第26話 暗殺の行方
「私、我慢が切れましたわッ!」
開け放たれた扉を背にして仁王立ちしたヘルミーネは、真っ直ぐにグロリエンを見つめてそう言った。
会議場にいた全ての者はこの突然の出来事に息を飲む。ヘルミーネはグロリエンに対し、一体何の我慢が切れたのであろうかと誰もが思ったに違いない。
「ひいっ!? 殺されるうっ!」
そう小さく叫んだのは昨夜の舞踏会のダンスで、ヘルミーネに振り回された帝国の侯爵令息である。
彼が思わずそう勘違いするほど、扉の前に立つ今のヘルミーネからは鬼気迫るものが感じられた。
グロリエンもアスマンもヘルミーネの我慢の切れた理由が、比翼の鳥による求愛衝動である事を知っている。
だが二人の間には状況の深刻さに対する明らかな温度差があった。
グロリエンにしてみれば愛に我が儘な恋人ほどの認識であり、アスマンにとっては愛に狂った殺人者だ。
どちらも恐ろしい事に変わりはないが、アスマンのそれとは恐ろしさの程度がそもそも違う。
(いいぞ、いいぞヘルミーネっ! 王太子を殺して永遠の愛を手に入れろッ!)
わずか一日でこの修羅場が訪れた事に、アスマンは望外の喜びを覚えていた。
何も知らないグロリエンが少し困った顔をしながらヘルミーネへと近づく姿に、その興奮を一層高め、しめしめと口許を歪める。
(くふふ、馬鹿めっ。俺の比翼の鳥を甘く見るなよ!)
「グロリエン様、私……」
「ああヘルミーネ、何も問題ない」
唇を震わせて口ごもったヘルミーネは、今にも何かを爆発させてしまいそうな緊張感を漂わせている。
そんな彼女を落ち着かせようと、グロリエンは極めて穏やかな態度でヘルミーネの肩に手を乗せた。
「グロリエン様、私っ!」
「大丈夫だ。だからちょっと二人だけで話そうか?」
(来いっ! 殺れっ!!)
ヘルミーネのギラついた目を見て、アスマンは堪らず心の中でそう叫ぶ。
果たしてヘルミーネの感情は、アスマンの期待に呼応するかの様にしてその目をさらにギラギラとさせた。そしてついに爆発させたのである。
「私っ──グロリエン様と結婚がしたいですわッ!」
それはヘルミーネからの逆プロポーズであった。この時代としては実に大胆な行為であり、会議場にいた者はまさに呆然としてその言葉を聞いていた。
だが、その真摯な愛の告白を見逃せるほど彼らの若い情熱は鈍感ではない。一瞬の沈黙のあとに起こった歓声と拍手は、ヘルミーネの勇気への惜しみ無い称賛で溢れ返る。
「おおっ! これこそ真実の愛だッ」
「そうよッ、女性からの求婚があったっていいんだわ。待つだけの女性なんてもう時代遅れよ!」
「愛こそ平和の象徴だっ、まさにこの会議に相応しい一幕じゃないか!」
などと、外野は勝手に盛り上がっている。そんな彼らを横目で見ながらアスマンは、このお調子者どもめと鼻で笑った。
確かにヘルミーネの逆プロポーズはアスマンの期待した行動とは違う。それは少々拍子抜けではあったが、とはいえこれから始まるであろう惨劇が少しだけ先延ばしされたに過ぎない。
(さあグロリエン、はっきりと言ってやれ。自分には結婚する意思は無いとヘルミーネを絶望させるんだっ!)
ヘルミーネはじっとグロリエンを見つめている。彼女の耳には野次馬たちの声などまったく届いてはいない様で、ただ一心にグロリエンからの返事を待っていた。
「ヘルミーネ……」
グロリエンはヘルミーネのその真剣な態度に、もはや冗談やその場のノリではうやむやに出来ない迫力を感じていた。
もとよりグロリエンにも、うやむやには出来ない王太子としての立場がある。
大勢の貴族を前にして優柔不断な態度をとる事は許されない。それが王家に生きる者の宿命であるからだ。
そしてグロリエンにはまだ結婚出来ない理由があった。
「ありがとうヘルミーネ。お前の気持ちは嬉しいよ」
そこで息を止めたグロリエンに誰もが同じようにして息を止める。
別に引っ張りたくてそうしたワケではない。大事な話をするグロリエンには深呼吸が必要だったのだ。
「だが俺は──」
(だが俺は何だ? さあ言えグロリエン、そしてヘルミーネを絶望させて惨劇の幕を開けろッ!)
ニヤリと笑ってアスマンは待つ。やがてグロリエンが言うであろう、ヘルミーネからの逆プロポーズを拒絶する言葉を。
「だが俺は──結婚の前にお前とラブラブカップルになりたいと思うんだっ」
しかしその言葉はアスマンが期待したものとは違ったようだ。彼は心の中で「あれ?」と呟いて目をパチクリとさせた。
正直ヘルミーネも肩透かしをくらった気持ちになった。ハイかイイエの答えを欲していただけに何だかモヤッとしていまう。
いやむしろ不満であったのだろう、僅かに眉根を寄せるとグロリエンにその真意を問い質した。
「あの、ラブラブカップルとはどういう意味でしょう? 私とは結婚したくはないという意味ですか?」
「もちろん違うとも。俺はまずラブラブカップルにと言っているぞ? 結婚する前に恋人同士としてラブラブするのは大事なことじゃないか?」
「えっとそれって、ラブラブしてから結婚したいってこと?」
「うむ、そうだ」
「じゃあグロリエン様は私を愛して下さっているってこと!?」
「当たり前だろヘルミーネ!」
この期に及んでグロリエンは完全に開き直っている。どうせ自分の妃にするのはヘルミーネ以外考えていないのだ。ならば今更野次馬どもに隠し立てても仕方がない。
それにヘルミーネの精神支配が解除されれば、二人の関係は落ち着くはずだ。お互いの言葉を無かった事にはもはや出来ないが、そうする必要もまた無い。
もしヘルミーネが本当に自分を愛してくれているのなら、改めて交際を申し込むつもりでグロリエンはいる。
その上でヘルミーネとの勝負に勝って、正々堂々とプロポーズし直せばいいだろうと覚悟を決めていた。
「嬉しいッ!」
ヘルミーネはまるで花が綻ぶ様な笑顔で喜んだ。そのまま比翼の鳥による精神支配が消えるのではないかと思うほど、彼女は幸せそうであった。
そんなヘルミーネとは対照的に、アスマンは脂汗を滴しながら歯軋りしている。
(な、何だこれは……。どうして王太子はヘルミーネを拒絶しないんだ。これじゃまるでグロリエンの奴が、はじめからヘルミーネを愛していたみたいじゃないかっ!)
実際その通りだった事をアスマンは知らなかった。つまりこの暗殺計画には当初から大きな瑕疵があったと言えるだろう。
ヘルミーネの嬉しそうな様子はいつしか会議場中に伝染し、野次馬たちは口々に「おめでとう!」と二人を祝福している。
(めでたい事などあるものかッ、このお調子者ども──って!?)
アスマンがそう祝福にケチをつけた時だ、彼は突然に狼狽し始めたのである。
なぜかと言えば、加護比翼の鳥が徐々に消え出してきたのを感じたからだ。
(げぇっ! ヤバいヤバいヤバいッ! このままでは比翼の鳥が消滅していまうッ)
それはグロリエンとヘルミーネの恋愛が、成就しようとしている事を意味していた。
ヘルミーネの幸せそうな様子からして、彼女がグロリエンからの愛を実感するのは時間の問題だろう。
(くそっ、やむを得んかッ!)
追い詰められたアスマンはいよいよ最後の賭けにでる事にした。
かなり乱暴で自分にも暗殺の嫌疑がかかりかねない危うい方法でだが、もはや躊躇している時間はない。
「グロリエン王太子殿下よ、あまり可憐な乙女をからかうものではありませんぞ」
アスマンの一際大きな声にグロリエンとヘルミーネはもちろん、その場に居る者全員が彼へと振り向く。
「王太子殿下のご結婚相手は貴国の宰相であられるフィンチ侯爵のご息女、アグネス様だと伺っておりますが?」
「なんだとッ!?」
途端、グロリエンの目が針の様に細められ、アスマンを鋭く睨む。
「なにゆえアスマン伯爵はそのような嘘を申される。ワケが聞きたい」
「これはこれは、嘘とは心外ですな。私は事実を申したのみ。ただそこのご令嬢が悲しい思いをする事に心が痛んだだけです」
するとアスマンの視線に釣られる様にして、皆の視線がヘルミーネへと向けられた。
彼女は唇を紫にして酷く震えている。ともすると声まで震えそうになりながらも、ヘルミーネは必死でグロリエンにと尋ねた。
「ど、どういう事でしょうか?」
「聴くなヘルミーネ、全て嘘だ!」
「どちらの?……」
「決まっている、アスマンのだッ!」
怒りで顔を歪ませてそう言ったグロリエンに、アスマンは大袈裟な溜め息を吐きながら肩を竦める。
「やれやれ、私に一体何の得があって嘘をつくのやら。私はただ教えて差し上げたかっただけですよ、王太子殿下はヘルミーネ嬢を愛してなどいないんだとね」
そう言ってヘルミーネを指差したアスマンは、「そう、愛されちゃいないんだよ」と繰り返して駄目を押した。
「貴様、何を企んでいる!」
グロリエンは余りにも不自然なアスマンの言動に不審を強め、さらには陰謀の匂いを嗅ぎ取った。
だがしかしそれは今更であり、もはや手遅れであったようだ。
「グロリエン様の嘘つき……」
唇を震わせてそう呟いたヘルミーネの瞳には、すでに殺意が宿っていたのだから。
「ヘルミーネ……」
その殺意が自分へと向けられている事に気づいたグロリエンは、遠くで比翼の鳥が鳴いたのを聴いた気がした。
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