小川美月

第1話

「ねぇねぇ、小川さんってさ、佐藤くんと付き合ってるの?」


「え、いや、付き合ってはないよ」


 クラス委員の集まりの終わり際に、隣のクラスの陽キャ女子に話しかけられた。


 私とりょーすけとは幼馴染で、ずっと一緒にいたからこんな勘違いされることは多かった。


「じゃあさ、佐藤くん紹介してくれないかな?最近ちょっといいなーと思ってて」


「え……いや、本人に聞いてみないと分かんない、かな……」


「あ、そう?じゃあよろしくね!」


 そう言って去っていく彼女。


 りょーすけは一見無愛想だけど、思いやりがあって優しくて、思春期になっても恥ずかしがらずにずっと私の隣にいてくれて、小さい頃からお互いを支え合った、そんな男の子だ。


 私はそんな彼のことを、いつの間にか異性として好きになっていた。


 それに多分、私の勘違いじゃなければ、彼も私のことを好きなんだと思う。


 でもなかなか告白とかしてくれないし、自分から告白しようにも今の心地よい関係が壊れるのも怖いし、実は思わせぶりで私のこと本当は好きじゃないのかとか思ったり、女子としての魅力が足りないのかとかネガティブになっちゃったり……などなど色々と考えちゃってズルズルといっちゃってるのが現状だ。


 それになんか最近、一部の女子の間でりょーすけの人気が上がってるみたいで。


 実は今回だけでなく、りょーすけを紹介してほしいって女子が別にもいた。


 特別イケメンなわけじゃないけど何気にパーツは整ってて磨けば光りそうだし、他の男子に比べても落ち着いてる印象があるし、何より優しいし、実は隠れ優良物件であることがバレてきているのかもしれない。彼の魅力は私だけ知ってるんだと思ってたのに。


 もし他の女子に彼を取られたらとか考えちゃうとすごく怖いけど、でもやっぱり踏み込むのは怖い……


 なんて考えを堂々巡りさせながら、なんとなく教室で残って一人で黄昏ていたら。


「おー小川、早く帰れよー」


 そこに柳先生がやってきた。


 委員会の取りまとめをしているのがこの先生で、20代で若くて顔もイケメンで話しやすくて、女子生徒から人気がある。


 正直、私も顔はタイプだなーとは思ってたし、同じ女子グループの子たちと一緒に話す機会も多くて、個人的にも仲はいい先生だと思ってた。


 でもこの時は、私にはりょーすけがいるしそんなの関係ないと思ってた。


「どーした?浮かない顔して。なんか悩みでもあるんか?」


 普段なら絶対にこんなことを聞かれて本音を話したりしないんだけど、なんかその時はさっきの出来事もあってナイーブになっちゃってて、なんか他の人に話を聞いてほしい気分だった。


 柳先生は学生の頃女性と結構遊んでたらしくて、生徒ともその話をよくしてたりして、恋愛の話をしやすい雰囲気もあった。


 それに同級生相手に相談するとりょーすけのことが広まっちゃうのもなんか嫌だったし、先生ならそういった心配がないから相談相手としてちょうどいいとも思ったのだ。


「は〜、幼馴染と甘酸っぱい青春ってか!若くていいなー」


「いやいや、先生だって若いじゃないですか」


 なんて和気藹々と話しながら、どうすればいいのかとか話してたら、なんか会話の流れで。


「じゃあ先生と恋人の練習でもするか?」


 なんて先生が言って。


 こんな冗談はよく言う人だったし、その時には「いや、なんでそうなるんですかー」なんて笑いながら流した。


 先生も全然本気だった様子はなかったし、この日はそれだけで終わった。



 でもその後、自分の恋心という共通の話題と秘密を共有したってことがきっかけになって、先生と顔をあわせる度に恋バナをするようになった。


 先生はすごい聞き上手でつい色々と喋ってしまったし、それに先生は私の懐の中に入るのがものすごくうまかった。


 一番それを感じたのは、話の盛り上がり途中とか拒否しにくいタイミングでのボディタッチが多かったことだ。


 お手入れした爪とかを褒められる時とか、

 冗談を言った時に軽ーーく腕を叩かれたりとか、

 帰るタイミングの挨拶で肩に手をトンッと置かれたりとか。


 すごく自然に触られるもんだから不快感を抱く暇もなくて、体の警戒心のハードルみたいなのがどんどんと下げられていってる感じだった。


 それに先生の顔は好みだったのもあって、そもそもの拒否感が少なかったのもある。


 あと、りょーすけとは全然違うゴツゴツとした手の感触とか、触られた時の体温とか、近寄った時に仄かにかおる大人なコロンの香りとか、男っぽいけど不快感のない体臭とか、イケメンの彼から漂うタバコの香りのギャップとか、そういうのにクラクラしちゃってて、自分の中で変な期待感みたいなものが育まれていってた。


