第2話 お嬢様と烏

 ここ一年は、不幸続きだった。


 まず、育ての親であるくるみの祖母が亡くなった。

 酒と賭博に溺れた両親からくるみを引き取ってここまで育ててくれた恩人だ。生活は楽ではなかったけれど、優しく温かい祖母だった。


 祖母が亡くなったら、遺産として引き継いだ土地を村に入会地として没収された。それだけならまだしも、妻子ある身の庄屋の息子がくるみに言い寄ってきたので、そのまま逃げるように村を出た。少ないながらも手持ちの貯金や家財を売り払い、祖母の昔のツテを頼って華族の一家を尋ねたら、手紙の行き違いで住み込み女中の枠は埋まっていた。くるみはひとり、知り合いのいない、帰る場所もない都会で途方に暮れることになる。


(さすがに、無鉄砲だったかなあ……)


 当てもなく、ふらふらと見知らぬ街をうろつく。鈍色の空からぽつり、ぽつり、と雨粒まで降ってきて薄い無地の着物に水玉を作る。水に濡れると波打つようにうねる髪で視界が遮られる。歩き詰めの足元は泥だらけで、くるみはとうとう、道の脇で座り込んでしまった。道ゆく人々は傘を差し、平然と素通りしていく。田舎であるなら、すぐにひそひそと噂話が立つけれど、ここはハイカラな港町。知り合いがいないから、とても気楽で。そして、とても心細そかった。


「あら、あなた。どうしたの? 具合が悪いの?」


 唯一、声をかえてくれた豊穣家ほうじょうけのお嬢様──美乃里みのりがいなければ今頃路頭に迷っていただろう。上等な袴と大きなりぼん。手入れされた黒髪に、白い肌。お人形のような美しい娘で、くるみは返事をすることも忘れて見入ってしまった。控えている付き人が煩わしそうに窘めていたが、美乃里みのりは軽くいなして、くるみに傘を傾けた。所作も装束も容姿も、一目で違う世界の人間だと分かる生粋の上流階級。うろたえるくるみに「びしょぬれじゃない」と手巾ハンカチを取り出し、くるみの髪をぬぐってくれた。


「わっ! だ、大丈夫です! 汚れちゃいます! こ、こんなに綺麗な手巾ハンカチがっ!」

「綿製の安物よ。手ぬぐいと変わらないわ。今度絹の手巾ハンカチを買ってもらうから、捨てようと思ってたの。あなたにあげる」

「そんな、見ず知らずのお方にそこまでして頂いていくわけにはっ……」

「いらないなら、貴方が捨ててちょうだいな」


 そうして、くるみの両手に真っ白の手巾を握らせる。その手が温かくて、その気遣いが心に染みて、ぽろり、と涙がこぼれた。美乃里は目を見開いたあと、優しく微笑み、「よければ事情を聞くわ」と肩をさすってくれた。封を切るように溢れ出した涙と一緒に、くるみはこれでの経緯を吐き出した。涙と鼻水に濡れて、手巾はぐちゃぐちゃだ。美乃里は「それは気の毒ね」と肩を撫でながら、くるみの薬指にはまったキラリと光る指輪を興味深そうに眺めた。


「そんなに困っているのなら、どうしてこの指輪を売らなかったの? いくらか足しになるんじゃないかしら?」

「……こっ……これは、祖母の形見の大事な指輪で、思い出で……これだけは、できれば手放したくないんです……」


 そう、と美乃里は長い睫毛を伏せた後。そばの付き人に話を通し、


「よかったら、うちに奉公にいらっしゃる? 人手がなくて困っていたところなの」


 願ってもない申し出に目を丸くすると、美乃里はフフと微笑んだ。


「ただし、うちの屋敷のもの、盗んではだめよ。舶来品や調度品、家具も異国の珍しいものがいっぱいあるから──?」


***


──そんな、昼間に聞いたばかりの、お嬢様の忠告を、まるで走馬灯のように、思い出した。それくらい、目の前の光景は非現実的で。


「返せ! 返せ! 返せ! 供物ドロボー! 僕の奉納品を横取りするな!」


 ばさばさと羽ばたく羽音。

 ギャアギャアと耳障りな鳴き声。

 数えきれないほどのカラスの目玉が、こちらを凝視している。


 夕暮れのごみだらけの裏山で、自分の首根っこを引っ掴んだ男は明らかに普通ではなかった。妖しく光る琥珀色こはくいろの瞳。指の先は鋭い鉤爪かぎづめになっていて、長い黒髪は羽毛のように毛羽立けばだち、ざわめいていた。なにより異様だったのは──背中から生える二対の黒い翼。どうみても、人間、ではない。


「何か言い分はないの? ないなら、この目玉をほじくっちゃうから!」

「ひっ! ま、まって、あなた、だれ、く、くもつ、ってこれ、ぜんぶ、ごみなんじゃないの!?」


 必死に絞り出した反論は、弁明どころか、火に油だった。その男の空気は一変した。駄々こねのような癇癪が、すっと冷え。


「君も、僕の供物をごみって呼ぶんだね。ここにあるものは全部、ごみなんかじゃないよ。僕の宝物さ」


 身が震えるような殺気。

 大きな翼が羽ばたいて、旋風が起きる。木の葉や羽根が飛び散り、砂埃が巻がった。カラスたちがけたたましく鳴く。くるみは震えあがった。

 男の左爪がばきばきと伸びて、鋭利な爪先がくるみの眼球めがけて、突き刺すように近づいた。


(こ、殺される……!!)


 とっさに両腕で顔をかばう。恐ろしさのあまり目をつぶったが、斬撃はやってこなかった。おそるおそる開けると、吐息がかかるほど間近に異形の眼があった。その目はくるみの目玉──ではなく、くるみの薬指を凝視していた。


「──へえ、これ、いいね。すっごく綺麗」

「……え?」


 間の抜けた声を出した瞬間に、するり、と指からなにか引き抜かれる。男の指の中で、光る透明な輝き。あれは──


「これ、ちょうだい。そしたら見逃してあげるよ」

「あっ……それはおばあちゃんの……!」


 形見の指輪、と続く声はむせて音にならず。

 男は満足気に自らの指に、その透明な輝きをはめた。くるみのことなど、もう興味をなくしたのか、ばさりと大きな翼を広げ。


「今回はこれで許してあげる。これに懲りたら供物ドロボーはもうしないこと! 次は本当に目玉をもらうからね!」


 べぇっ、と舌を出し、その場から飛び立った。あれだけ取り囲んでいたカラスたちも姿を消す。

 腰を抜かしたくるみは、降り注ぐ黒い羽根を見つめることしかできなかった。

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