第7話 小川美月

 りょーすけが話してくれた内容は、私の想像を絶するものだった。


 話を聞く限り、りょーすけは何も悪くないじゃないか。この世にそんな理不尽なことがあるのかと、言葉を失った。


 私たちが離婚したときは、弁護士なんて通さずに二人の間ですんなり決めちゃってたから、まさか離婚がそんなに複雑で残酷だったなんて全く知らなかった。


 それに、一度は愛し合ったであろう旦那にそんな仕打ちを人がいるなんて、同じ女性としても信じられない。


 ……もしかしたら、このような状況になってしまったのも私のせいなのだろうか。


 裕子さんとの間に子供ができる前に、私が浮気を追求していれば。

 認めてくれたら絶対許しただろうし、りょーすけも反省してくれて円満な夫婦生活を送れたかもしれない。


 浮気を自白されたときに私が身を引かなければ。

 認知だけしてもらって、私も一緒に育てるくらいの覚悟でりょーすけとの夫婦生活を続けるという手もあったかもしれない。


 裕子さんに会ってりょーすけの相手に相応しいか見極めていれば。

 私は制裁なんてする気がなかったから、結局裕子さんに会わないまま離婚したのだが、一目でも彼女のことを見ていれば私の気は変わっていたかもしれない。


 でも、そうはならなかった。

 だからそれを今更考え直しても仕方ない。


 しかし、今の彼に何と声を掛けていいのかわからない。


 大丈夫だよ?

 辛かったね?

 りょーすけは悪くないよ?


 ……どの言葉も薄っぺらいし、何も生まれないだろう。


 そうやって考えながら沈黙していると、


「……ごめん、美月」


 りょーすけが突然、改めて、といった感じで頭を下げながら謝罪の言葉を口にした。


「え、何が?」


「美月を裏切って子供まで作って、その子供を幸せにするためにお前と離婚したのに、お前はそれを理解して身を引いてくれたのに、俺はその子供を守ることができなかった。だから、今回の件は美月をまた裏切ってしまったということでもあると思う。本当にすまなかった……」


「……」


 ……あぁ、そうか。

 あなたも私と同じなんだね。

 やっぱり幼馴染、似たもの同士なのかな。


 ならば、かけるべき言葉は決まっているよね。


「ねぇ、りょーすけ」


 そっと呟くように彼の名前を呼ぶ。


 りょーすけはゆっくりとこっちを見てくれた。


 そして私は、彼に告げる。


「——私たち、また一緒に暮らそうよ」



 ※



 りょーすけは何を言われたのかわからない、という顔で固まっている。


「……いや、え。何、を……?」


「私さ、正社員になってお給料増えたんだ。まぁ余裕があるとまではいかないし無駄遣いはできないけどさ……私は節約慣れっこだし、りょーすけと一緒に暮らす事くらいはできると思うの」


「いや、お金の問題じゃ……」


 突然の提案にテンパってるりょーすけ。


 まぁいきなりこんなこと言われても困るよね。


 でも、今の私たちにとってはこれがベストなんだと思う。


「りょーすけは、私との結婚生活はどうだった?……やっぱり、嫌だった?」


「……辛いこともあったけど、幸せだった、と思う」


「思う?」


「あれから、俺も色々考えてたんだ。俺は美月のことは間違いなく好きだと思ってた。でも結果としては俺が全てを裏切って捨ててしまった。今となっては、それが本当に好きという感情だったのかすらわからなくなってきたんだ」


「……」


「全部が俺の気の迷いだったんじゃないかって。美月も言ってたろ?先生と付き合ったのは気の迷いだったって。俺の美月へのプロポーズは、それと一緒だったんじゃないかって思ってしまうんだ」



「……そうじゃない!」



 りょーすけがビクッとした反応を見せる。


 し、しまった……つい大きな声で遮ってしまった。


「ご、ごめん……怒ってるとかじゃないから、安心して。つい声が出ちゃって……」


 でもこの話はずっと私も考えていたことだ。それを伝えなきゃいけないから。


「あのね、うまく言えないんだけど……それらは、一緒だけど一緒じゃないと思うの」


 ……なんかいつかもこんな言い方しちゃったことあったなぁ。


 当然だけど、りょーすけはよく分からないという顔をしてる。


「えっと、私が言いたいのは、『気の迷い』なんてものは存在しないんじゃないかってこと」


 これでもきっとまだ伝わらないだろう。


 ちゃんと伝えられるかわからない。

 何が正解かなんてわからない。


 でも、私は決めたんだ。


 今、私が正しいと思う選択をしていくって。



 ※



「私もさ、りょーすけと離婚してから、ずっと色んなこと考えてたよ。何でこんなことになったんだろうって。何を間違えてたんだろうって。過去を思い返せば『あの時こうしてれば』なんてものは無限に出てくる。先生と付き合っていなければ、早く私からりょーすけに告白してれば、そうやってずーーっと後悔してきた」



「でもその内にさ、そんな『もしも』を考えるなら、他の可能性も考えなきゃいけないんじゃないか、って思うようになったの」



「本当に、本当に想像するのも恐ろしいことだけど……例えば私が、もし先生とあのままうまくいってたら、とか……」



「私が先生と付き合ったのは、本当にその場の雰囲気に流されただけだった。つまりその時点では、先生の内面なんて全く見ていなかったし、全く知らなかったんだ。ってことは、もしかしたら先生が実はすごくいい人で、私をすごく大事にしてくれて、学生のうちに妊娠もしなくて、結婚していたような可能性も、ゼロだったとは言えないんじゃないかって」



