画狂の人
七倉イルカ
第1話 暁
河鍋暁斎。(1831~1889年)
幕末から明治初期にかけての絵師。
浮世絵、錦絵、美人画、幽霊画、戯画、妖怪画、風刺画など、あらゆるものを貪欲に描き、その迫力に満ちた画風は、国内外で高い評価を得ている。
中でも政府や特権階級に対する風刺画は、その筆先の描くところ、ユーモラスでありながらも刃のように鋭く、反骨の絵師とも呼ばれる。
埼玉県蕨市には、暁斎の曾孫が設立した、河鍋暁斎記念美術館がある。
◇◆◇◆◇◆◇
「きみたちは、暁斎センセイの『筆禍事件』を知っているかね?」
ジョサイアは青い目で、麻布の自宅に訪れた若者たちへ問いかけた。
外国人特有のアクセントで、「暁斎センセイ」と口にしたときのジョサイアの声は、湿りを帯びてあたたかく、それが切ないほどの親愛の情を感じさせた。
ジョサイア・コンドルは、イギリス出身のお雇い外国人のひとりである。
お雇い外国人とは、幕末から明治初期にかけ、最新技術や学問を取り入れるため、江戸幕府や明治政府が、海外から雇い入れた専門家たちのことをさす。
彼らの尽力によって、日本の技術、制度、学問は、急速に成長した。
ジョサイアは、ロンドン大学を出た建築家である。
その手腕はたしかで、明治十年、二十五歳で来日してから、近代化の象徴とされる鹿鳴館、三菱一号館、二号館、三号館、旧海軍省本部などの設計を手掛け、さらに辰野金吾ら、日本建築家の育成にも力を注いだ。
お雇い外国人のほとんどは、契約期間が終わると、母国へと帰っていったが、日本の風土や文化に魅了された幾人かは、日本を第二の故郷として定住した。
英語教師として来日した、イギリス人のパトリック・ラフカディオ・ハーンなどは、その代表とも言える。
ハーンは、後に日本国籍を取得し、日本文化を海外に紹介した。
彼の、小泉八雲という筆名は有名である。
ジョサイア・コンドルも、ハーンと同じく日本に定住したお雇い外国人である。
ジョサイアは、来日して四年目に、河鍋暁斎の絵に衝撃を受け、その門人となって親交を深めた。
毎週土曜日になると、欠かさず暁斎の元を訪れ、二年後の明治十六年には、暁斎から『暁』の一文字をとった、暁英の号を授かるほどの熱心さであった。
それからすでに三十六年の月日が流れ、暁斎は没し、年号も明治から大正へと変わった。ジョサイアが日本に訪れてから、四十年以上の月日が流れている。
ジョサイアに「『筆禍事件』を知っているかね?」と問われた、若者の一人が答えた。
「上野の書画会での件ですね」
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