第6話 佐藤亮介
裕子との結婚生活が始まってしばらくが経った。
娘である
しかし裕子との関係においては、お世辞にもうまくやっていけてるとは言い難かった。
一緒に仕事していた時はフランクな性格だと思っていたが、一緒に暮らしながら彼女を見ていると、どちらかと言えば内弁慶という表現が正しそうだ。
裕子は家事はからっきしで俺がほとんどを担当しており、言い合いになるのが日常になってしまっていた。
それと同時に、家事をちゃんとやっていく中で”名もなき家事”と呼ばれるような目に見えにくい必要作業が多くあることにも気付いて、美月がどれだけのことを裏で負担してくれていたのかを改めて認識するきっかけにもなった。
そして裕子はお金の管理も杜撰だった。化粧品などもなかなかいいお値段のものを買っていたり、ちょっとでも欲しいと思ったらすぐに買ってしまうなど我慢するということも知らない。
まるで昔の俺を見ているかのようだったが、美月も俺に注意するときこんな気持ちだったのかと思うと本当に申し訳ない気持ちになってしまう。
ただ子供可愛さで育児はしっかりやってくれており、俺はフルタイムで働いていたから、そこは素直に感謝している。
また金銭面においては、子供を育てるとなると一馬力では厳しいということで、裕子にはパートに出てもらうようになった。
家計的には助かったのだが、問題はパートを始めてしばらくすると夜遅くまで出歩くようになってしまったことだ。
パート先でいい出会いでもあったのだろうか、時折知らない匂いを漂わせながら帰宅することもあった。
家の中でスマホをいじっている頻度も増えたし、正直浮気ではないかとは思っていた。裕子は見た目に関しては男の目を誘うものがあるし、モテるのも全く不思議ではない。
しかし俺はそんな裕子のことを本当に好きなわけでもなかったし、追求することで紬から母親を奪ってしまうことになりかねなかったので、その疑惑に関しては放置していた。
裕子が出歩いている日には、うちからそれほど距離が離れていなかったこともあり義母がいる裕子の実家へ紬を預けていた。しかしその頻度が増えていくとさすがに注意はしていたが、あまり効果もなかったようだ。
そして恐らく今日も。
「ただいまー」
返事はなく、家の中は暗いまま。
やはり紬を実家に預けて、自分は遊んでいるんだろう。
裕子に連絡したが返信はなく、義母に連絡したらそちらで預かっていて、今日は泊めるとのことだった。
これも珍しいことではなかったので、その日はそのまま就寝した。
しかし次の日。
「ただいまー」
またも返事がない。2日連続は珍しいなと思ったが、またも義母の家に泊まっているとのことだった。
しかし次の日も、その次の日も裕子と紬は我が家に帰ってくることはなかった。
さすがにこれはおかしいと裕子の母に連絡を取るも、「二人とも元気でやってるから、気にしないでいい」と一蹴された。この間にも裕子と連絡は取れていない。
もともと俺は義母からの印象が悪く、良好な関係は築けていなかったこともあり、深くは聞き辛かった。
それから何日経っても裕子と紬は家に帰らず、自分の目で確かめるために裕子の実家へ向かったが、そこに二人の姿はなかった。
義母を問い詰めるも、「今は出掛けてるだけ。元気でやってるから心配しないで大丈夫」の一点張りで話にならず、結局なんの情報も得られず帰宅することになった。
確信は持てないものの、おそらく別の男の元ではないかと推測したが、それでは義母もグルということになる。
これまで裕子の怪しい動きは見て見ぬふりしていたのだが、紬を連れて出て行くとなると話は全く別だ。
そんな決意を元に義母の元へ根気強く訪れるも毎回門前払いの扱いで、挙句の果てには警察沙汰にしようとするものだから、こちらとしては撤退せざるを得なかった。
警察に相談しても、裕子と紬の居場所は義母が把握していることから失踪届なども出せないため、対応できそうにないらしい。
パート先から辿ろうとするも、なんといつの間にか俺に断りもなく辞めてしまっていたようだ。
裕子の交友関係なども全く把握しておらず、自分の力だけでは早速手詰まりとなってしまった。
