第4話
新入社員の
彼女を初めて見た時は、正直割と好みの女性だという印象を持ってしまった。
小柄な身長に対して男の欲を誘うような肉感もあり、少し地味だが男ウケしそうな可愛らしい顔立ち。スタイルがよくキレイ系の美月とは別の魅力がある女性であることは間違いない。
まぁ既婚者の俺にそんなことは関係ないと、あくまで後輩として接した。
これまで職場の女性と接する機会なんて皆無に等しかったが、美月と結婚したおかげか裕子とは余裕を持って話すことができた。
裕子は最初は顔見知りしそうな雰囲気だったのだが、会話を重ねるうちに意外とフランクな性格なこともわかった。
他に若い世代の人がいなかったのもあり、俺たちは自然と仲良くなっていった。
仕事のやり取りの合間にちょっとした雑談や冗談を言うのは日常だったし、ランチも頻繁に二人で食べていた。俺は裕子と過ごすそんな時間を楽しんでいた。
※
そんなある日、職場の飲み会でのこと。
おっさん世代の昔話や自慢話に辟易としていた俺と裕子は、会話の輪から抜け出して隅で二人で話していた。
最初は他愛もない話をしていたが、会話の流れで俺と美月の話になる。
「えー、先輩と奥さんって幼馴染だったんですか!なんかラブコメマンガみたいで憧れます!」
「いやいや、そんないいもんじゃないよ」
「でも、ずっとお互いが好きだったんですよね。いや〜ドラマチック!」
「うーん、まぁハタから見ればそうかもしれないな」
「あれ?なんか歯切れ悪いですね。もしかして、うまくいってないとか〜?」
ニヤニヤしながらそう言う裕子。
彼女としてはちょっとしたイジりのつもりだったんだろうが、図星を突かれてついギクッと動揺した反応を見せてしまう。
「え、マジですか……?そんな大恋愛で結婚して、何が不満なんですか?」
お酒が入っていたのもあるが、結婚生活での葛藤を誰かに聞いてほしい気持ちもあったんだろう。
美月と過去にあったことから馴れ初め、夜の悩みや日常生活のすれ違いまで、全てを赤裸々に話してしまった。
「な、なるほど、そんなことが……辛い過去があったのに、なんか茶化してすいませんでした」
「いやいや、気にしてないよ」
律儀にペコリと頭を下げる彼女に思わず苦笑する。
「ただ聞いてて感じたのは、結婚を決めるまでの期間がさすがに早すぎたんじゃないかなーって気がします」
「でもずっと一緒だった相手だし、あの時は絶対にうまくやっていける自信があったんだ」
「会えなかった期間も10年あるんですよね?ならお互い価値観が色々と変わってても不思議じゃないかと」
「まさかここまでになるとはなぁ……」
「まぁ今更それを言ってもどうしようもないですしね……あとはそうですね、先輩が他の女性を知らないのも大きいんじゃないでしょうか」
「どういうことだ?」
「奥さんの過去に対して、きっとコンプレックスを抱えてるんですよ。それで色々歯車が噛み合わなくなってるんじゃないかって。それをどうにかすれば色々と解決しそうですけど」
「どうにかって、風俗とか?あれはお金かかるしなんか怖いし、美月のことも考えると気が引けちゃうんだよな」
「それなら、いい方法がありますよ」
「え?いい方法って?」
お酒のせいだろうか、彼女は顔をほんのり赤くしながら周囲を見渡した。
みんなタバコを吸いに行ったようで、先程までの喧騒は鳴りを潜めて人もまばらになっており、俺たちの周りには誰もいなかった。
それを確認した裕子は、俺の耳元まで顔を寄せてきてボソッと呟く。
「私でSEXの練習しませんか?」
生暖かい吐息が耳に触れてゾクゾクと体が震える。
職場の同僚としか見ていなかった彼女の口からSEXという卑猥な言葉が出たことに背徳的な興奮を覚えてしまう。
「私、実は先輩のことずっといいなって思ってたんです。落ち着いてて大人の男性って感じで話しやすいし、仕事もしっかり教えてくれて優しいし。既婚者さんだって知った時は納得した反面ショックでしたけど」
「そ、そんな風に思ってくれてたのか……」
「はい、だから本気になっちゃいけないって諦めてました。でも先輩がそういう事情抱えてるんだったら、練習台くらいにはなりたいなって。私もそんなには経験ないですけど」
「いやいや、浮気は風俗よりマズいって……」
「先輩はムカついたりしないんですか?」
会話の脈絡を無視した問いに困惑する。
「そもそも最初に先輩を裏切ったのは奥さんじゃないですか。正直、話を聞いてたら私の方が奥さんに腹が立ちましたよ。自分の意思で先輩のことを捨てておいて、たまたま再会したらあのときは気の迷いだったとか本当は先輩が好きだったとか、都合良すぎないか?って」
そうかもしれない。実際俺はもっと醜いことすら考えていた。
「過去のことは変えられないんだから、これからやり返しちゃいましょうよ。あくまで練習なんで浮気じゃないです。私も今彼氏いませんし、都合よく扱ってください」
テーブルの下で、俺の太ももを彼女の小さく柔らかい手でさすられる。
苦悩を理解してもらえた喜び、
酒が入ってうまく働かない理性、
好みの女性に言い寄られる高揚感、
目の前の肉体を好きにできる期待と興奮、
美月に捨てられた過去のトラウマ、
美月以外に経験がない劣等感、
夫婦生活の価値観のズレ、
後に戻れないという強迫観念。
俺が間違いを犯すには十分だった。
※
気付けば、俺と裕子はラブホテルで二人裸で横たわり息を荒げていた。
