第4話

「佐藤さん、そういえば今日午前中に旦那さん来てたよ」


「あ、そうなんですね」


 かつて私がりょーすけと再会したときに居合わせていた上司がオフィスで声をかけてくれた。


 私の派遣先はりょーすけの会社の取引先で彼が営業担当なので、りょーすけはちょこちょこ打ち合わせなどの用事で来ていた。


 でも私は派遣だから、社外の人と顔を合わせる機会なんてない。だからこそ私たちの再会は本当に奇跡だったんだと思える。


 りょーすけと結婚したことは一部の人には伝えてあるので、たまにこうやってわざわざ教えてくれるのだ。


 特にこの上司は奇跡の再会の場に居合わせていたので、伝えた時は我が事のように喜んでくれたのを覚えてる。


「彼、来月から担当変わっちゃうんだってね。残念だねー。今日その引継ぎで次の子連れてたけど、今度は若くて可愛い女の子だったよー」


 それを聞いた瞬間、私の中で全てが繋がってしまった。


 何も知らない上司は「可愛い女の子とたくさん話せる〜!」と小躍りしている。妻子持ちであるにも関わらず。


 ……そっか、会社の後輩か。


 バカだね、りょーすけ。

 ホントに詰めが甘いんだから。


 あなたの奥さんが取引先にいるの忘れてるの?

 それからどんなルートでバレるかなんて、分かったもんじゃないよ。


 私じゃなかったら、もうとんでもないことになってるんだから。やるならもっと上手く隠しなよ。


 ……いや、違うか。


 私が奥さんだから、浮気するようになっちゃったのか。


 あなたはとても純粋で、浮気なんてできるような人じゃなかったもんね。上手く隠すことなんて、できるわけないよね。


 本当は社内の女になんか手を出したくなかったよね。


 どれだけ悩んだだろう。

 どれだけ苦しかっただろう。


 きっと彼には、私にも想像し得ないような葛藤があったはずなんだ。


「……ただいま」


 返事はなく、暗い部屋に言葉が吸い込まれていく。


 帰るのは今日も私が先だったみたいだ。


 結婚当初は「おかえり」とりょーすけが迎えてくれることも多かったけど、その頻度が減ってからしばらく経った。


 ……さて、ご飯を作ろう。


 まだお野菜と豚肉が残ってたはずだ。

 あ、お米が少ないから今度買っておかなきゃ。

 ドレッシングの賞味期限近いから使い切りたいなぁ。

 三角コーナーのネットも取り替えよう。

 食器用洗剤の詰め替えはまだあったかな。

 コンロについたお焦げ、そろそろ綺麗にしたいなぁ。

 排水溝の臭い気になってきたな、パイプユニッシュの出番か。

 換気扇、前に掃除したのいつだっけ?

