第6話 炎
はい。本郷丸山の御家人屋敷から出火した大火でございます。
話に聞く、明暦の大火や丙寅の大火と比べれば、規模は小さかったといいますが、あれはあれで、よう燃えたのではないでしょうか。
後で聞くと、江戸の東半分が、すべて焼けたという話でございます。
不謹慎なことではございますが、火が出たと聞いたわたくしは、それ、火事だ。炎を描く機会がやってきた。ここで描かねば、なにが絵師かとばかりに、急いで家から筆と紙を持ち出しました。
なんでございますか?
炎を描きたくば、焚火の炎を、はあ、描けばよいと……。
いえいえ、それは鰯と鯨ほども違いましょう。
鰯の姿から想像し、鯨を描くことはできますが、やはり本当に鯨を描くのならば、この目で見ないことには話になりません。
それも、遠目からだけではなく、触れるほどの間近で見なくてはなりません。
わたくしは、逃げる人波に逆らい、火事場に駆けつけると、熱気に顔をチリチリと炙られながら、一心不乱に燃え盛る炎を描きはじめたのでございます。
顔に火膨れができるほどに炎が迫ってまいりますと、場所を移動し、そこで改めて筆を手にします。
一度など、着物に火が燃え移った男が、狂ったように大笑いをしながら、わたくしの目の前を走り抜けていきました。
あれは、なんでしょうな。人間というものは、どうにもならなくなると、笑うものなのでございましょうか。
しかし、今にして思えば、よくもまあ、炎と煙にまかれて死ななかったものでございます。
炎というものは、一時として同じ形をしておりませぬゆえ、それを紙に描くことは、大変に難しゅうございました。
はあ、炎など、形があって無きようなもの。それを絵にするなど無茶と言われますか。
いえ、そんなことはございません。
お役人さまは、葛飾北斎の『富嶽三十六景』をごぞんじでございますか?
そうでございます。お分かりになりましたか。
はい、大波が船を飲み込もうとする、はい、まさにそれ。『神奈川沖浪裏』でございます。
ああ、このように、言葉にする前に察していただけるということは、まことに嬉しいことでございます。
三隻の船に襲い掛かる大波。舞い散る波しぶき。彼方に小さく見える不二のお山。
あまりに見事な浮世絵でございます。
動かぬ絵でありながらも、それを見る者の眼には、次の刹那に崩れ落ちていく大波のようすが、はっきりと見えるのではないでしょうか。
お分かりになっていただけましたでしょうか。
うねる波が描けて、逆巻く炎が描けぬわけはないと、わたくしは、町をなめつくす業火を筆ですくいとり、紙に叩きつけるようにして描き続けました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます