 

「グロリエン様の嘘つき……」


(はっ? 何で私、そんな事言ってるの?)


 今度は自分がそう言った感覚が流れ込む。いや、確かに今そう言ったのは自分である。

 しかし口を動かして言葉を発したのは自分ではない──そう認識した途端、ヘルミーネは朧気ながら理解した。


(つまり……これって!)


 今ここにいる自分は、現実に影響を与えていないのだろう。そしてもう一人いる自分こそが、実際に現実を生きて行動している。

 そう気がついたヘルミーネは、自分は間違いなく二人いるのだと確信した。


(どうしよう! グロリエン様はこの事をご存知なのかしら?)


 むろんグロリエンは、ヘルミーネの意識が二人に別れている事など知らない。

 だが目の前にいるヘルミーネが精神支配され、尋常ではない事は分かっていた。


「ヘルミーネ、その男の言うことを信じては駄目だ!」


 アスマンの嘘を信じ、殺意の宿った目でグロリエンを見つめているヘルミーネは、すっかり人が変わって見える。


「グロリエン様の愛は私のものではなかったの? じゃあどうすれば私のものに出来るの?……」


 うわごとの様にそう呟くヘルミーネに、グロリエンはひどく不吉なものを感じた。


「よく聞いてくれ。俺はお前を愛している。お前だけをだ。俺を信じろヘルミーネ!」


(えっ? えええーーーっ!)


 そう素っ頓狂な声を上げたのは霧の中にいる方のヘルミーネだ。

 実はすでに彼女はグロリエンからの告白を聞いていた。しかしその時はまだ意識がボウっと漂っていて、何も感じる事が出来なかったのである。


 それが今、霧の晴れ間から自分の意識をハッキリと自覚出来る様になり、ヘルミーネの気持ちが初めて強く揺れ動いたのだ。


(グロリエン様が私を愛してる!?)


 ヘルミーネはにわかに信じられなかった。そもそもグロリエンが、自分を恋愛対象と見ているとは思っていなかったからだ。


(だって、グロリエン様は女性としての私に興味がなかったはずじゃ……)


 だからこそもしグロリエンの言葉が本当ならば、ヘルミーネにとってこれほど嬉しい事はない。


「そんな言葉はもういらないの。私はグロリエン様が欲しいの。グロリエン様の全部が欲しいのですわ!」


 だというのに、もう一人の自分はとんでもない我が儘を言い出した。

 せっかくグロリエンから愛の告白をされたというのに、これでは台無しになってしまうではないかとヘルミーネは焦る。


(な、何言ってるのこの人!? ブッ飛ばしたいんですけどっ!)


 しかしそれは杞憂であったようだ。グロリエンは尚も辛抱強くヘルミーネに愛を語って聞かせている。


「安心しろ。俺は全部お前のものだから」

「本当に?」

「ああ、本当だとも」

「グロリエン様の命も?」

「ん? あ、ああ、そうだな。命もだ」

「そう。良かった……」


 グロリエンはヘルミーネがホッとした表情を見せたことに、自身の胸を撫で下ろす。

 だというのにヘルミーネは、より一層強く殺意を膨らませ始めたのである。


「じゃあグロリエン様は私の為に死んで下さるのね。死んで永遠に私だけのものになって下さいますのね」


(うっ。ま、またこの嫌な感覚!)


 霧の中のヘルミーネは、殺意の感覚が膨れ上がったのを感じて背筋を凍らせる。

 と同時に、もう一人のヘルミーネが筋力強化を全開にしたのが分かった。


(えっ、何で加護を?)


