第12話 妻
とくに登勢は、このような面相の大酒のみの元に嫁いでくれたにもかかわらず、愚痴ることは一切なく、いつも菩薩のように微笑みながら、あれこれと細やかに世話をやいてくれる、優しく面倒見の良い女でございました。
あれは小雨の降る日でございました。
登勢は、いつものように、ほんの少し微笑みながら、わたくしに熱いお茶を入れてくれました。
わたくしは、このとき、ふと、怖くなったのでございます。
この女は、なぜ微笑んでいるのだろうか、と。
わたくしの目には、お茶を差し出す登勢の微笑みが、なぜか、ひらひらとした薄っぺらい着物の柄のように映りました。
登勢の微笑みに、腹の底に巣食う画鬼がうごめきました。
着物の下には肉と骨がある。ならば、この笑みの下には、一体、何があるのだろうかと。
画鬼がうごめくと、もう笑顔の登勢が、本心から笑っているとは、到底思うことはできなくなりました。
わたくしのような男の元に嫁いだ身を嘆き、恨み、哀しいんでいるに違いないと思うようになったのです。
はい。人というものは、笑いながら心の内で泣き、泣きながら心の内で嘲笑することができる生き物でございましょう。
わたくしは、それが描けているのか?
人間の表と裏のおぞましい矛盾を描けているのか?
そう自分に問いかけてみれば、否としか、答えようがありませんでした。
ならば、描くしかございません。
その日から、登勢を前にして、筆を取る日がつづきました。
しかし、これは難しゅうございました。
登勢の本心が見えぬのでございます。
「わしに嫁いで後悔しているのではないか」と問いましても、登勢は「そんなことはございませぬ。登勢は幸せでございます」と微笑みます。
「お登勢。このような醜男に抱かれることは、さぞ辛かろう」と問いましても、登勢は「旦那様の目はお優しい。その目尻のしわに、登勢は心が安らぎます」と微笑みます。
「稼いだ金を、すべて酒手とされるのは、腹ただしいであろう」と問いましても、登勢は「旦那様が稼いだお金。どのように使われようと、登勢はかまいませぬ」と微笑みます。
これが本心かと思うほどの慈愛に満ちた笑みでございました。
ただ、これを毎日繰り返していきますと、ひとつ言葉を投げかけるたびに、薄皮が一枚はがれるように、登勢の笑みに暗い陰がさすようになりました。
「辛かろう」「正直に申せ」「本心はどうじゃ」と、わたくしは、ずいぶん酷い言葉を使い、登勢の心の内を抉りだそうといたしました。
そして、ときおり笑みを割って垣間見える登勢の暗い表情を丹念に拾い集め、描きあげたのが『幽霊図』でございます。
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