第3話 迷信と指輪

 その後、命からがら、くるみは逃げ帰った。


(あ、あやかしって……妖怪って、本当にいたんだ!)


 天狗てんぐか、化鳥けちょうか、はたまた、山神やまがみか。古いお山には山の怪異が出る。

 昔はたくさんいたんだよ、と祖母から聞いていたけれど、この目で見たことはなかった。しかも、まさかこんな都市部で目のあたりするとは思わず、裏山から駆け降りて豊穣邸ほうじょうていの灯りが見えた途端、泣きだしそうになってしまった。裏の勝手口から勢いよく飛び込むと、ちょうど湯あみを終えた美乃里みのりと出くわした。


「あら、おかえりなさい。くるみ。遅かったわね」

「おっ、お嬢様あっ……!! いま、裏山に……!!」

「ええ、女中頭じょちゅうがしらに聞いたわ。ごみ捨てご苦労さま。帰ってきたってことは大丈夫だったのね」


 開口一番に美乃里みのりがそんなことをいうので、今まさにこの目で見てきたことを報告しようとしたくるみは出鼻をくじかれた。


「怖がらせたら悪いかと思って、黙っていたの。あの裏山、あやかしが出るって噂があるの」

「えっ……ど、どういうことですか!?」


 淡い花びらのような爪先を唇に当て、「ただの噂よ」と美乃里みのりはため息をついた。

  

「あの裏山からたまに帰ってこない人がいるのよ。ごみを持ち逃げして行方をくらませたり、獣に襲われたりしただけだと思うんだけど、あやかしのせいだ、なんて変な噂を立てられて困っているの。今日、病院にかつぎこまれた女中だって、足を滑らせて硝子ガラスで首を切っちゃったんだって。ごみだらけだものねあの山」

硝子ガラスで切った……? って、もしかして──)


 あのあやかしの鉤爪かぎづめに襲われたとしたら。


「……あ、あの、お嬢様!! あの山には本当に、」


 あやかしが、と続けようとしたが、美乃里はぎゅっとくるみの手を握りしめ、にこやかに笑った。


「迷信も俗説も風習も、古臭いのは大っ嫌いなの私。今どき、あやかしなんて、時代遅れじゃない? 豊穣家うちの所有する山にあやかしが出るなんて、恥ずかしいわ。くるみはそんなこと言わないわよね?」

「えっ……え!? あっ……いや、そ、そのお……」

「お父様の仕事相手は異人さんも多いから、そんな外聞悪いこと言いふらす女中は問答無用で解雇なのよ。よかったわ」

「えっクビ!?」


 くるみは視線を彷徨わせた。命は惜しいがクビは困る。美乃里は「あ、そうそう」と箪笥タンスから真新しい着物を取り出し、くるみに手渡した。鮮やかな橙色の木綿着物。


「着替えよ。ほとんど荷物もないんでしょう? 安物だけど」

「し、新品!? もらえないです!」

「このお屋敷にいるなら、女中だろうと綺麗にしてほしいだけよ。見て、素敵な橙色でしょう? 流行りの新色なんですって。……今着てるぼろ切れは明日、裏山にでも捨ててきなさいね」


 う、とくるみは返答に迷う。美乃里はくるみに着物を合わせて「似合うわ」と微笑み、


「くるみを雇うこと、お父様も正式にお許しくださったわ。本当は下女じゃなくて私付きのお世話役にしたかったんだけど、さすがにだめだって。残念ね」

「いえ、そんな、十分すぎる待遇です! もったいないお言葉ですっ……!」


 恐縮して畏まるくるみの巻き毛を撫で、本当に残念そうにくるみの瞳を見つめていた。


「今日は疲れたでしょう? お風呂に入って休みなさいな。住み込み用の女中部屋があるから、明日からよろしくね?」


 と、軽やかに去ってしまった。


***


(ど、どうしよう……言いそびれちゃった……)


 湯あみを済ませ、あてがわれた女中部屋に通される。豊穣家は和洋折衷の大邸宅だったけれど、女中部屋は昔ながらの和室でほっと息をつく。くるみの他にも数人雇われ女中たちが住みこんでいて、雑魚寝して過ごす一室だ。くるみは挨拶もそこそこに早々に布団に籠った。簡単な顔見せしかしていないが、貿易商の大旦那さまも、華族の奥様も、一人娘のお嬢様も皆優しくて、くるみの境遇に同情すらしてくれた。ただの下女に破格の扱い。それを思い知るたびに「この家の裏山、変なあやかしが住んでますよ」とはどんどん言えなくなってしまった。なにより。


(あの指輪、おばあちゃんの、形見……!)


