第10話 文明開化と神様②

(お、おかしいなあ~あくたの欲張りがどんどん加速している気がする〜)


 豊穣邸ほうじょうていの近くの銭湯。

 湯船に浸かりながら、くるみはため息をついた。高い天井に湯気が立ち込めている開放的な大浴場。都会では流行りらしい。常連客たちがのんびり世間話に花を咲かせている。くるみはその端っこでぼんやり考えこんでいた。お屋敷にも浴室専用の小屋はあるものの、主人の大旦那さまや奥様、お嬢様、上女中かみじょちゅうが優先なので、くるみは時間があるときは、もっぱら銭湯に通っていた。ひとり考え事するのにはちょうどいいのだ。


(ていうか、僕のものになれとか、気軽に言うのやめてほしい……)


 あれは供物とか生贄とか信仰のための捧げものになってくれ、という意味であくたに他意はないのだ。そのくせ、「きれい」だの「かわいい」だの勘違いするようなことばかり言うので憎たらしい。

 それでも、ガラクタの中で独りぼっちでいる芥を思うと、どうしても捨て置く気になれない。


「あれ? くるみちゃんも今日は銭湯?」


 悶々としていると、名前を呼ばれ、くるみは我に返った。見慣れた顔がにっこりと笑いかけてくる。


「あ、タマさん。どうも、お疲れ様です。今日、裏山に行ったら汚れてしまって」

「あーお嬢様、綺麗好きだしね。女中の身だしなみにも厳しいもんなあ」

「はい。でも、豊穣邸は水道もガスも通ってるから。ずいぶん仕事も楽ですね」

「わかる! 田舎だと水汲みだけでも一苦労だよね!」


 タマという娘はくるみと同じ年頃の、豊穣邸ほうじょうていの下女仲間だった。華奢に見えてすばしっこく、なつこっい猫のような性格。くるみの出身地ほど田舎ではないものの農家の出自とあり、比較的話しやすい相手だ。

 洗い場でタマは身体の汚れを流すと、湯船に浸かったくるみのそばに寄ってくる。


「この前、買い出し変わってくれてあんがとね」

「とんでも。裏山に行ってる間、いろいろ仕事はお任せしちゃってるし」

「それだって立派なお仕事でしょー」


 まあそうなのだが。

 実は裏山で土作りや畑作りに勤しんでいるとはとても言えず。くるみは曖昧に笑った。そんなくるみの様子に、タマはははん、と謎の含み笑いをした。声をひそめ、「ねえねえ、ずっと聞きたかったんだけど」と耳打ちしてくる。


「くるみちゃんてさ──裏山のごみ捨てにかこつけて、男の人と逢引あいびきしてるでしょ!」

「はい!?」

「だって、なんかこそこそしてるし。誰も行きたがらない裏山にうきうきで行くし! 絶対そうだ!」

「う、うきうきしているわけでは!?」


 くるみが慌てて否定すると、タマはくすくす笑った。


「いいじゃんいいじゃん、あたしは応援するよ。堂々と会えない相手ってことは、訳ありなんでしょ? 黙っててあげる」

「いや、違っ……違います!!」

「照れなくていいってー」

「照れてない! 照れてない!」


 くるみが何度否定しても、タマは子猫のようにらんらんと目を輝かせていた。くるみはため息をつき、思い直した。あくたの正体まではバレていないようだし。まあ──そういうことにしといたほうがいいか? 裏山に足蹴よく通う言い訳はないと不自然だ。根負けし、「実はそうなんです。黙っててもらえますか?」とくるみが神妙に頷くと、「やっぱりー! どんなひと? どんなひと?」とタマは嬉しそうな声を上げた。

 くるみは苦笑いしたが、下手に嘘はつかなかった。


「強欲の化身。欲張りなやつ」

「えっ」

「でも、なんか憎めなくて困ってるんです」


 きゃ~! とタマはころころと笑った。なにがそんなに楽しいのやら。


「いいな。いいな。自由恋愛。いつかは誰かに嫁がなきゃいけないならさ。今のうちに火遊びだってしたいよねー!」


 やばい相手だと思われているようだが、間違ってもいないので、くるみはあえて黙っていた。姦しく騒いでいたタマは、ふと視線を落とした。


「あたし、もうすぐ親が決めた相手に嫁ぐの。あたしも一度でいいから、誰かと恋してみたかったなあ」

「え、タマさん辞めちゃうんですか」


 くるみが驚くと、タマは肩をすくめた。


「もともと一年間だけの奉公だから。豊穣家で勤めたっていえば箔もつくし。行き遅れになる前に両親が帰って来いって」

「そんな、寂しいです……タマさんの作る煮物、美味しかったのに」


 くるみは洗濯や掃除が主だったが、炊事を任されていたタマの腕は料理人並みだった。季節の旬の色どり。大旦那さまやお嬢様の好みの味付け。酒のつまみに至るまで、下手な定食屋顔負けなくらい美味しかった。あんがと、とタマは猫目を細めた。


「豊穣邸はたくさん材料も調味料があって、いろんな国の食事の話も聞けたからあたしも楽しかった。お嬢様もすごく褒めてくれたし。あたしも辞めたくないよ。でも……こればっかりは仕方ないよね」


 若い娘は家にとって財産だ。他家との縁組みのために嫁入りするのは当然のことで、その現実は上女中かみじょちゅう下女中しもじょちゅうもさして変わらない。疑問も不満も反抗も抱かないほど当たり前の運命。けれど、タマはいつか洋食も挑戦してみたい、と楽しそうに話していたことがあったから、辞めてしまうのはもったいないな、とくるみは思った。


「くるみちゃんはさ、嫁ぎ先の当てはあるの? 身寄りがないなら、大旦那さまに言えばいいところを紹介してもらえるよ。それとも……裏山の彼と添い遂げるつもり?」

「いや、まさか、そんな」


 だよね、とタマは諦めたような、安堵したような顔をした。


美乃里みのりお嬢様なんて、今から相手の候補がわんさかいるらしいよ。すごいよねえ。お嬢様なら引く手あまただよね。きっといい奥さんになるね」


 あ、そういえばお嬢様といえばさ、とは思いついたように、タマは言った。


「明日給料日だね、お嬢様にお礼言っといたほうがいいよ?」

「え?」



 翌日。給料の額を見て、くるみは飛び上がった。女中頭じょちゅうがしらのおふくが以前、「紅玉ルビー金剛石ダイヤモンドも買える」と言っていたけれど、くるみを辞めさせないための方便だと思っていた──のだが、相場の三倍は入っていた。


「お嬢様ああー!! お給料ありがとうございました!! こんなにもらえるとは思ってなかったです!!」


 女学校から帰宅した美乃里みのりに開口一番に告げに行くと、美乃里みのりは目を丸くした。お福が「これ、お嬢様になんてぶしつけな!」と慌てたが、美乃里は微笑んでお福を窘めた。


「私が出したお金じゃないわ。それより、くるみ、お茶を入れてくれないかしら? 貴重な紅茶の茶葉が手に入ったの。あなたも一緒に飲みましょう」

「こうちゃ? よく分からないけど、はい!」


 浮かれながら、紅茶の入れ方を聞き、見慣れない茶碗に黄色い茶を注いだくるみが、「お嬢様……このお茶っ葉、たぶん腐ってます……」と青ざめるので、美乃里はまた笑った。


「今日はお客様もいないし、応接間を使わせてもらいましょう。私、洋室のほうが好きなの」


 通された応接間は、掃除で何度か入ったことはあるものの、くるみには見慣れないものばかりだった。

 大きな窓ガラスに重厚な窓掛けカーテン。絨毯に暖炉。天井から釣り下がる洋燈ランプが明るく室内を照らし、白壁には油絵や時計がかかっていて、室内は香水の香りがした。ソファに座りなれずそわそわするくるみとは違い、美乃里は優美な所作で紅茶茶碗ティーカップ牛乳ミルクを足した。くるみも真似してみたけれど、美味しいのか不味いのかすらも、よく分からなかった。


「えっと、タマさんから聞きました。下女のお給金をあげてほしいって進言してくださったのはお嬢様だって。私、こんなにもらえるなんて思ってなくて。感動してしまいました」