しかし娘のことは絶対に諦めたくなかったため、何かできる手段がないか調べ、俺は興信所に調査を依頼することにした。
興信所であれば見つけられるだろうと思っていたのだが、今回のケースの場合、調査対象の居場所も調査すべき日時なども当てがなく絞るのが難しいため、費用がかなり高額になるかもしれないとのこと。
それでも娘を守るためならばと、美月の教えにより蓄えられていた貯金を全て投げ出す覚悟で、興信所への依頼を決めたのだった。
※
興信所に依頼してからしばらくが経った頃、ある日突然俺のもとに1通の知らせが届いた。
中身を確認すると、それは裁判所からのもので、裕子からの婚姻費用の請求書だった。
最初は何かの悪戯かと思ったが、調べてみたところ正式な裁判所からの書類であるらしい。
法律の知識など全くなかった俺はたまらず興信所に相談し、それから夫婦トラブル関係に強い弁護士を紹介してもらった。
その弁護士曰く、これは正当な請求であると同時に、世間的にも問題視されているケースだと言う。
まず婚姻費用とは、夫婦が結婚生活を維持するために必要な費用のことで、これは所得の多い者がもう片方の配偶者側に支払いをする費用のことらしい。つまりは相手を自分と同じレベルの生活をさせなさいという考え方で、
そしてこれの恐ろしいところは、相手側にどんなに非があっても支払い義務が発生するということだ。
つまり俺たちのケースでいえば、いくら裕子が不倫をしていようが、勝手に紬を連れ去っていようが、それらは考慮されることなく、俺は裕子に婚姻費用を支払い続けないといけない。
婚姻費用にかかる金額は収入などの状況によって変わるが、毎月15万円支払っているケースが最も多いと言われており、これを離婚するまでずっと払い続ける必要がある。
裕子側からしてみれば、無断で娘を連れて別居していながらも、俺から婚姻費用という名の不労所得を貰い続けられるのだ。
その話を聞いて俺は唖然としてしまった。
こんな理不尽が許されるのかと。収入は一般的に男性の方が多いのだから、結婚において男性側はこんなに弱い立場にあるのかと。
自分の無知さを思い知ったし、そんな状態で結婚などという重過ぎる契約をしていたことが恥ずかしくなった。
しかし今更文句を言ってもどうにもならない。これからなんとかするために行動を起こすしかない。
もう裕子への愛情はなく婚姻費用を払い続けるのは負担であるため少しでも早く離婚したいこと、恐らく不倫をしているだろうしそんな女に娘を預けて置けないということで親権を獲得したいこと。
弁護士にそう告げて、その方針で動いていくことに決めた。
今後のため弁護士を通して裕子の意思を確認してもらったところ、裕子は離婚する意思を持っていないらしい。
これは恐らく、少しでも多く婚姻費用をもらうためだ。
日本では夫婦どちらかが離婚を拒否してしまえばそう簡単に離婚することなどできない。それでも離婚したいなら何年もかかるような裁判を行う必要があり、しかもその間にもずっと婚姻費用という名の不労所得は発生し続ける。
離婚を拒否して裁判を長引かせるほど不労所得をもらえる期間が長くなり、裕子にとっては得ということだ。だから弁護士側が早く離婚すると損だと妻側にアドバイスすることも多いそうだ。
裕子には悪いのだが、彼女はもともとこんな知識を持っていそうな女性ではなかったはずなので、誰か入れ知恵している者がいるのだろう。恐らく新しい男ではないかと思うが。
さらに裕子はあろうことか、俺によるDVを受けていたと主張してきた。
もちろんそんな事実は神に誓って無いのだが、弁護士曰くこういったケースにおいてはたまに見られる話で、DV冤罪をふっかけることで裁判を有利に進められるからだと。
こうなってしまったら無理やりにでも紬に会いに行ってやろうかとも思ったが、この状況になってしまった以上それはリスクが高く、裁判で不利になる場合もあるからやめた方がいいと。なのでこちらは正攻法で戦っていくことにした。
これではやったもの勝ちではないかという気持ちもあった。しかしそれと同時に、得てして世の中はそんなものなのかもしれないとも思う。
