第3話

 最初は本当に幸せだったのだ。


 10年間止まっていた時間が動き出し、お互いの気持ちを確かめあって、心の底から好きな人を愛することができるんだから。


 一緒に住み始めて、同じソファに座りながら、誰の目もない二人だけの空間で思う存分イチャイチャする。初めてキスしたときはなんかは脳がビリビリと痺れた。


 両想いの恋愛とはこんなに素晴らしいのかと、初めて知る感情に溺れていた。


 しかし現実はそんな甘いものではないと、すぐに思い知ることになる。


 やがて二人の初夜を迎えた時。


 経験がなかった俺は、行為を始めて間もなく果ててしまったのだ。


 そのときの美月の「あれっ?」という表情を俺は見てしまった。見逃すことができなかった。


 ———今、誰かと比べなかったか?

 咄嗟にどす黒い感情が俺の心を支配する。


「……は、初めてだからしょうがないよね!よくあることみたいだし全然大丈夫だから、また次頑張ろうね!」


 美月が励ましてくれたが、俺の頭の中は別のことでいっぱいだった。


 そうだ、俺は経験がないよ。

 でもお前は違うよな。俺を好きだったにも関わらず、先生と関係を持った上に妊娠までしたんだから。

 失敗してしまった俺に対する皮肉か?


 そんな考えが無意識に脳裏をよぎってしまうも、すぐにハッと我に帰る。


 なんてことを考えているんだ俺は。


 過去は振り返らず、今を大事にすると決めたじゃないか。それに美月は純粋に俺を励ましてくれたんだ。それを皮肉だとか捉えるなんて、自分の性格の悪さが嫌になる。


「ごめん、次は頑張るよ」


 そう言って、何事もなかったように振る舞いその日はそのまま眠りについた。


 しかしそれ以降も、夜の生活はうまくいかなかった。


 女性との関わりを避けていた俺が持っていた知識なんて、AVやエロ漫画から得たものだけだ。しかしあんなのはファンタジー世界と同じで、現実で同じことをするとむしろ嫌がられることの方が多い。


「ほ、ホントにごめんりょーすけ、ちょっとだけ痛いかも……」


「あ、あぁ、悪い」


 そんな状態で努力しても、美月を満足させられるはずがない。


 とはいえ誰でも初めては未経験で臨むものだし、それ自体全く恥じることではないだろう。体の相性もあるだろうし、お互いがお互いを知りながら高めていくもののはずだ。分からないなら、美月にどうすればいいかちゃんと聞けばいい。


 しかし俺たちの場合、過去がどうしても邪魔をする。


 美月が気持ちいいと言うところはあの教師に教え込まれたものなんじゃないか?そんな疑念がふと湧き上がり、胸の下あたりがズクズクと鈍く痛み出す。


 だからどうしても俺の力だけで満足させたい。そんなプライドを持ってしまうのだ。


 実用的な知識もちゃんと調べれば見つけられるはずなのだが、この時の俺は感情に振り回されそんな発想に至ることができなかった。


 それでうまくいくはずもなく、空回りし続け、やがて俺は性行為に対して積極的になれなくなってしまった。



 そして不和は夜の営みだけではなく、日常生活でも見られるようになった。


 幼馴染で10年一緒に過ごした俺は美月のことを知り尽くしているつもりでいたが、それも全く甘い考えだったようだ。


 食器を洗う頻度。

 ゴミの扱い方。

 掃除の仕方。

 洗濯の仕方。

 睡眠時の寝相。

 冷暖房の快適温度。

 生活のルーティン。


 実際に一緒に暮らしてみないとわからない、初めて知る彼女の一面がたくさんあった。もちろん10年前の彼女と変わっているところも多かった。


 家事を雑に済ませていた俺と几帳面な彼女とでは度々すれ違いが見られた。


 美月を家に招待したときは気合いを入れて掃除していたし、ズボラな面は見せていなかったから彼女にとっても想定外だっただろう。


 責められるのはいつも俺の方だったし、俺が悪いのもわかっていた。まぁそれとなくやんわり言われるくらいではあったが。



 そして何より一番価値観の違いを感じたのは、金銭感覚。


 俺はお金にもだらしなかった。


 社会人になってからお金の管理なんてろくにせず何にいくら使ってるかもほとんど把握してなかったし、仕事のストレス発散のためにハマった趣味がソシャゲなのも悪かった。


 生活に影響が出るほどではないがイベント毎に課金するまでに熱中しており、ガチャを引くことは習慣になっていたので、結婚しても辞められずにいた。


 対して美月はお金にシビアだった。


 中卒で派遣の彼女の給料はそれほど期待できないだろうし、親ともギクシャクしてしまっただろうから、自分一人で生きていくためにはそうならざるを得なかったのかもしれないが。


「またガチャやってるの?」


「ああ、今回は推しキャラのイベントだからな」


「この前もイベントって言ってなかったっけ?」


「あれは別のゲームだ。色んなソシャゲに手をつけてるんだよな」


「趣味にあんまりケチつけたくはないんだけど……せめて貯金できるくらいには制限できないかな?」


「そうだな……まぁ今回のイベントは本当に楽しみにしてたから今回は大目に見てくれよ」


 こんな会話は日常茶飯事だった。


 恋の熱に浮かれていた頃は気にもしていなかったし「細かいところに気を遣えて可愛いな」なんて考えていたが、時間が経って指摘が積み重なると、正直息苦しいとも思うようになってしまった。


 そして虫の居所が悪い時なんかは、思考が最悪な方向に向いてしまうこともあった。


『俺を裏切った癖に生意気言うな』

『俺の方が稼いでるし、給料が少ないのは自業自得だろう』

『教師一人と子供一人の人生を潰しておいて説教するのか?』

『俺のことなんてどうせまた捨てればいいなんて思ってるんだろ』


 もちろんこんなことを口に出すようなことはない。


 過ちを犯した者が一生責められなきゃいけないのか、と言うとそんなことはないはずだ。


 だから俺の考えが理不尽で常軌を逸しているという自覚はある。


 しかし、無意識に頭に浮かぶことを止めることなんてできなかった。


 いや、むしろ口に出してしまえば楽になれたかもしれない。


 そんな状態でも怒鳴り合うようなことはなく、いつも曖昧に会話が終わっていた。


 お互い踏み込んで自分の考えをちゃんと話し合うということができなかったのだ。


 過去に触れることはなんとなくタブーな雰囲気になっていたし、それをすれば再び築いたこの絆もまた壊れてしまうような予感があったから。


 ここまで進む選択をしたのは俺だ。

 彼女を許さなければいけない。

 彼女を幸せにしなければいけない。

 後戻りしてはいけない。


 そんな強迫観念に囚われていた。


 家の中にいるときは笑顔で過ごすのだが、心の奥底からは笑えていない、どこか遠慮したような空気感の中で過ごすことになってしまった。



———そんな状況は、俺の会社に新人が入ってきたことで大きく変わった。


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