第35話 ああ無情

 黄昏の石舞台で寄り添う二人の影が、甘やかな時の中でとろけそうになっている。


「愛しているよヘルミーネ。俺は一生涯お前だけにこの愛を捧げよう」


 ヘルミーネはそんなグロリエンからの愛の告白を聞きながら、こんなに不愉快なものはないと苛立っていた。


「お前は俺を愛しているか? 俺だけのものになってくれるのか? ああヘルミーネ、どうかそうだと言っておくれ」


 グロリエンの情熱的な言葉はヘルミーネの気持ちを逆撫でし、今すぐぶっ飛ばしでやりたくなる。


「グロリエン様、殺したいほど愛しい私のグロリエン様! この世で私が愛するのは貴方ただお一人ですわ!」

「俺もだよヘルミーネ! 俺が愛する女はお前ただ一人だ!」

「嬉しいですッ!!」


 ヘルミーネは自分の周りに立ち込めていた霧が、みるみる消えていくのを見ながらもムカムカが止まらない。


(キーーッ! 我慢するのよっ。これもすべて私とグロリエン様の幸せのためなのだからッ!)


 グロリエンはいま、比翼の鳥に支配されているヘルミーネを口説いている真っ最中である。

 彼ら二人の勝負は無事にグロリエンの勝利で幕を閉じた。勝因はやはり、ヘルミーネが本来のヘルミーネほどの強さでは無かったのが大きかったようだ。


 ヘルミーネの鉄壁の腹筋に辛抱強くボディブローを繰り返したグロリエンの攻撃は、遂には彼女の腹筋を撃ち抜いた。

 さすがのヘルミーネもその一撃に悶絶し、そのままグロリエンのスリーパーホールドで気を失ってしまったという。


 当然ながらグロリエンも無傷ではなく、全身血塗れですぐにも治療が必要な状態であった。しかし、そんな時間は彼にはない。

 むしろ本番はこれからなのである。グロリエンの最終目的は、あくまでも比翼の鳥の解除なのだから。


 ゆえにグロリエンはいま血塗れのままヘルミーネを口説き、恋愛成就を果たそうと頑張っていた。


「グロリエン様が流しているその血は、私との愛の証ですのね」

「そうだとも、この血はすべて愛するお前への贈り物だ」

「ああ、素敵っ! 全部飲み干したい!」

「お前の為なら俺は貧血になってもかまわんぞ。むしろ望むところだ!」


 なんとも異常な二人の愛の囁き合いであるが、霧の晴れ間にいるヘルミーネにとっては浮気現場を見せられている気分である。

 いや気分というか、もうすっかりそう錯覚しているらしい。


(ぐぬぬぬ。この馬鹿女っ、グロリエン様の怪我の心配もしないで何言ってんのよ! というかグロリエン様もグロリエン様よ、まるで変態みたいなこと言って!)


 ヤキモチ丸出しのヘルミーネであったが、彼女はちゃんと分かっているのだ。

 グロリエンが自分の為に頑張っていると分かっているからこそ、いまヘルミーネは悪態を吐きながらも涙をぽろぽろと溢しているのだろう。


(絶対痛いくせに、みえみえのやせ我慢のくせに、変態になってまで頑張ってくれて、グロリエン様は優し過ぎるのよ……)


 ヘルミーネはどんどんと消えてゆく霧を意識しながら、一秒でも早くグロリエンの傷の手当てをしたかった。

 だからこそ未練たらしくまだそこに居る、もう一人の自分が憎いのだ。


「俺たちの愛はいまやっと成就されたんだ。なあヘルミーネ、お前を抱き締めてもいいかい?」

「ええ、強く抱き締めて! そして息が止まるほど激しく口づけしてッ!」


(そのまま窒息しちゃえ!)と興奮して叫んだヘルミーネは、口づけをせがむもう一人の自分に伸ばされたグロリエンの腕を見て思わず目を瞑った。

 二人が口づけするところなど見たくはなかったからだ。


 だからだろうヘルミーネは気づけなかった。自分の周りにある霧が急速に消え、無くなっていっている事に。

 ヘルミーネは頭の中で想像した二人が、抱き合って口づけするシーンを思い浮かべる。


(やめてえっ、私のボディブローで馬鹿女の息を止めてやるッ!)と、ヘルミーネは自分の想像に興奮し拳を握りしめた。

 そして彼女は「こうやって!」と叫びながら目に見えないニセヘルミーネにめがけ、パンチを撃ち込んだのである。


「グエッ──!!!」


 その瞬間、ヘルミーネはグロリエンの悶絶する声を聞き目を開く。

 何か緊急事態が起こったと慌てたその目に飛び込んできた光景は、グロリエンがこちらへと手を伸ばした格好のままぶっ飛ばされているというものだった。


 咄嗟にヘルミーネが思ったのは、グロリエンが再び攻撃を受けたということ。すなわち比翼の鳥に支配された自分による戦闘の再開。


 しかし──「グロリエン様ッ!」と彼の名を呼んだ自分の声が、なぜか山岳に響き渡り木霊となって返ってきたのであった。


「えっ!?」


 キョロキョロと周りを見たヘルミーネは、自分が霧から抜け出している事にようやく気づいたのだろう。


「あれ? また入れ替わった?」


 戦いの途中から入れ替わりに関する主導権は、本物のヘルミーネがすでに握っていた。

 だから彼女が意図しない限り、入れ替わりはありえないはずなのだ。


 答えは明らかであった。ヘルミーネにかけられていた比翼の鳥が消えたのだ。自分の意識を探っても、今まであったもう一つの意識が見当たらない。ヘルミーネは完全に元のヘルミーネにと戻っていた。