俺だって過去に不倫という不法行為を過去に犯しており、一時の快楽と引き換えに美月の心に大きな傷を刻んでしまった。そしてそれはお金をいくら払ったところで元には戻らないのだから、それも大きな意味で捉えればやったもの勝ちと言えなくもない。つまり俺もこんな理不尽な状況に文句を言う資格はないんだろう。
こうして俺と裕子の離婚調停は、完全に泥沼と化していった。
※
やがて、興信所の調査の経過報告があった。
裕子と紬が特定の男の元で出入りしている様子が見られたとのことだ。
相手の男は若い実業家で、非常に収入も多くイケメンらしい。金は自由にさせてもらってるようで、裕子はかなり金遣いが荒い様子も見られたと。
紬に関しては育児放棄などされているような様子はなかったらしい。また、義母も一緒にいたようで、紬が酷い目に遭っていなさそうという点では少し安心できた。
その義母は間男側に肩入れしているようだったと。同じ穴の狢だとも思うが、それならば一般会社員の俺よりも若くてイケメンな金持ちを選ぶのは当然かもしれない。
そんな男とどこで出会ったんだという疑問はあったが、交友関係から見るにおそらくパート先の人からの紹介じゃないかということだ。
正直この件が起きてから、もしかして紬は俺の子ではないのかと思ったこともあったが、パートを始めてからの出会いであること、結婚前の裕子は俺に入れ込んでいた様子で男の影など無かったこと、何より紬が俺に似ていることなどからその可能性はほぼなさそうだ。
そして今回証拠として取れたのは間男の家の出入りをしているところや一緒に買い物などしているところだけで、これだけでは不倫の証拠としては弱いらしい。
なので親権獲得を目指すなら、出入りしている場面の回数をより多く掴むなど証拠をしっかり固めるため、調査は続けた方がいいと。
ここまで来たなら後には戻れないということで、引き続き調査の継続をお願いした。
全ては紬を取り返して、幸せにしてあげるためだ。
勝手に子供を連れ去っていとも簡単に新しい男の元へ行くような女が、子供をまともに育てられるはずがない。
紬をあんな女の元に置いてはおけない。そんな想いだけが俺を動かしてくれた。
紬のためなら頑張れる。
俺の罪のために、紬を犠牲にすることなど絶対に許されない。
俺は紬を幸せにしなきゃいけない。頑張らねばならない。
俺は婚姻費用や興信所費用、弁護士費用を賄うために、残業できる部署へ異動していた。
希望がすんなり通ったのは、真意こそ確かめていないが、もしかしたら部下の女に手を出すような不倫男を追い出したい意図もあったのかもしれないが。
転職も検討したのだが、そもそも成功するか分からないうえ成功したとしてもいつになるのか分からないことや、目の前に必要な費用が差し迫っている中そんな時間が取れないということでそれは見送った。
だから今日も残業だ。
婚姻費用の支払日が来る。
家賃の支払いだってある。
当然食べていかねば生きていけない。
裁判が続く限り弁護士費用の支払いは発生する。
不倫の証拠固めの興信所費用も続く。
残業。家賃。食費。光熱費。婚姻費用。弁護士費用。興信所費用。
貯金はとっくに底を尽きている。
残業。残業。食費。家賃。光熱費。婚姻費用。弁護士費用。興信所費用。
両親には頼れない。最近は寝つきが悪い。
残業。残業。残業。欠勤。食費。家賃。光熱費。医療費。婚姻費用。弁護士費用。興信所費用。
消費者金融に手を出した。なぜか耳鳴りが止まらない。紬に会いたい。
残業。残業。残業。欠勤。欠勤。家賃。光熱費。医療費。医療費。婚姻費用。弁護士費用。興信所費用。
……
…………
………………
※
そして裁判が決着した。
俺は親権を獲得できなかった。
裕子の不倫は認められたが、慰謝料は妥協した。
俺のDVは証拠不十分ということで認められなかった。
限界だった。
完全に折れてしまった。