 そうなってくると、なんか先生に会うのがすごく楽しみになっちゃってて。


 委員会終わりにわざと一人で残ったり、勉強の質問するふりしてわざわざ先生に会いに行ったり、彼だけが使える教室に連れてってもらったり。


 そんな私の様子を見て先生もチャンスと思ったのか、恋バナにかこつけて以前言ってた「恋人の練習」みたいなことをやるようになってた。


 この時には先生への警戒心みたいなものは完全に無くなってたし、「りょーすけとはまだ付き合ってないから」「あくまで練習だから」「他の男性の意見は大事だから」とか自分への言い訳の余地はいくらでもあったし、むしろ期待しちゃってたくらいだから、行為はどんどんとエスカレートしていった。


 手を繋ぐ。

 正面から軽いハグ。

 背中から抱きしめてもらう。

 お互いの首筋の匂いを嗅ぐ。


 そして。


「小川はキスしたことあんの?」


「……いや、小さい頃にりょーすけとしただけで、大人になってからはないです」


「じゃあやってみよっか」


 完全にのぼせ上がってた私はもう拒否する気なんてなくて、当たり前のように先生のキスを受け入れた。


 すごく軽いキスだったけど、先生の整った顔が近づいてくる瞬間とか、りょーすけと一緒にいた時にも感じたことないくらい胸がドキドキがすごかった。


 夕日が差し込む校内で、女子たちに人気の先生と隠れてキスしちゃってるという状況に深く酔いしれた。


 多分この時をきっかけに完全にタガが外れてしまって、完全に自分を制御できなくなっていたと思う。


 それから先生とキスするのが恒例になった頃。


「どう小川?キス、ハマっちゃった?」


「……はい、なんかすごくてドキドキが止まらないです」


「そっか、じゃあ俺たち正式に付き合おっか。これからよろしくな」


「へ?あ……は、はい」


 先生はそれを聞くと「じゃ、仕事あるからまた」とそのまま去っていった。


 え、今、私、先生と付き合ったの?


 なんかものすごいサラリと確定事項みたいな感じで言われちゃったし、キスした後の盛り上がってるタイミングだったから断れる雰囲気がなくて、ついついOKしてしまった。


 でも不思議と嫌な気分はなくて、”先生の彼女”みたいな響きに浮かれちゃって、むしろ嬉しい気持ちになってた。


 それに、もう当初の「りょーすけとの恋愛相談」ってのは完全に建前になっちゃってたし、先生と会ってる間はりょーすけのことを考える時間はどんどん少なくなってて、もう私自身先生に気持ちが傾いちゃってるんだと思ってたから。



 ※



 先生の彼女ってどんな感じなのかな、って思ってたけど、それは自分が思っても見なかったような魅力があった。


 中学生の頃に、○○ちゃんが○○くんを好きみたいな一部の人しか知らない情報を自分が知ってて、その二人を見ながら楽しむ、みたいな秘密の快感ってのは知ってたけど、この関係はその比ではなかった。


 他の先生たちのプライベートな裏話とか、先生の間での生徒の評判まで赤裸々に教えてもらって、それを知りながら授業を受けてる時。


 柳先生の授業中に私たちにしか分からないアイコンタクトでこっそり意思疎通してる時。


 柳先生のことがお気に入りな女子たちがキャーキャー言ってるのを聞いてる時。


 学校にいる間はずーっと周りに対する優越感があって、心の中でのニヤニヤが止まらなかった。


 デートとなると世間的に許されない関係だからなかなか難しくて、場所は基本的に先生の部屋だったけど、大人の男性の一人暮らししてる部屋に上がり込んでるそんな状況も特別感があった。


 先生の家へ行くのも道中に誰が見てるか分からないから迎えに来てもらったりはせず、帽子とマスク着用でタクシーに乗ってマンションの前まで直接行ってたんだけど、その代金もサラッと全部出してくれて大人な感じでカッコ良かった。