 あれだけは、どうにかして取り戻さないと。

 着飾るということに無頓着だった祖母が唯一肌身離さず身につけていた指輪。早くに亡くなった祖父からの贈り物かと尋ねると、祖母はゆるく首を振った。


 祖母がまだ若いころ。祖父の住む山間の田舎に嫁ぐ以前。祖母の生まれ故郷はこの港町だった。当時はまだ、どこにでもある漁港で、今ほど発展もしていなかったある嵐の日、異国の船が難破したことがあったそうだ。乗員のほとんどが海に投げ出されたが、近隣住民の総出の救出と看病のおかげで、一命をとりとめた青年がいた。その異国の青年と祖母は恋に落ち、青年が國に帰るときにこの指輪を祖母に渡したそうだ。


 助けてくれたお礼に。──いつかきっと、迎えに来る約束に。異国では、結婚する相手に渡す贈り物なのだという。


 その青年の話をするときはいつも、祖母は柔らかく目を細め、年若い少女のような顔をした。


胡桃色くるみいろの瞳と髪をした男の人でね。すごくかっこよかったのよ。異国の皇子様みたいだった」


 結局、その彼が、祖母を迎えに来ることはなかったけれど。亡くなる間際まで、祖母は指輪を大切にしていた。


金剛石ダイヤモンドっていう、すごく高価な宝石らしいの。くるみにあげる。困ったらお金に変えなさい」


 そうして、指輪をくるみに手渡した。なにがあっても、外さなかった指輪を、大切そうに手放した。やつれた祖母の指から外れた指輪は、くるみの薬指にぴったりとはまった。 


 祖父の村は山間にあり、海は見えない。そこに嫁ぎに行くということは、淡い初恋を断ち切るということ。時折、海岸の方角を見て懐かしそうに──寂しそうにする祖母をずっと見ていた。指輪は一緒に棺に入れるつもりだと断っても、祖母は譲らず。


「大事なものだから、あなたが持っていて。骨と灰まみれにするなんて、もったいないじゃない。こんなに綺麗なのに」

「……おばあちゃんの灰だったら、汚くないよ」


 祖母は目を丸くしたあと、皺だらけの目を細め、「ありがとう」と微笑んだ。

 くるみの瞳の色を見つめる眼差しは、何故だが、異国の青年を想うときの表情に、よく似ていた。


 その数日後、祖母は息を引き取った。燃えかすになった祖母の小さな骨と灰は、やっぱり、汚いものには思えなかった。


 祖母の遺骨は村人の手によって祖父と一緒の墓に埋葬された。とりわけ仲睦まじいわけではなかったが、険悪なわけでもない。亭主関白な夫と、それに付き従う貞淑な妻。そんな、どこにでもいる普通の夫婦だったという。だから、あの指輪は祖母の幼い日の夢なのだ。現実に塗りつぶされて、妥協と諦観を覚える前の。母でも妻でもないころの、淡い少女の夢。


 くるみが指輪を携えて、身一つでこの港町に来たのだって、祖母が二度と見れなかった海岸を見たかったから、それもあったのに。


(──よりにもよって、あやかしに奪われちゃうなんて!!)


 自らの迂闊さに頭を抱えた。祖母の墓前に顔向けできない。あああ、と枕に顔を埋める。指輪を奪った真っ黒の羽根の、あのあやかし。少なくとも、人間の言葉を話してはいた。意思疎通はできるだろうか。


(あやかしの噂って、あのヒトのことだよね? 供物ドロボーって言ってた。山のヌシなのかな? なにか別のものを捧げれば、おばあちゃんの指輪、返してくれるかなあ……)


 枕に顔を埋めながら、思考が闇に落ちていく。考えたいことはたくさんあるけれど、体力も脳みそも限界だった。けれど、最後にふと、不思議な疑問だけが胸に残った。


(と、いうか、なんで、ごみを供物だと勘違いしてるんだろう……?)

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