「私……元に戻ってるわ」


 ヘルミーネはそう呟くと、ハッとした顔をする。自分の拳に残っている確かな手応えに今更ながら気づいたからだ。

「げえっ!」という貴族令嬢らしからぬ声をあげ、一目散に倒れているグロリエンの所へと駆けてゆく。


 精も根も尽き果てて、しかも出血多量のグロリエンである。おまけにヘルミーネから強烈なパンチを受けたともなれば、果たして無事でいるかどうか。


「し、死なないでーーぇっ!」


 いくらヘルミーネが呼び掛けようと、グロリエンはぐったりとして目を覚まさない。

 顔面蒼白なヘルミーネは慌てて筋力を強化し彼を担ぎ上げると、飛ぶようにして、いまや月明かりだけが照らす暗い山道を駆け下りて行ったのであった。


 ◇


 グロリエンは誰かが啜り泣いている声を、微睡まどろみの中でぼんやりと聞いていた。

 だがその声の主がヘルミーネだとわかった途端、彼の意識は覚醒し弾かれたバネの様にしてその身を起こした。


「比翼の鳥はッ!?────」


 ヘルミーネを口説いている最中、突然彼女から攻撃を受けたグロリエンにはそれ以降の記憶がない。


(俺は失敗したのか?)


 激しい焦燥感と共に最悪の結末を想像したグロリエンは、声のしたヘルミーネから事実を聞こうと彼女を探す。


「グロリエン様っ、お目覚めになられたのですねッ!」


 しかし探すまでもなくヘルミーネはすぐ側におり、彼女の顔が覆い被さるようにしてグロリエンの顔にと近づけられた。

 その顔は涙でぐずぐずになっており、鼻水まで垂れている有り様だ。


「ヘルミーネ……お前はいまどっちだ?」

「もちろん本物のヘルミーネですわ!」

「じゃあ比翼の鳥はどうなった?」

「綺麗さっぱり消えました! 今の私は元のままのヘルミーネですッ」

「そ、そうか──はぁ、良かった……」


 グロリエンはよほど安心したのだろう、長くて深い息を吐き出すとバタリとベットに倒れ込む。

 だがヘルミーネはその様子にギョッとしてしまう。身体の変調かと思ったからだ。


「グロリエン様っ、大丈夫ですか! 傷が痛むのですか? どこか治療の足りない箇所がありましたか!?」


 そう慌てて聞くヘルミーネに、ゆっくりと顔を向けたグロリエンは優しく微笑んで言ったのである。


「いや大丈夫だよ、心配かけたな。でも本当に良かった、これで全部元通りだ」

「は、はいっ!」


 言葉に詰まったヘルミーネは、そう頷くだけで精一杯だった。

 万感の思いが彼女に去来して、再びぼろぼろと涙と鼻水を流し始める。


「私……グロリエン様の事をぶっ飛ばしてしまって。故意ではなかったとはいえ、本当に酷いことをしてしまって……」


 しゃくり上げながらそう話すヘルミーネの話を聞いて、グロリエンはようやく納得いったという顔をする。

 意識が飛ぶ前の一撃は、それまで戦っていたヘルミーネのものとはまるで違っていたのだ。だから食らった瞬間、ワケが分からなかったのを覚えている。


「ハハハ、なるほどな。どおりで魂のこもった強烈なパンチだったはずだ」

「ホンっとにごめんなさいッ!」

「いやいいんだ。むしろ良かったかもしれない。これからの事を考えると、かえって気を引き締められたし」

「気を引き締められた?」

「ん、ああ。本物のお前とニセ者のお前とじゃ、やっぱり違うなって……」


 するとヘルミーネは僅かに首を傾げたが、グロリエンはそれに気づかぬまま「ところでここは何処なんだ?」と部屋を見回した。


「え? えっと、ここは私が宿泊している部屋ですわ。あ、そうだ。もうじきエリスンがここに参りますわよ」

「何しに来るんだ?」

「それはやっぱり心配だから?」

「あいつが俺の心配なんてするもんか」

「でも! 本当に重傷でしたのよ」


 確かに全身包帯だらけの姿は重傷者のそれである。グロリエンはそんな自分が心底情けなくなり、盛大な溜め息を吐く。


「ハァ、勇者の加護をもってしてこれかぁ。この体たらくじゃ、お前との約束はどうなっちまうことやら……」

「私との約束って?」


 グロリエンはバツが悪かったのだろう、少し不貞腐れるようにしてプイッと背中を向けながらぽつりと呟く。


「誓っただろ、勝負が始まる前にさ……。俺はお前との勝負に勝ったら結婚を申し込むつもりだって」


 その話はヘルミーネも覚えていた。しかし自分のやらかした失態に、それどころではなかったのも本当だ。

 だがいまこうしてグロリエンの口から改めて言葉にされると、急に実感が込み上げてくる。


「見事な勝利でしたわね」


 そう言ったヘルミーネの顔は期待で耳まで赤い。それなのに────


「勝利? それは何のことだ?」


 グロリエンから発せられた次の言葉は、ヘルミーネの思いとはあべこべな無情なものだったのである。

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