第2話

 それから俺はなんとか動揺を隠しながら仕事を終え、1K6畳のアパートへと帰宅した。


 コンビニで買った弁当を食い終えた後、ベッドに横たわって手渡されたメモを再び眺める。


「連絡先を消していたら」なんて彼女は言っていたが、彼女の連絡先を消したことなどなかった。


 当時はとても辛かったし、裏切られたと逆恨みのように感じていた時期もあった。


 しかしそれだけ想いが強かったぶん、忘れることもできなかったのだ。


 そして憎しみという感情は、時間が経つにつれて少しずつ風化していくものらしい。


ふとした瞬間に、美月との楽しかった頃の記憶が思い出されるようにもなった。


 美月が好きだったマンガを見かけた時。

 一緒に見た映画の続編が発表された時。

 学校帰りの高校生カップルを見かけた時。


 そしてその度に俺は考えてしまうのだ。


 美月は新刊を買っただろうか。

 新しい映画は観ただろうか。

 新しい恋人はできただろうか。

 今どこで何をしてるだろうか。

 過去から立ち直れただろうか。


 そんなことを幾度となく繰り返して、その度に傷つけられた過去を思い出して、自己嫌悪する。


 もはや美月との思い出は呪いだった。


「……いい機会なのかもしれないな」


 未練を断ち切れと、ずっと前に進めなかった俺に神様がチャンスをくれたんだと。


 そう考えた俺は、スマホに登録されていた美月の番号を探し、10年以上ぶりに彼女への通話ボタンを押した。



 ※



「りょーすけ、お待たせ」


「あぁ、俺も今来たところだよ」


 次の日、都合が合ったので早速俺たちは仕事終わりに会う約束をした。


 場所はチェーンの大衆居酒屋の個室。色気も味気もないが、このくらい気を抜いたほうが話しやすいだろうという考えだ。そもそもこんな場所しか知らないのだが。


「と、とりあえず飲み物頼もっか!はい、メニューどうぞ」


 美月の態度はどこかぎこちないが、それはきっと俺もだろう。お互い距離を測りかねている。


「あ、俺はビールでいいよ」


「そう?りょーすけもそんな年になったんだね」


「まあ職場で結構飲まされるからな。てか同い年だろ」


「まぁね。私も飲み会あるけど、お酒あんまり強くないんだ。だから私はいつもカクテルとか」


「それは意外だな。おばさんは酒強かったよな」


 会話のテンポも内容も、昔とは全く違っていた。しかし探り探りで、ほんの少しずつお互いの間にあったわだかまりが溶けて、会話が弾むようになる。


 美月は現在一人暮らしで派遣社員をしているらしい。あの出来事があってから数年は家に引きこもっていたそうだ。このままではいけないと働こうとするも、外に出るには近所の目があって地元で就職は避けたい。そういう経緯があり都会で就職しようとしても中卒の彼女はなかなかいい縁がなく、現在に至るまで派遣で細々とやっていると。


 ちなみに、俺が美月と出会った職場は先月から派遣が始まったそうで、だからこそ俺と会った時はタイミングの良さにビックリしたらしい。俺もつい最近今の営業所に異動になったばかりなことを伝えると、大きな目を更に見開きながら「えーっ!」と余計に驚いてくれた。


 そうして会話がひと段落して、頼んだ食事も一通り食べ終わった頃、美月が神妙な顔をしながら話を切り出した。


「伝えたかったことがあるって言ったよね?それは、あの時のことなの」


 まぁそうだろう。今の俺たちにとって、あの話は避けて通れない。そう思っていたら、突然美月が頭を深く下げた。


「あの時は、本当にごめんなさい」


「いや、なんで俺に謝るんだよ。お前は先生のことが好きで付き合い始めたってだけで。まぁ教師と付き合うのはどうかってのはあるが、俺に対して悪いことは何もしてないだろ」


「……そうだけど、そうじゃないの」


「え?どういうことだ?」


「ホントは、あの頃私はりょーすけのことが好きだったの」


 ……は?俺のことが好きだった?まさかの発言に戸惑いを隠せない。


「なんでそれが先生と付き合うことになるんだよ。そもそもあの時、先生のことが好きだって言ってたろ」


「……話すと長くなるんだけど」


 そう言いながら彼女は語り始めた。


 美月は俺のことが小さい頃から好きだったらしいが、関係が壊れるのが怖くて告白など踏み出せなかったらしい。しかし実は俺が一部の女子の間でモテていることを知り、焦っていたんだとか。


 そんなときに現れたのが柳先生。最初は恋愛経験豊富な彼のアドバイスを聞いていただけだったが、徐々に距離感を詰められ「練習だから」と恋人の真似事をするようになり、その間に絆されてしまった。


 それから教師と秘密の関係を築いていることにのぼせ上がっていった。


「あの時は本当にどうかしていたし、何度振り返っても気の迷いだったとしか思えない。少しずつ洗脳されていったような感覚だった。でも、気付けば全てが手遅れだった。」


 それを聞いた俺の心境は複雑で、どう反応したものか言葉に詰まる。


「失敗してから改めて人を好きになるってどういうことかわかったよ。一時の感情に振り回されるんじゃなくて、信頼を積み重ねて安心できる関係がいかに大事かってことを。最高の男の子が隣にいて、そんなの分かりきってたのにね」


 そう言って美月は自嘲気味に笑う。


「それで男性不信気味になっちゃってさ、プライベートで男の人と関わることなんて全くなくなったよ。恋人なんてもってのほか」


 そこで彼女は一枚の写真を取り出した。


「これ、覚えてる?二人で高校の合格発表のときに撮ってもらった写真。この写真を眺めながら寝るのが毎晩のルーティンになっちゃってるの。それくらい、ずーっと後悔してる」


