第9話 どんぐりとよくばり

「おばあちゃん~痛いよ〜!」

「まあくるみ! 傷だらけじゃない! いったいどうしたの? かわいそうに」


 夢を見た。

 懐かしい祖母の夢だった。

 幼いくるみは大きなクヌギの木を指差して、わんわん泣いていた。


「木から落っこちた〜!!」

「ええ……なんでまた木になんて登ったの!」

「どんぐりがなってたから、欲しかった〜!!」


 擦り傷以外の外傷がないことを確認すると。祖母は肩をすくめた。


「そんな無茶しなくても、実が落ちてくるまで待ってたらよかったのに」

「だって、どんぐりのコマ欲しかったの。友だちと喧嘩独楽ケンカゴマしたら壊れちゃった。ブリキのコマなんて卑怯だ〜」


 そうして、軸が壊れたどんぐりのコマを、くるみは悔しそうに見せた。コマ同士をぶつけあって、最後まで残っているほうが勝ち。ブリキ相手では太刀打ちできるはずもない。

 都市部とは違い、地方の農村への文明開化の波及は穏やかなものだったが、開国し、税の納め方が変わると貧富の差は増した。豊かな者はより豊かに。貧しい者はより貧しくなっていった。


 祖母は悲しそうに、眉を下げた。


「……ごめんね、くるみ。ブリキのおもちゃ、買ってあげられなくて」

「えっ違うよ~おばあちゃんが作ってくれたコマのが丸っこくて速くてしっかりしてるもん~いっぱい作ってブリキを退治してやる」


 ごしごし涙をぬぐい、ふんす、とくるみは胸を張った。


「わたしのこと胡桃頭くるみあたまとかいうんだ。変な色だって! むかついたから、わたしからケンカしようって言ったの! 今に見てろ〜」


 地団駄じだんだを踏む孫を見て、祖母はふ、と頬を緩ませた。くるみの巻き毛を撫で、くるみの瞳を見つめた。


「そうよね。こんなにきれいな色なのに。でも、木登りは危ないからだめ。お転婆と無鉄砲は違うの。どんぐりの実が落ちてくるまで待ちましょう。くるみになにかあったらおばあちゃん泣いちゃう」

「えっおばあちゃん、泣いたらだめー!」


 わーんと再びぐずるくるみの手を引き、祖母は家路に向かう。山間の平凡な農村。祖父は早くに亡くし、両親はくるみを置いて村を出て行った。両親のいない寂しさは祖母の愛情が全部塗りつぶしてくれた。二人だけのつつましい生活だったけれど、くるみにとってはなににも代えがたい時間。水田の畦道あぜみち、飛び違うトンボ。色づく稲穂。赤く染まる夕日。飛び去るカラス。耕牛こうぎゅうが低いうなり声を上げる。ボーッという間抜けな鳴き声。くるみは笑って真っ黒な牛を指さした。


「ねえ、おばあちゃん、あの牛さん変な声~!」

「……違うよ、くるみ、あの音は──」


 ──蒸気船の汽笛だ。

 田舎では聞いたことのない、港町特有の日常音。


(おばあちゃん……)


 ふ、とくるみは目を覚ました。

 早朝の海辺の町。上品な和室の天井。ここは──豊穣邸ほうじょうていの女中部屋。夢から現実に引き戻される。優しい祖母のいない世界へ。くるみはぼんやりと今の日常に立ち戻った。

 ぐうぐう女たちの寝息が響く。住み込み女中が数人が並んで雑魚寝している。くるみはのそりと起き出して、鏡台きょうだいの前に座り、櫛で髪を解かした。新入りの下女。身支度は手早く済ませて先輩方に譲らねば。化粧道具を使うことはなかったけれど、この胡桃色くるみいろの巻き毛をまとめるのは骨が折れる。いつも強引に後頭部に結い上げる。数本の後れ毛がゆるやかに、こめかみからこぼれた。くるみは鏡に反射した自分の姿を見て、ため息をついた。


 この瞳と髪は母譲りだ。母親はくるみよりもっと、鮮やかで豊かな胡桃色くるみいろだったらしいが、田舎では悪目立ちしていたらしい。それが母親が村を去った原因かは分からないけれど、理由の一つではあったのだろう。まるで、異人さんのようだ、と。自分たちとは違うと。狭い村の中でどういう目を向けられたか想像に難くない。祖父も祖母も艷やかな黒髪だったというのに。

 どうして、母親がそんな物珍しい毛色をしていたかといえば──


(……おばあちゃんも、意外と大胆というか。無鉄砲だよねえ)


 くるみは立ち上がり、障子戸を開いた。遠くから聞こえる異国の汽笛。

 指輪と、もうひとつ、年若い祖母の腹に残して迎えに来るのことのなかった。異国の青年。


(……やっぱり、ひどいや)



***


 昼過ぎ。いつものごとく、裏山にごみ捨てに赴く。手桶に生ごみと灰を入れ。


「おふくさん、少しお酢をもらえますか? 給与から抜いてもいいので。あとできれば米ぬかも」

「ん? 何かに使うのかい?」

「はい、ちょっとさび抜きに」

「それくらいなら、持って行って構わないよ」


 ありがたく了承を得たところで、くるみは勝手口の戸を開いた──その瞬間にあくたがひょっこり顔をだした。


「くるみ~」

「わっ!!!」


 「どうしたの?」と台所にいた他の女中が声をかけてきたので、「なんでもないです! ちょっとゴキブリが! 追い払ってきます!」と慌てて戸を閉める。ぐいぐいあくたの背中を押し、裏山の林の中につっこむ。文句を言いたいのはこちらのほうなのに、あくたは不服そうにした。


「……ゴキブリ扱いは、いくらなんでもひどくない?」

「き、来ちゃダメって何度言ったら分かるの! せめてカラスの姿で来てよ! 見つかったらどうするの!?」

「……くるみの声のが大きい気がするんだけどなあ」

「それは芥がいつも驚かすからでしょ!」

「あ、なんだバレてたんだ。だって、くるみの反応がかわいいから?」

「はあ〜!?」


 木の陰で見つからないよう、こそこそ話す。ひとしきり、くるみをからかって満足したのか、芥はばさりと翼を広げた。


「屋敷の敷地には入ってないよ。それより、迎えに来たんだよ」

「え? のわっ!」


 ひょいと、芥はくるみを横抱きにして浮上した。わああ、とくるみが悲鳴をあげる。黒い翼が羽ばたいてあっという間に斜面を登っていく。


「毎回上り下りするのは大変かなあって。僕が運んであげるね」

「……それは、純粋に助かるけどもお~」


 「ありがと」とくるみが唇を尖らせると、芥は喉を鳴らして、くつくつ笑った。「どういたまして。くるみとの時間が少しでも欲しいからね」と図々しいことをのたまう。どこまでも欲張りなやつだ。山頂に降り立つと、ごみだらけは変わらないものの、ひとつ大きな変化があった。


「うわあ~明るい! 日差しが入るとやっぱり違うねえ」

「僕、頑張って雑草も取ったよ。えらい?」

「えらいえらい。すごーい」


 木々の合間から光の線が降り注ぐ。それだけで陰鬱な雰囲気は一層された。草の色。土の色。影に覆われていた場所が明るく照らされる。


 くるみは生ごみを混ぜた土に米ぬかを撒き、錆びた金物を酢と混ぜた水に浸した。肥料の促進とさび抜きはこれでいい。芥が雑草を抜いた空地の土に触れ、うーん、と顎に手を添えて悩む。


「やっぱり土が固いかなあ。お芋とか人参とかなら作れるかも? せっかく肥料もできそうだし」

「お芋! 僕好き。焼き芋食べたい」

「私も好き。芥、もう少し耕せる? 上の土と下の土を入れ替えるように混ぜて、日に当てて。一畳くらいのちっさい畑でいいから。まあ物は試し。畑はまず、土づくり〜」


 生ごみを発酵させた土は栄養があるけれど、ろくに手入れされていなかったから、いい土になるまではもう少し時間がかかるだろう。痩せ地に強い根菜であるならば、土を耕すだけでも十分だ。


「土が固いとよくないの?」

「うんそう、ふかふかの土がいいってこと。発芽しやすくなったり、根が張りやすくなるの」


 芥は感心し、分かったと頷いた。


「そうなんだ、くるみは物知りだね」

「こんなこと、田舎の農民ならみんな知ってます~まあ私は……」


 向かい合うようにしゃがんだ芥の指に収まっている、祖母の指輪を見やり。

 