 そんな状況をすごく楽しんでたんだけど、やっぱり心に引っかかってしまってることがあった。


 りょーすけだ。


 この頃もりょーすけへの好意は持ってたんだけど、彼へのそれはきっと「家族愛」みたいなもので、先生に感じるドキドキみたいなのがホントの恋愛感情なんだと思うようになってた。


 先生と付き合ってるだなんて全く知らないりょーすけは、帰る時とかテストの勉強とか誘ってくれていた。


 その度にそれらを断ってたんだけど、やっぱりものすごい罪悪感があって。


 先生との関係なんて誰にも言わないほうが絶対にいいんだけど、自分の中にある好意をスッパリ断ち切るためにも、りょーすけにだけは伝えておくことにした。


 それでりょーすけを昔二人でよく遊んだ公園に呼び出して、その事実を伝えた。


「……そうか、わかった。お幸せにな」


 苦しそうな表情をしながら、そう言って走り去っていくりょーすけ。


 そんな彼を見て。


『やっぱり私のこと好きだったからそんな表情してくれたの?』

『先生から奪うとかそういう気概はないの?』

『それじゃあ私のことなんてやっぱり好きじゃなかったの?』

『それとも優しさで私の恋を応援してくれたの?』


 私の中で様々な思いが湧き上がる。


 でも、今の私は先生の彼女なんだから、そんなこともう関係ないし、考えてしまってはダメだと思い直す。


 そう。


 だから、この胸のズキズキとした痛みはきっと気のせいなんだと、自分を納得させた。



 ※



 りょーすけへの想いを断ち、自分の中でも正式に先生との付き合いを始めたということで、ついに先生と大人の階段を昇ることになった。


 でも正直、思っていたほどじゃなかった、ってのが私の感想だ。


 最初こそは裸で抱き合うとか初めての刺激だらけでかなり興奮しちゃったし、先生の女性の扱いも上手だったとは思うんだけど、いざ本番になると痛みでそれどころじゃなかった。


 2回目以降はちょっとずつ慣れてきたけど、それでも「力を抜いて身体を委ねる」なんてのがなかなか難しくて。


 大人の男の人に組み敷かれてるって思うと体が強張っちゃうし、倫理的にヤバいことをしてるってことで心にブレーキ掛かっちゃうし、それで濡れにくくなって挿入までに時間がかかっちゃうし、なんか悪循環になって全力で楽しむってことがなかなかできなかった。


 私の方から先生に奉仕しようと思っても、先生は私のたどたどしさを楽しんでたみたいで「そのままでいい」とか言ってろくにやり方を教えてくれなくて、お互いが心と体を通わせてる感じが全然しなかったのも大きい。


 あと、場所が先生のマンションの部屋に限定されちゃって、近隣にバレたりしないか気になって声を必死に抑えるよう意識してたのもありそう。ラブホテルはリスクがかなり高くてなかなか行けないし、学校なんて行為の音や臭い等を考えてもキスとは訳が違うから以ての外だ。


 肉体や粘膜の接触は単純に気持ちいいからそういう部分で楽しめていたとは思うんだけど、SEXでホントに気持ち良くなるには関係の積み重ねとか心構えとか環境とか色々必要なのかな、ってなんとなく思った。


 それから先生とのお付き合いに関しても、最初の頃の盛り上がりはだんだんと無くなっていってて。


 先生が若いって言っても年は離れてて共通の話題とか趣味も全然なかったし、先生たちの裏話とかもすぐにネタは尽きちゃったし、デートは家の中ばっかりでやることも無くなっちゃった。


 数回ほど先生の車で遠方までドライブに連れて行ってもらったこともあったけど、誰かに見られないかっていう方が気になっちゃってあんまり楽しめなかった。


 まぁでも他の彼氏がいる子もマンネリみたいな時期はあったって言ってたし、付き合うってこんなもんなのかな、みたいにこの時は軽く考えてしまってた。



 ※



「……え、嘘、陽性……?」


 生理が遅れてたから念の為と思って妊娠検査薬を使ってみたらまさかの結果だった。


 避妊に関してはしてもらってて、経験豊富な先生の言うことを聞いてればいいと思ってたけど、先生が盛り上がったときに油断しちゃったことも何度かあった気がする。


 すごい浅はかな考えだけど、まさかこんな簡単に人が妊娠するなんて思ってなかった。


 ……ヤバイヤバイヤバイヤバイ。


 あまりに突然の出来事に、全然冷静でいられない。


 子供って、学校はどうなるの?