酔った裕子を送って帰るからと、二次会に向かう集団を抜けてタクシーに乗り、そのままこの場所へ来たのだ。
ホテルに入ってからはもうお互いに無我夢中だった。あらゆるしがらみを忘れて、本能の赴くままに肉体を貪り合った。
罪悪感はもちろんあった。
しかし俺の心は、初めて知る耽美な感情の渦に支配されていた。
あのとき俺を選ばなかった意趣返し、他の女を抱いたことで得られた自尊心、割り切りで相手に遠慮する必要のない性行為の快楽。
だから俺は裕子との関係にのめり込んだ。
仕事終わりに時間を合わせて会社から離れた場所で待ち合わせたり、周囲にバレないよううまく逢瀬を重ねた。
あまり遅い時間まで会わないようにしていたし、美月には残業が増えたということで誤魔化した。
そうすると不思議なことに、美月との生活がうまくいくようになったのだ。
夜の行為では美月をしっかり喜ばせることができるようになった。日常生活のすれ違いも、優越感と後ろめたさから彼女の指摘に真摯に向き合えるようになった。他に夢中になれることができたから、ソシャゲもスッパリ辞めることができた。
そしたら美月の方も俺に歩み寄ってくれるようになったのだから驚いた。
注意されることが減ったどころか、むしろ感謝や愛の言葉が増えたくらいだ。
浮気がバレる気配もなかったし、裕子との関係は続けた。
全てがうまくいっているんだから、これは必要なことなんだと、俺は本気で思っていた。
※
しかし悪いことはいつまでも続けられるものではない。
裕子が妊娠してしまったのだ。
避妊はするようにしていたのだが、どこかで失敗してしまったらしい。
裕子は絶対に堕ろさないの一点張りで、俺は美月にこの関係を白状せざるを得なくなった。
土下座しながら美月に謝罪した。彼女はその場で静かに泣いていた。
彼女いわく、なんとなく予感はあったらしい。
行為の時の手つき、残業の日が増えたこと、おおらかになった俺の態度など違和感はたくさんあったからと。
「それが現実だったってわかると、さすがに辛いね……でも、りょーすけにこんなことをさせちゃった原因はきっと私なんだって。それが一番辛いかな……」
何かに耐えながら苦しむ彼女の表情を見て、俺は初めて心の底から後悔した。
ただわかるのは、もう全てが遅いってことだ。
それから二人で話し合って、美月とは離婚して俺が裕子の責任を取ることになった。
幸いと言っていいのか俺たちにはまだ子供もいないし、裏切って他所で子供を作ったという事の重大さを考えると、やはりこうするしかなかった。
美月は俺にも裕子にも制裁などはしないと言っていたが、俺の方から申し出て少額だが財産分与とは別に慰謝料の支払いをした。
義両親に離婚を伝えた時はひどく泣かれた。結婚の挨拶の時には本当に喜んでくれたから辛かった。
しかし彼らは俺を責めるような発言はしなかった。学生時代の娘のやらかしが負い目にあって、俺だけを責められなかったのかもしれない。
ただ最後には、「あなたの顔を見てると頭がおかしくなりそうだから、早く目の前からいなくなってほしい」と告げられ、俺は静かに彼らの元を去った。
俺の両親には子供のときにもなかったような怒られ方をした。
美月ちゃんとは過去に色々あったかもしれないが、幸せにすると決めたのに不義理な真似を働くとは情けないと。
絶縁とまではいかなかったものの、もう実家は俺の居心地のいい場所でなくなったのは確かだ。裕子を連れて行っても両親は裕子に謝罪するばかりで、祝福の言葉はついぞ聞けなかった。
裕子は母子家庭で、彼女の母親にはひたすら困惑された。
娘が突然妊娠の報告をしてきた上に、連れてきた男が離婚する予定とはいえ既婚者なのだから当然だろう。
もちろん反対の雰囲気を出されたが、強く言うのが苦手そうな母親を裕子が強引に説得して、しぶしぶ了承を得られた。
裕子は寿退社という形で仕事を辞めた。
相手が俺だってことはわかっていたので噂の的になったが、子供のことを考えると辞めるわけにはいかず、居心地の悪い中俺は仕事を続けた。
誰からも祝福されなかった裕子との結婚生活は、やはりというかうまくいかなかった。
裕子は家事はからっきしで、休日や平日の夜に時間を見つけて俺がやるようになった。妊娠中は裕子が不安定になり、荒れがちな家の中で言い合いになることが常だった。
出産後は子供可愛さでしばらく安定したが、数年してパートを始めるようになってから、夜遅くまで出歩くようにまでなってしまった。
注意するも聞く耳持たず。すれ違い様に知らない香りを漂わせながら。
元々が既婚者に手を出すようなモラルの女なのだ。こうなるのも必然だったのかもしれない。
かと言って裕子のことは本当に好きだったわけでもないし、何か行動を起こす気力も俺には残っていなかった。
子供だけが救いだが、自分の中の色んなものが擦り減っていくのがわかる。
俺はどこかで間違えてしまったんだろうか。
裕子を妊娠させてしまったこと?
裕子と関係を持ったこと?
美月に歩み寄れなかったこと?
美月と結婚したこと?
美月に連絡をとったこと?
他の女性との交際経験を持たなかったこと?
学生のとき美月に告白しなかったこと?
美月を好きになったこと?
ただ、時々思う。
俺がこれまで選んできたもの全てが、気の迷いだったんじゃないかって。
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