 食べ終わったらりょーすけのワイシャツのアイロン掛けもやるぞ。


 と、その時。


「ただいまー」


 愛しの旦那様のお帰りだ。


「おかえり。もうちょっとでご飯できるよ」


「あぁ、ありがと。なんか手伝えることある?」


「あ、じゃあお皿準備しといてくれるかな」


「はーい」


 そう返事をしながらスーツをハンガーにかけ、部屋着に着替えてキッチンへトコトコとやって来る彼。


 ……こんなやりとり一つで有頂天になってしまう私は、どれだけ罪深いのでしょうか。


 あなたを苦しめてごめんなさい。

 それでも、私と一緒にいてくれて


「ありがとう」


 あなたを汚してしまってごめんなさい。

 それでも、あなたのことが


「大好きだよ」



 ※



 ある日突然、りょーすけが土下座で謝罪してきた。


「……他の女性との間に、子供ができてしまいました」


 今にも消え入りそうな、震える声の懺悔だった。


 浮気が事実だったこと、子供までできちゃったことはさすがにショックだったけど、話の内容の割にあんまり動揺はしなかったと思う。


 それよりも、納得の方が大きかった。


 ああ、この時が来たんだって。

 やっぱり私はまた、間違えてたんだって。

 これからが、本当に断罪のときなんだって。


 もはや清々しい気分でさえあった。


 それなのに、涙は自然と溢れてきた。


 りょーすけが色々と説明してくれてるけど、全然頭に入ってこないし、どうでもよかった。


 だって、全部知ってるから。


 そんなことより私が気になるのは、あなたが浮かべている、後悔、苦悶、焦燥、恐怖、絶望。


 ねぇ、そんな顔をしないで。


 普段は無愛想だけど、あなたの笑顔が素敵なことも、私がこの世界で一番知ってるんだよ。


 中学生の時さ、一緒にゲームをして、私が下手過ぎて変な死に方しまくってるのを見てお腹抱えて笑ってたよね。


 あのときみたいな笑顔を見せてよ。


 でも、あなたにこんな表情をさせちゃった原因は、きっと私なんだって。


「……それが一番辛いかな」



 ※



 本当は離婚なんてしたくなかった。


 そんなことするくらいなら、どれだけ他の女を抱いてくれたっていい。


 ちょっとくらいは嫉妬させてほしいけど、それでも私の側にいてくれるなら、私も愛してくれるなら、私も抱いてくれるなら、それで全てが良いと思っていた。


 しかし、彼の子供ができてしまったという事実は、そんな私の願望を打ちのめすには十分だった。


 私には子供を堕した過去がある。


 当時はその選択をせざるを得なかったし、それ自体に後悔はない。


 でも、手術したあの日の記憶は、私自身に間違いなく刻まれていて。


 この世に生まれてきて、幸せになれるかもしれなかった子供を奪ってしまったんじゃないか。


 そんな思いが、私の魂の傷跡として燻り続けていたみたいだ。


 今になって、あの日何を失ったのかを理解できた気がする。


 裕子さんが産む判断をしてくれて本当によかったと思う。


 じゃないと私は、また同じ罪を重ねてしまうところだった。


 りょーすけを、私が産むことができなかった子供を、幸せにしてあげてほしい。それは私ができなかったこと。


 だから制裁だなんて微塵も考える気にもならなかった。


 それでもりょーすけは慰謝料を払わせてくれって聞かなかった。


 子供のために使ってくれって言っても聞く耳を持ってくれなくて、こっちの方が困ったくらいだ。


 話し合いで一番白熱したのが慰謝料の金額だった。いや、普通の不倫でも親権争いがなければそうなるのかな。でも私たちの場合、不倫した側がもっと払わせてくれなんて言ってるんだから、面白いよね。


 結局、二人の意見の間をとるような金額に収まった。


 一般的な慰謝料の相場からすれば、微々たる金額だ。それでも、ソシャゲで課金しまくって貯金なんてほとんど無かったりょーすけからしたら、とてつもない大金なことは間違いない。


 この倍以上のお金を私に渡そうとしてくれていたんだから、彼の罪悪感がどれだけのものだったのか窺える。


 そしてこのお金は、未だに手付かずで大切に取ってある。


 変な考え方だって思われそうだけど、これがりょーすけからの最後のプレゼントだから。


 どれだけ未練がましいんだって言われるかもしれない。

 新しい男を見つけて忘れろなんて言われるかもしれない。


 私が離婚したことを社内で告げると、ほとんど話したこともないような男性がワラワラとやってきた。この派遣先に来てすぐにりょーすけと結婚したから、これまでアプローチらしいものは全然無かったのだけど。


 中には出世頭のイケメンって言われてる人もいた。昔のままの私だったらクラッといってた可能性もある。


 でも今の私には全く相手にする気にもなれなかったし、この先もそうなることはないだろうって強く確信してる。


 だって私は、知っちゃったから。


 人生は、ほんの数秒に満たない一時の感情と判断で、その後何十年も後悔し得ることを。


 心の底から愛する人と力いっぱい抱きしめ合って、温もりを共有する歓びを。


 悲願叶ってりょーすけに染めてもらったこの身体を他の男で上書きするだなんて、どれだけお金を積まれたとしても、この命を捧げることになったとしても、絶対に嫌だった。


 そんなわけで私は、ずーっと独り身を貫いている。


 まぁよく考えれば、大人になってからも独り身期間の方が長かったんだけど。


 だからだろうか、あの頃の習慣がいつの間にか復活していた。



 ※



 今日も寝る前に、間接照明の柔らかい光の下で彼の写真をゆっくり眺めている。


 でも、あの頃とは何もかもが違ってた。


 以前は後悔の感情ばかりだったけど、今はホワホワと暖かい気持ちに溢れてる。


 それに写真のレパートリーも山ほど増えた。


 新婚旅行の2ショット、誕生日に二人で作ったケーキ、よだれを垂らした可愛い寝顔、私がオーダーした変顔、彼からじゃ見えない首の後ろのほくろ。


 しかも、りょーすけと二人で選んだ写真立て付きの超スペシャル仕様なのだ。


 そのどれもが全部、キラキラと光の粒子を纏って輝いて見える。


 でもだからこそ、思うんだ。


 私は何を間違えたんだろうって。


 浮気の疑惑を追求しなかったこと?

 お金のことで注意しちゃったこと?

 家事で小うるさく言っちゃったこと?

 SEXで満足させてあげられなかったこと?

 プロポーズをすぐに受けちゃったこと?

 居酒屋で好きだったって言っちゃったこと?

 上司に唆されて追いかけちゃったこと?

 再会したとき思わず声をかけちゃったこと?


 ……例え、どれが間違いだったとしても。


 あなたとの結婚生活は、人生で一番幸せでしたって。胸を張って言えるよ。


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