 停学?退学?

 親にバレる?先生との関係も?

 先生はどうなる?捕まっちゃうの?

 私は?前科とかついちゃうの?


 とにかく色んな考えが浮かんでパニックになっちゃったけど、一番強く思ってしまったのは。


 ——絶対産みたくない。


 私は先生の彼女のはずなのに、彼の子供なんて産みたくないし育てたくないって咄嗟に考えてしまった。


 そもそも私はまだ高校2年生で、赤ちゃんなんて絶対育てられないし、それに来年には高校3年生になるんだから、りょーすけと進路を話し合って、その先のことを……


 ……


 …………


 そこまで考えたところで、愚かな私はとんでもない間違いを犯していたことにやっと気付いた。


 私、先生との将来なんて1回も考えたことない。


 高校卒業したらどうするとか、遠距離恋愛できるかとか、結婚するかとか。


 その時点で私、先生に対して本気じゃなかったんだ。


 それにもし、この子供がりょーすけとの間にできてたら、おそらくここまでの悪感情にならなかったと思う。


 りょーすけとの将来なんて何度妄想したかわからなかったし、彼との家族の信頼関係だってあるから、叱られはするだろうけど子供を産むんだとしても今感じているような不安はなかっただろう。


 私はあまりにそれらを軽んじてしまっていたんだ。


 ”好き”が一体何なのかって、ホントは私は知ってたんだ。


 たぶん私が先生に抱いてた感情って、ただの性欲だったんだろう。


 それを恋心と間違えるだなんて、私は本当にどれだけバカなんだ。


 でもどれだけ後悔しても現実は止まってくれなくて、ひとまず先生に相談することにした。


「まず産婦人科行ってちゃんと調べて。あと、このこと絶対誰にも言うなよ」


 それだけ言ったら通話が切れちゃって。別に欲しかったわけじゃないけど、私の体を気遣うとか、できてたら責任を取るとか、そういった全くないことに強い失望感を覚えた。


 いや、そもそも生徒に手を出すような教師がまともであるはずがない。冷静に考えればそんなこといくらでもわかるのに、自分の底抜けのバカさ加減が本当に嫌になる。


 それから親に内緒で産婦人科に行ったけど、結局妊娠してしまっていた。


 先生にそれを告げたら、「こっちで何とかするから待ってろ」とだけ言われて終わり。


 本当、なんでこんな男に……



 それからはもうずっと気が気じゃなくて、ソワソワして何も手につかない状況が続いた。


「ねぇ美月ちゃん、最近どうしたの?ずっと様子おかしいわよ?」


 あまりに私の様子がおかしいもんだから、両親が訝しんでご飯の度にそんなことを聞かれた。


 最初は誤魔化してたんだけど、心配してくれる両親に対して罪悪感がすごいし、もう私の中だけで抱え切れなくなってたから、いよいよ白状することにした。


「……子供が、できちゃったの」


 その瞬間、晩御飯を食べていた家族団欒の場の空気が、ピキッと割れた音がした。


 両親の顔から血の気がサーッと引いて青ざめていく。


「……相手は、亮介くんか?」


 父が辛うじて、といった様子で私に問いかける。


 それだったらどれだけ良かっただろう。


 私が横に首を振ると、母は口元を両手で隠して目を見開かせ、父は頭を抱えてしまっている。


「……だ、誰なの?」


 母の、絞り出したような掠れ声。


 怖い、真実を話すのが本当に怖い。


 でも、もう私は限界だった。


 しばらく俯いた後、意を決しながら、震える声で。


「……柳っていう、学校の先生……」


 そう告げた途端。


「イヤァァーーーーッ!!」


 母が髪を振り乱しながら絶叫する。

 父は口を開けたまま茫然自失で天を仰ぐ。

 母が暴れてカレーと味噌汁がそこら中に飛び散る。

 父の服にそれがかかっても、意に介さないほど呆けている。


「け、けけ、、警察……!」


 床を這いながら電話機を取ろうとする母。

 それを必死に羽交締めで止める父。


 いつものリビング、

 いつもの食卓、

 いつもの小川家定番の晩御飯。


 それなのに目の前に広がる光景はあまりにも異様で、恐怖で震えてしまって涙と嗚咽が止まらない。


 私がやってしまった事の重大さを、こんな状況になって初めて、心の底から理解した。



 ※



 両親が落ち着いてから、警察へ通報するのは性急だと判断されたが、やはり学校には連絡することになった。


 当然私はしばらく登校停止になり、柳先生を含めた学校側と両親を交えて話し合いを行なった。


 大事にはしたくない学校側の意向、警察まで巻き込みたい母親の意向がぶつかったが、同意があったと私が証言したこと、すでに校内外で事実が知られていることなど諸々を考慮して、柳先生の懲戒免職処分と私の停学処分で決着した。