「そんな、大げさね。今の時代、女中に上も下もないでしょう? うちで勤めてくれている大事なお手伝いさんなんだから。こちらこそありがとう」


 美乃里は柔らかく微笑した。背後に後光が見えた。菩薩か。

 拝みかけそうになったとき、美乃里は笑みを消した。


「私、汚いものとか、古いものが大っ嫌いなのよ。見るのも嗅ぐのも聞くのもイヤ」

「えっ……あ、ああ、そう言ってましたね」


 美乃里はカップにゆっくり口をつける。その唇も指先も。肌荒れやあかぎれどころか日焼けすら見当たらない。大和撫子そのものなのに、洋風の調度品に囲まれた姿は西洋絵画のように絵になった。


「だからね、私が苦手なもの、嫌いなものを──綺麗にしてくれる人こそ、大事にしたほうがいいと思ったの。それで、お父様に下女の給金を上げてほしいって言ったのよ」

「お嬢様……」


 驚いた。四民平等の世になったといえど、ずっとこの國に根付いていた武家社会の身分差や主従関係の認識は根強い。下女の扱いなんて下の下で。むしろ、掃除をする人間を蔑む人もいる。美乃里だって上流階級。それなのに、そんなふうに考えてくれるのか。


「今はだいぶよくなったけど、昔の下女ってほとんど奴隷みたいなものだったらしいわ。ひどいわよね。なくなってよかったわ」


 美乃里は形のいい眉をひそめた。


「古いものは嫌い。古い考え方も価値観も好きじゃないの。〝権利〟や〝自由〟〝文明〟は外国から入ってきた新しい言葉なのよ。もっと広まったらいいのにね。乱暴で威張っている時代遅れの士族も、迷信や俗信でお金をまきあげるお寺や神社もイヤ。ばかみたい」

「えっ……そんな、言いすぎですよ」


 廃神社で、日神様にちじんさまを待っている芥の姿がよぎり、思わず口に出てしまった。美乃里は意に返さず、首を振った。


「そうかしら? 古い価値観は発展や開発の邪魔だわ。今の世の中。病気を治すのは祈祷ではなく医学だし。土地を豊かにするのは神様ではなくて産業だわ。そのほうが、よっぽど困っている人を救えると思うの」


 そう言われると、くるみもなんとも言えなくなり。美乃里はティーカップの取っ手を撫でた。


「私、貿易商のお父様を尊敬しているの。いろんな世界を見て、新しいモノをいっぱいこの國に輸入してる。私も、いつか、この家を継ぎたいってずっと思っていたわ」


 でも、と美乃里は目線を下げた。


「周りが言うのよ。女に継がせるなって。継がせるにしても。婿入りさせて、その男性がお父様を継ぐべきだって。私自身にだめなところがあるならいいの。でも、〝昔からそうだから〟って納得できないお節介ばかりを言われるの。なんなのかしら、それ? 伝統ってそんなに大事?」

「……」

「最初は反発したけど、お父様を困らせるだけだって気づいたの。私は私の夢を叶えたいけれど、それでお父様の夢を潰したら意味がないわ。私が突飛なことしたら商談相手や同業者の人の変な噂になるし。こうして、着物を着て楚々とお人形さんのようにふるまっていると、この國の人だけじゃなくて、異国の方にも評判がいいのよ。お父様のお仕事の少しでも手助けになるなら、それでいいわ。私、背もないし、胸もないからお洋服は似合わなくて……本当はもっとお洋服も、着てみたいのだけれど」


 美乃里は紅茶に牛乳を継ぎ足して。さじでくるくるかき回す。


「異人さんの中にはね。食べ物も、お洋服も、法律すらも、西洋を真似ているこの港町のひとを──お父様を。猿真似だってばかにする人だっているわ。矜持もないのかって。でも私はそうは思わない。食べるものも着るものも。自分たちより優れている存在を認めて。必死にこの國がよくなるように学んでいる人たちを、滑稽だなんて思えないの」