 もちろん覚えている。受験番号を見つけた瞬間に思わず二人で抱き合っていたところを俺の母親が写真に収めたものだ。


「そんなときにまたりょーすけに会えたの。ホントに夢かと思ったよ。少し背も伸びてたし、雰囲気も変わっちゃってたけど毎晩写真を眺めてたから間違えようがなかったね」


 ああ、一目見て美月だとわかったのは俺も同じだったな。


「こんなチャンスは絶対にもう来ないと思って、必死に追いかけちゃった。きっと嫌われちゃってたと思うし半分諦めてたんだけど、連絡してくれて本当に嬉しかった」


 気付けばいつの間にか、彼女の声は震えていた。


「今日話したことも全部私に都合のいい話ばっかりで、りょーすけも困ってるだろうけど……それでもどうしても、あの時の本当の気持ちを、誰でもないりょーすけに伝えたかったの」


 美月は居住まいを正し、揺れる瞳でこちらを見つめる。


「だから、今夜は話を聞いてくれてありがとう。夢のような時間でした。りょーすけ、大好きだったよ」


 そう告げて美月は微笑んだ。


 おそらく彼女も俺と同じように、呪いに囚われていたんだろう。今夜未練を断ち切るために、全てを話してくれた。


 正直、話を聞いた俺の気持ちはかなり複雑だった。たらればで最高の未来があったことを想像してしまうが、過去をやり直すことはできないし、なくなったりはしない。

 

 しかしだからこそ、大切なのは今と未来を見つめ直すことじゃないのか。実際に美月と話していると、不思議とそんな気持ちが湧いてくる。


 俺はずっと脳内で過去の中の美月を相手にしていたんだろう。今目の前で実在する、傷ついた美月を大事をしたい。過去に出せなかった勇気を今出すべきなんじゃないのか。


 俺は、軽く深呼吸した後に、美月の目を見ながら告げる。


「……俺もあの頃、美月のことが好きだったよ」


「……え?」


 鳩が豆鉄砲を喰らった、といった表情。


「それに両想いなんだと思ってた。だから先生と付き合ったって聞いた時はかなりショックだったし、家で一晩中泣いたよ」


「……ごめんなさい」


「でもあの頃の俺たちの関係に胡座をかいて踏み出せなかったのは俺も同じだったよ。だからお前だけが悪いんじゃない。」


「いや、それは……」


「いや、そもそも俺が不安にさせてしまったのが原因だろ?まぁそう言っても美月は納得できないだろうし、俺も自己嫌悪するばっかりだから、この話はここでお終いにしよう」


「……」


「それでさ、あの時から美月をずっと忘れられなかったのは俺も同じだったんだよ」


「……りょーすけも?」


「あぁ、ふとした時に楽しかった頃を思い出しちゃうんだよな。過去をやり直せたらなんて何回考えたか分からないよ」


 そう言いながら頭を一掻きする。


「ただやっぱり、今すぐ元の関係に戻ろうなんてのは無理だと思う。お互い色々と傷ついてしまったみたいだし」


「……うん」


「ただ、友人としてならやり直せるんじゃないか?」


「えっ……?」


「俺もこっちに来たばっかりで知り合いも少ないし、これからも俺と会ってくれると嬉しい」


 そう言った瞬間、美月の目から涙が溢れ出した。


「いいの……?私はあなたを傷つけた、最低な奴なんだよ……?」


「もちろん過去はなくならないし、お互い割り切れないこともあるかもしれない。でも大事なのはやっぱり、これからどうするかだと思うんだ」


 そう言いながら、俺は美月へ手を差し出す。


「だから美月さえよければ、また仲良くしてくれないか?」


 美月はハンカチで顔を押さえながらも、その手を取ってくれた。


「……っ、ありがとう、ありがとう……!」


 泣きながらそう繰り返す彼女。


 ここが個室で本当によかった。



 ※



 それから俺たちは急速に距離を縮めて行った。


 お互い残業も少なく平日も顔を合わせることができたので、空いた時間はとにかくお互いのために時間を使うようになった。


 気になった飯屋に寄ったり、お互いのお家にお邪魔したり、街へ一緒に出かけたり。これまでの隙間を全て埋めるように、色んな話をして、とにかく笑い合った。


 美月との時間は、これ以上なく心地が良かった。


 当然だ。あれだけ一緒にいたんだから相性が悪いはずがない。それに俺たちは想いを確かめ合って両思いであることも分かっている。


 もはや、俺たちが関係を進めることに何の障害も躊躇いもなかった。


 気付けば再会から2週間後には婚約するまでに至っていた。


 俺の両親にそれを告げたらかなり驚かれたし、当時のことを知っていたから心配されたが、「お前の選んだ道なら応援する」と最後には後押ししてくれた。


 義両親にも挨拶のため久々に顔を合わせたが、涙を流しながら感謝された。


「二人が一緒になってくれたら、なんて小さい頃から考えてた。でもあの出来事があってからは叶わぬ未来なんだと落ち込んだ。でもまさか現実になるなんて思ってもみなかった」


 本当にありがとう、娘を幸せにしてやってくださいと。そう告げられて俺も思わず貰い泣きしてしまったし、この選択は間違いじゃなかったんだと確信する。


 隣に座る美月の笑顔を、これからずっと守っていこうと思う。


 ———このときは、そう思っていたはずだった。


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