「本当に万が一……そんな未来が訪れてたら……私はその時、きっと先生と付き合ったことを『気の迷いだった』なんて言わなかったんじゃないかって思う」



「りょーすけだってそうなんじゃないかな。私たちは色々と噛み合わなくて離婚しちゃったけど、もし私が変わってなくて夜もうまくいって順風満帆な夫婦生活だったら、私と結婚したことを『気の迷いだった』と言わなかったんじゃない?」



「そして裕子さんとの関係も。飲み会の勢いがきっかけって言ってたけど、誰にもバレることなく人間的な相性も良くて全部がうまくいってたら、きっとその時もりょーすけは『気の迷いだった』とは言ってなかったはず」



「私たちはこれまでの人生で様々な選択をしてきた。それなのに失敗や後悔ばかりに目を向けて、成功したことや現在進行形で楽しめてることは全然考えないし、それを『気の迷いだった』なんて言うことはない。間違いなくその瞬間はそれを正しいと思って選んだはずなのに、後から失敗だと分かったときにだけ、全部結果論で自分を納得させようとしてるんじゃないかって」



「私が『気の迷いなんて存在しない』って言ってるのはそういう意味なの」



「過去は変えられないし、無かったことになんてならない。そんな『もしも』の世界線はどこにも存在しない。どんなに辛い過去も、私が私として生きていくなら絶対に向き合わなきゃいけない」



「だから私たちにできることは、今その瞬間に正しいと思えることを選択し続けていくことだけ」



「私はこれまで、たくさんの過ちを犯してきた。それでも、その過ちの末に辿り着いたりょーすけとの結婚生活は、私の人生で一番幸せだったって胸を張って言えるよ。だからなのかな、考え方はちょっとだけ変わってきたんだ」



「これから将来、何か大事な選択をする瞬間がきっと何度も訪れる。そんな時には私は、未来の自分に恥じないような、自分の子供に見せても恥ずかしくないような、そういう選択をしようって思うようになったの」



「それって私の場合、もし自分の娘が教師の子供を妊娠しても、心の底からはもう怒れないってことなんだよね。失敗談としては説得力あるのかもしれないけど、そのためには失うものが多過ぎるってことも私は知っている」



「そんな考えだから、今の私は正しいと思うことを選択できているつもり。ここでりょーすけを見捨てるような姿を、未来の自分や自分の子供に見せたくない」



「だから私は、りょーすけと一緒に暮らしていきたんだ」



 ※



 ……ふぅ。


 つい力が入りすぎて、呼吸を疎かにするくらい長々と喋ってしまっていた。


 でも今私が伝えたいことは言えたと思う。


 だから今度はりょーすけの番だ。


「私の考えはこんな感じ。りょーすけはどうかな?」


 りょーすけはしばらく考え込んだ様子を見せた後、語り出す。


「……俺も、許されるならお前と一緒にいたいよ。俺の立場では本当に最低な言い方になってしまうけど、裕子と一緒にいることで、美月っていう最高の女性と暮らせていた自分がどれだけ恵まれていたのか改めてわかった」


「……うん」


「でもやっぱり、心が追いつかないんだ。あれだけ良くしてくれていた美月を裏切った自分が怖い。そんな自分を許せない。こんな俺なんかより、美月にはもっと相応しい人がいるって思ってしまうんだ」


「いないよ、そんな人」


 りょーすけのそんな戯言を一刀両断する。


「離婚する時の話し合いでも言ったけど、りょーすけが不倫したのは私の過去のせいだと思ってる。それはりょーすけも心当たりあるんでしょ?」


 気まずそうに下を向き黙っているりょーすけ。


「りょーすけはずっと変わってなかった。私が家事で小うるさく言っても文句言わずに改善しようとしてくれて。夜も私を満足させようと頑張ってくれて。私が大好きだった最高の男の子のままだった」


 りょーすけは何か言いたげだったが、あえて無視して話を続ける。


「そんなあなたを罪へと陥れてしまったのは私自身。つまり自業自得なんだから、それでりょーすけの印象が悪くなるはずないし、あなたを超える人なんか一生現れるはずがないの」


 その証拠と言わんばかりに、左手の薬指につけたままだった指輪を見せつけると、やっと気付いたのかギョッとした表情を見せるりょーすけ。


 分からず屋の幼馴染に私の愛の深さをちょっとでも思い知らせることができたようで、その反応に満足する。


「だから私も、りょーすけに対して罪の意識は増える一方なんだ。りょーすけだってそうなんでしょ?今抱いてる罪悪感の根っこは、きっと私を裏切ったことなんだよね?」


「……多分そう、だと思う」


「それなら、私たちはきっと一緒にいたほうがいいよ。お互いの罪を舐め合うような関係でも、きっと前は向けるようになるはず。紬ちゃんのために、頑張りたいんだよね?」


「……あぁ」


「だったら、それを私にも背負わせてほしい。こんなことがあったばかりだし、結婚なんてしなくていいよ。恋人でもなくていい。ただの幼馴染として、一緒にいよう」


 私はいつでもウェルカムなんだけどね、と軽く笑いながら付け足しておく。


「だからね」


 そう言いながらりょーすけの首元へ腕を回し、彼を抱き寄せる。


「私の命を、あなたの贖罪のために使ってください」


 久しぶりの、りょーすけの温もり。


 ——ああ、やっぱりこの選択だけは、きっと間違いじゃないよ。


 だって今の私の姿は、100年後の私にも絶対見せてあげたいから。


 りょーすけは、少しの間目を瞑りながら沈黙した後。


 私の背中へと腕を回して、ギュッと力強く抱きしめてくれた。


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