 美乃里は顔を上げて、くるみを見た。その胡桃色くるみいろの瞳と髪を。憧れるように見つめていた。目を逸らすことはできなかった。


「ねえ、くるみって──異国の血が入ってるんでしょう? いいなあ。私も異国の血が入っていたら、お洋服くらいは、似合ったかしら」


 美乃里はくしゃり、と眉を下げた。

 ……やっぱりばれていたか。隠していたわけではないけれど、くるみは少し後ろめたくなる。美乃里の話は、くるみには正直考えたこともないような途方もないことだったけれど、くるみにそんな話をしたのは、くるみの中に流れる異国の血を見て。言わずにおれなくなったのだろう。くるみも素直に口を開いた。


「……おばあちゃんが昔。この港町で異人さんと恋仲になったそうなんです。だから、たぶん、実のおじいちゃんに当たる人が、異人さんなんじゃないかと思います。会ったこともないですけど」


 まあやっぱり、と美乃里は目を輝かせた。


「くるみのおばあさまとその異人さんはどうなったの?」

「異人さんは国に帰って、それっきり。おばあちゃんのお腹には私のお母さんがいたみたいなんですけど、嫁入り前の娘が異人の子を身ごもったなんて外聞が悪いから。地方のお金持ちの農家に無理やり縁組みさせたみたいです。それが、私の出身の村で」


 美乃里は輝かせていた瞳を、歪ませた。


「ひどいわね。おばあさまは泣く泣く別の方に嫁入りなさったのね。えらいわ」

「そうでしょうか」


 え? と美乃里は顔を上げた。

 確かに無念ではあっただろうし、ずっと異国の青年を待ちたかっただろう。でも、きっと祖母は両親に反抗しなかったに違いない。タマと同じように、それは仕方がないと受け入れていた。


「おばあちゃんも、タマさんも──わたしも。漠然と誰かと結婚するんだと思ってました。いいか悪いかとかじゃなくて、そういうものだと思っていたから。お嬢様の話を聞いてびっくりしました。お嬢様は自分でいっぱい考えて、自分で選ぼうとしてるんですね。私たちの結婚の仕方とは全然違うと思うんです」


 言われるがまま何の疑問も持たず。その道を選ぶより。たくさんの選択肢を知っていて選んだのなら。それは、とても──


「お嬢様はすごく当世風ですよ。嫁入りしようが、お婿さんを取ろうが、独身だろうが。お嬢様の考え方はとっても新しくって素敵だと思います。かっこいいと、思います。お嬢様がお洋服が似合わなくたって……私に異国の血が入っていたって、そんなのはあんまり関係ないんじゃないでしょうか。結局は中身が大事っていうか。月並みな言葉だけど」


 美乃里は、大きく目を見開いた。

 くるみの瞳と髪以外だけではなく、頭のてっぺんからつま先まで、まじまじ眺めた。改めて、くるみ自身を直視した。


「くるみは……その目も、その髪も、劣等感コンプレックスには感じなかったの? 古臭い田舎じゃ、いろいろ言われたでしょう?」

「えっまあ、小さい頃はからかわれもしましたけど、それ以上におばあちゃんが〝きれいきれい〟って褒めてくれましたから、気にしてません。褒められるのは嬉しいです」


 それに、と紅茶を口に含んだ。冷めてしまっていたけれど、一度目よりは味わうことができた。


「おばあちゃんを置き去りにした異人さんは腹が立つけど。この瞳も髪もおばあちゃんからもらったものには違いないから。イヤではないです。……どっちかというと、困ってるのは髪質のほうで、雨の日とかぼっさぼさに爆発するんですよねえ」


 くるみが本気で憎らし気に言うので、美乃里はぽかんと口を開けたあと、ふ、と噴き出した。


「そうね……私もこの髪はお父様譲りだわ。綺麗だってよく褒めてくださるの」

「はい。とっても綺麗ですよ。絹糸みたいにつやつやの黒髪、憧れます。さらさらでまっすぐで、なんてうらやましい……」


 美乃里はくすくす笑い続けた。


「ねえくるみ、今度のお休み、私と帝都にお買い物に行かない? きっとくるみはお洋服が似合うわ。私が選んであげる」


 え!? とくるみは声を上げると、花が咲いたように美乃里は顔を綻ばせた。同性でも、見惚れるほどの朗らかな笑顔だった。


「私、くるみのこと、もっと気に入っちゃった。ろくでもない男に嫁がせるなんてイヤ。ずっと私のそばにいて?」

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