塵芥のびいどろ

ちづ

第1話 海と裏山

「うわあ、ここまで潮の香りがする……」


 頬を撫ぜる海風に思わず振り向いた。

 夕日と溶け合った赤い波。波の行きつく果てには商港があり、そのまた先には、ぽつり、ぽつり、と光るガス灯が見下ろせる。どれも、かしこも、には馴染みのない光景。


 ここはもう住み慣れた故郷ではないのだ。異国との貿易で栄えた港町は地方の田舎と全然ちがった。

 押し寄せる西洋各国の文明、文化、技術、芸術、宗教はさざ波のようにこの國に押し寄せていた。海はその玄関口。

 この海が開かれて四十年と少し。


──散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする。


 そんな皮肉めいた歌が流行ったのも、くるみの生まれる前の話だ。

 道行く人々は時代遅れの髪の毛を解き、高価な洋服を身に着け、牛肉の入った洋食を食べ、文明開化の象徴のように闊歩していた。田舎から出て来たばかりの、ただの下女である身には、今この港町こそが異国のように映る。


 うっとりと、暮れなずむ海を眺めて──ぷぅ~ん、という情緒もへったくれもないハエの羽音で我に返った。


「……おっと、いけないいけない。ごみ捨ての途中だった。お仕事お仕事!」


 くるみが両腕に抱えているのは、奉公先の豊穣邸ほうじょうていから出た生ごみの山だ。ロマンチックに浸るなんて身分不相応でした、と誰にいうわけではなく肩をすくめ、視線を前に戻す。雑木林のざわめきと、水気を含んだ草の匂いが、潮風をかき消した。


 そこは、見慣れない赤い海とは真逆、故郷でもよく見る何の変哲もない裏山だった。ぽっかりと、そこだけが文明開化から取り残された佇まい。


 一応、人の手が加えられてると言えど、ほとんど獣道だ。気を付けないと枯れ枝に足を取られる。この裏山にごみを捨てに来たのだった。


(次は昼間に来よう。絶対に!)


 こんな時間にごみを捨てる羽目になったのは、女中の一人が大けがをしたから。新入りのくるみが挨拶しようとしたら、入れ違うようにして、病院に運び込まれたらしい。「この人手のないときに」と頭を抱える女中頭に「ごみ捨てくらいなら」と自ら買って出た。女中頭はおおげさに感謝を述べてくれた。

 曰く、豊穣家ほうじょうけの一人娘であるお嬢様は、とんでもない潔癖症で、生ごみの匂いがするのも耐えらないという。だから、いつもお嬢様が女学校から帰宅する前にごみを捨てるのだと。そして、そのごみの捨て方も、ずいぶん変わっていた。

 豊穣家が所有する裏山に、そのまま投棄するのだそうだ。


(いいのかな? これ)


 裏山を上り切り、開けた場所に出る。

 まず、鼻をつくのは古臭いカビの匂い。

 次いで、目に入ったのは朽ちたあばら家。その周りには乱雑に積み上げられた陶器や瓶。チリ紙、古い着物。木くず、布切れ。年季の入った家具や農工具まである。掘った穴にそのまま投げ入れられている生ごみは、ところどころあふれだし、食い散らかされていた。犯人は今も木の上でカアカアと威嚇するように鳴いているカラスだろう。まだ春先といえど、アリハエたかっていて、夏になればもっと害獣や害虫が湧くことが容易に想像できる。


(ごみは贅沢病って聞いたけど、本当だねえ)


 豊穣家は裕福な貿易商とあって、まだまだ使えそうな物もたくさんあった。田舎でも使いまわせない生ごみを川に流すことはあったが、瓶や着物、チリ紙など、廃品回収に回せるものまで、投棄されている光景は異様といっていい。


「もったいないなあ」


 思わず本音が零れ落ちた。

 くるみは生ごみを穴に放りなげたあと、空になった手桶に錆びた金物や着物の布切れを入れて、持ち帰ることにした。貧乏根性丸出しといえばそうなのだが、錆は落とせばまた使えるし、布切れはぞうきんにでもすればいい。今日は時間がないけれど、生ごみを捨てるなら細かく刻めば肥料代わりにもなる。種子が残っているなら野菜が育てられるかもしれない。調理で出た動物の骨も果物の皮も、薪の灰もいくらでも使い道はある。瓶や陶器は水洗いして、天日干しすれば──物色しだしたくるみの頭上を、カアカアとカラスが騒ぎ出した。いつの間にか、林の枝に覆いつくすほどのカラスがとまっていた。


(こんなものかな、少しずつ片付ければ結構、綺麗になりそう……)


 よいしょ、とごみの入った手桶を持ち、立ち上がりかけたその瞬間。

 ばさばさと大きな羽音がして、ギャアギャアと騒ぐカラスたちが、一斉にくるみを取り囲んだ。


「うわっ!? な、なに、君たちの食べられるものじゃな──ぐえっ!!」


 首根っこを掴まれて、潰れたカエルような声が出る。サアッとくるみは青ざめた。人気ひとけのない、こんな山の中で。

 まさか、強盗!? 不審者!? 異国の犯罪者!? それとも──


「ドロボー! 僕のを勝手に持っていくな!!」


 真っ黒な翼が、くるみの視界を覆った。

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