 途端、グロリエンは勇者の加護を発動させて身構えた。危険を報せる警鐘を、彼の加護が鳴らしたからだ。


「何のつもりだヘルミーネ……」

「何のつもりも何も、これからグロリエン様を殺すのですわ」

「馬鹿な真似はよせ」

「どうして? さっきグロリエン様の命は私のものだって仰ったでしょ?」


 ついさっきまで祝福ムードに満ちていた平和友好の会議の場は、いまや修羅の場へと変わり果てていた。

 そんな中、アスマンだけは消滅しかけた比翼の鳥からの起死回生に、満面の笑みを浮かべて歓喜の声を上げる。


「俺の勝ちだ王太子ッ! さっさと殺されてしま──えっ!?」 


 だが何かがアスマンの顔を掠めると、彼の笑みは突然恐怖へと一転した。

 その何かとは、ヘルミーネが入口の扉からもぎ取ったドアノブである。それをアスマンめがけて投げたのだ。


「うるさいですわよ。邪魔をなさらないで下さいまし」


 壁にめり込んで潰れたドアノブは、大きな穴を開けてぼろりと落ちる。もしアスマンに直撃していたら、彼は無事では済まなかったであろう。

 アスマンはゴクリと生唾を飲み込むと、今動いたら次は本当に殺されると思った。


「さあグロリエン様、私に命を下さい」

「……冗談はよせ」

「頼んでも駄目なの? じゃあいいわ、殺してグロリエン様の愛を手に入れるから」


 霧の中のヘルミーネは二人の会話を聞きながら、何も出来ない自分がもどかしかった。


(ちょっと私のニセ者っ、馬鹿な真似はやめてよねッ!)


 だがいくら言ってもヘルミーネの言葉は、ニセ者の自分には伝わらない。

 完全な一方通行だ。そしてそれは今現在の意識と身体を支配しているのが、ニセ者の方のヘルミーネである事を物語っていた。


(お願いだからやめてよ……)


 そんな霧の中のヘルミーネの願いを嘲笑うかのようにして、ニセ者のヘルミーネは問答無用でグロリエンの腹部を殴りつける。


(ちょまっ!!)


 もちろんその攻撃はグロリエンによって油断なくガードされた。

 しかしその勢いは凄まじく、グロリエンは壁近くまで押し込まれてしまう。


「なるほど、本気のようだなヘルミーネ」

「もちろん本気で愛してますわ」


 この期に及びグロリエンは、自分も本気を出さなければヘルミーネに殺されるだろうと思った。だが本気で戦えば殺し合いの始まりだ。

 そんな事をグロリエンは望んではいない。


「ふむ。ナイスボディと言いたいところだが、いつものお前のパンチじゃないな」


 ヘルミーネと戦わずしてヘルミーネを救う方法はもはや一つしかないだろう。アスマンの身柄の確保だ。

 アスマンがこの陰謀に関わっている事は明白であり、比翼の鳥も奴の加護で間違いないとグロリエンは断定している。


「だが心配するな。今すぐお前を助けて元のパンチに戻してやるさ!」


 そう言い捨てたグロリエンは、ヘルミーネへの恐怖で身動き出来ずにいるアスマンへと視線を向けた。

 アスマンがその視線にギョッとした時、彼はすでにグロリエンにより身柄は拘束されてしまっていた。

 

「こ、これは何のつもりでしょう……」

「分かるだろ? いますぐヘルミーネの比翼の鳥を解除させろ」


 グロリエンに自分の加護がバレている事を知ったアスマンは、小さく舌打ちをする。

 まさかこんな短時間で精神支配の正体に辿り着くとは思っていなかったのだ。


「断るなら、お前を殺して加護を消すまでだ」

「やれやれ。いかにも比翼の鳥は私の加護ですが、私が使ったという証拠はどこにも無いですぞ?」

「そうかもしれんな」

「ならば私を殺せば殿下は、無辜の者を殺した殺人犯だ。帝国は貴方の暴挙を許さないでしょうな」

「それが?」

「戦争になる覚悟があるのかと問うているのですよ」


 するとグロリエンはやや大袈裟に肩を竦めて見せ、「お前らこそこの俺を敵に回す覚悟があるのか?」と不敵に言い放ったのであった。

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