親権に関しては、そもそも日本においては父親が取れる割合は1割しかないとされている。妻側が不倫している場合でも旦那は不利だと、元々弁護士に言われていたことだ。それでも司法の良心を信じる意味でも一縷の望みに賭けていたのだが、何のことはない。俺は9割側の男だったというだけだ。
慰謝料を取れたとしても100万円ぽっちで、そのために争っても裁判が長期化して婚姻費用と弁護士費用の負担は増え続けるため、満額取れることを諦めて早々に離婚するための交渉をした方がいいと判断した。
救いがあるとすれば、離婚後の紬との面会権を約束できたことだ。
でも俺は結局、紬を守ることはできなかった。
紬のために頑張ると言っていたのに情けない。
あんな女に紬を任せなければならない自分の不甲斐なさが、どうしようもなく悔しい。
しかし現実はそんな俺を嘲笑うかのように、更に追い討ちをかける。
財産分与だ。
これは結婚後に得られた収入は離婚時に全て夫婦で二人で半分に分けるというもの。
美月との時は弁護士を通さなかったし、二人の間でなんとなくで済ませていたのだが、今回はそうもいかない。
すでに俺に貯金は全く残っていないのだが、「婚姻期間中に形成された財産全体」が対象になるため、貯金の有無など関係なく俺から裕子への支払いが発生する。これは今後分割で支払いを続けていくことで同意された。
そしてもちろん、養育費の支払いもそこに加算される。
これは俺が紬にできる最後の償いだろう。
それに、ここで頑張れば月に数回は紬に会うことができる。
だから踏ん張ろうと思った。
しかしそれすら無理だった。
俺は職場で倒れてしまい、救急車に運ばれ即入院となった。
両親にも連絡がいったようで、二人が入院先の病院に来てくれた。さすがに息子の命に関わるとあっては不義理な息子でも見捨てられなかったのだろう。
両親には裕子とは離婚しそうだということだけ伝えていたのだが、金銭面のことなどは言っていなかった。こうなるくらいなら言ってくれれば助けたのに、と彼らは泣いていた。
仕事に復帰しようにも、過労と過度なストレスで、体と心が全く言うことを聞かない。職場のことを考えるとなぜか涙が止まらなくなる。
以前のホワイトな部署もポストに空きがなく、戻るとしたら以前のまま激務の部署になるとのことだった。
これでは復帰なんてできるはずもなく、仕事は退職。家賃の支払いもできなくなったため、俺は実家に帰ることになった。
養育費などは両親が一時的に建て替えてくれている。
しかし祖父母は孫への面会権を持たず、もともと俺の両親も裕子との折り合いは悪かったため、数少なかった孫に会う機会も奪ってしまった。その上今は働かず金を入れることもない実家の穀潰しである。
俺はどれだけ親不孝をすれば気が済むのだろうか。
※
こうして俺は全てを失った。
結婚生活も、娘も、社会的地位も、貯金も。
なんとか手に入れた紬との面会も、結局実家に帰ってきたことで実現できていない。
メンタルをやられてしまっており数時間かけて娘の元へ行くのが難しいし、何より自分の力で養育費を払ってもいないのに、父親として合わせる顔がない。
……俺はどうしていればよかったんだろう。
浮気の疑惑の時点で早く追求してればよかったのか?
義母と交流をもっと深めておけばよかったのか?
転職していればよかったのか?
体を鍛えて丈夫にしておけばもっと裁判で戦えたのか?
両親に早く助けを求めるべきだったのか?
離婚は諦めて、ずっと婚姻費用を払い続ける人生を送ればよかったのか?
そうやって考えを巡らせていたところに、ふと本棚のアルバムが目に入る。
そこには小さい頃に美月と一緒に遊んでいた頃の記録が収められている。
家事の指摘も俺を想ってのことばかりで、陰ではもっと多くをやって俺を支えてくれていた美月。
浮気の兆候を感じながらも、それを悟らせることなく俺だけを愛し続けてくれていた美月。
きっと俺の幸せを願って、制裁など考えることなく傷付きながらも自ら身を引いてくれた美月。
……俺は、そんな初恋も自ら捨ててしまっていたんだな。
でもそれに今更気付いたって、もう何もかもが手遅れだった。
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