 この時には柳先生への気持ちなんて皆無だったから、それを聞いても特に何も思わなかった。というか、話し合いの途中で、自分の罪が軽くなるとでも思ったのか「遊びのつもりで本気じゃなかった」などと言い出して、改めて呆れ返ってしまったくらいだ。


 合意がなかったことにして警察送りにしてやろうかとほんの少し思ってしまったが、さすがに良心が痛んだし、りょーすけには既に両想いで付き合ったと伝えてしまった手前、そんなことはできなかった。


 私たちの情報が広まっている件については、一瞬だけ「もしかしてりょーすけが?」なんて思ってしまったけど、よく聞いてみると先生が知人たちに妊娠のことを相談して、その内の一人が面白がって周りに広げちゃって、巡り巡って学校関係者に知られてしまったという経緯らしい。


 むしろりょーすけは何を聞いてもただ黙ってたらしくて、ずっと私を守ってくれてたのに、少しでも疑ってしまってどこまでも自己嫌悪が止まらない。



 お腹の子供についても話し合いを行い、堕ろすことになった。


 経済的な問題、先生も責任を取りたくない、私も産みたくないということでその判断になった。


 手術なんて人生初めてだったし、手術室の雰囲気や匂いはなんか独特で、その非日常感を実際に目にして、私が本当に妊娠してしまっている事実を改めて自覚させられた。


 手術自体は麻酔で眠っている間に終わったから何も感じなかったのだけど、終わってから目が覚めた後、なんか自分の中にすごく違和感があった。


 手術なんだから肉体的な違和感はあって当然なんだけど、それとは別のもっと精神的な感覚というか。


 自分の中の大切なものが、スッポリ抜け落ちたというか。


 その時はそれがいったい何なのかは、結局理解ができなかった。



 ※



 私の地獄はまだ終わっていなかった。


 悪意に塗れたSNSメッセージが、毎日のように送られてくるようになったのだ。


『柳先生返せビッチ!』

『佐藤くん弄んで楽しんでたんでしょ?』

『先生とのSEXって気持ちよかった?w』

『中絶したときってどんな感じでしたか?』

『恋愛相談!教師の落とし方が知りたいです!』

『大丈夫?あんた市内の学校中で噂になってるよ!』

『心配してます。早く学校に来て先生との話聞かせてね』


 直接的な罵倒から、心配を装いながら好奇心や皮肉が隠せていないような内容まで。


 全く知らないアカウントからも届いてて、もしかしたら他校の生徒にまで私の連絡先が共有されているのかもしれない。


 私なら何を言ってもいいみたいな雰囲気になってるみたいで、ブロックしても雨後の筍のように送られてきてキリがなかった。


 一番ショックだったのは、仲がいいと思ってた友達からもそういったメッセージが届いたことだ。


 本当に心配してくれてそうな友人もいたんだけど、それすらも裏があるんじゃないかと全く信じられなくなってしまった。


 しばらく時間を置いたらだんだん収まっていったけど、その内容は私の心に全て深く刻まれてしまっていて、私の心は完全に折られてしまった。


 こうなっては学校に行くのなんて当然できないし、誰に見られるかわからないという恐怖で外に1歩も出られなくなってしまい、復学なんてできるはずもなく結局そのまま退学することになった。


 ……私、全部失くしちゃった。


 ただの一時の性欲で。

 学校生活も、友人も、将来も、初恋も、何もかも。


 ……何で。

 何で私が、

 何であんな男に、

 何でこんなことに、

 何で、何で、何で……


 そんな時、机に置いてあったりょーすけと撮った写真が目に入る。


 噂のことをたくさんの人に質問されても何も答えず、きっと傷付きながらも私みたいな女のことを黙って静かに守ってくれていた、りょーすけ。


「助けて、りょーすけ……」


 そう呟いても、もう彼が助けてくれることなんて、きっと無い。


 だって私が彼を捨てたのだから。


 でもそれに今更気付いたって、もう何もかもが手遅れだった。


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