「おばあちゃんに教えてもらったんだけど。おばあちゃんはいろんなこと知ってたよ。花の育て方。野菜の植え方。道具の直し方。玩具の作り方」 


 へえ、と芥は目を輝かせた。


「くるみはおばあちゃんが好きなんだね」

「うん、大好き」


 くるみは迷いなく答えた。


「びんぼーだったけど、どんぐりとか竹でいっぱい玩具とかも作ってくれたんだよ。コマとかやじろべえとか、竹とんぼとか、村で一番上手で、なんでも知ってて、おばあちゃんの玩具とブリキの玩具を交換してくれってお願いされたことだってあるんだから!」


 にこにこと相づちを打つ芥に、くるみは、あ、と我に返った。


「……と、ごめん。関係ない話で、えっと、畑のことなんだけど」

「え、なんで? もっと聞かせてよ」

「……だって子どもの頃の話だし。つまらないでしょ」


 芥はきょとんと、不思議そうにした。


「どうして? 楽しいよ。僕、もっと聞きたい。くるみのことなら、なんでも」


 芥が無邪気に笑う。くるみはこそばゆくなって、そっぽを向いた。


「くるみのおばあちゃんは、僕にとっての日神様にちじんさまみたいだね。僕も会ってみたいな」


 けれど、続く芥の言葉で、視線を落とした。

 

「……もう会えないよ。死んじゃったから」


 途端に、芥はしょぼんと眉を下げた。


「そっか、さみしいね」

「……うん」


 芥に釣られて、くるみもしょぼんと眉を下げた。今朝、祖母の夢を見たせいで、妙に寂しくなる。亡くなったときは実感がなかったけれど、最近はふとしたときに思い出す。友達から髪色をからかわれても、貧乏でも、両親がいなくても、くるみはへっちゃらだった。祖母はくるみの拠り所そのものだったから。でも、祖母自身はどうだったのだろう。くるみの寂しさは祖母が塗りつぶしてくれたけれど。愛した人に置いていかれて、別の人と結婚して。それでも、最期まで異国の青年が迎えに来てくれると、ずっと信じていた。

 くるみが押し黙って俯いていると、芥は天を見上げた。


「さみしいけど、日神様にちじんさまが言ってたよ。同じはすうてなで、また会えるって」

「……はす?」

極楽浄土ごくらくじょうどに咲いてるお花。泥の中でまっすぐ育って綺麗に咲く花だから、いいことした人は皆そこに座るんだって。くるみのおばあちゃんなら、きっと浄土じょうどにいらっしゃるね」


 芥は目を細めた。泥の中。不浄の中。不遇の中。まっすぐに育つ花。


「……確かにおばあちゃんっぽいかも。ふふ、ちょこんと正座してそう。また、会えたらいいなあ」


 くるみも天を見上げた。眩しい太陽に手をかざし。


「死んだらどこにいくのかな? やっぱり空?」

「さあ? 死後の世界はいろんな場所があるって聞いたよ。浄土じょうどだったり、地獄だったり、黄泉よみの国だったり。どちらにしても、カラスは冥界を渡る鳥でもあるから。いつか、そういうところに魂を導けるようになりたいな。日神様にちじんさまのお使いとして」

「へえ、芥はそうなりたいんだ。すごいね」


 くるみが純粋に褒めると、「え~そう思う~?」と芥がすぐに調子に乗ったので、苦笑いした。


(でも、浄土じょうどか。日神様にちじんさまはまるで──みたいなこと言うんだな)


 くるみは辺りを見合わす。大きな朽ちた祠。ここは廃神社であって、廃寺ではないと聞いた。太陽のだとも。不思議に思ったが、口に出すほどの疑問でもなかった。神仏の違いなんて、くるみだってよく分からないし、それを芥に言っても仕方ないだろう。


 ただ、國は、と。お触れをだしていたはずだけれど──。


「そのためには日神様にちじんさまに戻ってきてもらって、僕も信仰を集めなくちゃならないんだけどねえ。くるみが僕のものになってくれれば、僕の神力も増すのになあ」

「げ、またその話? 無理だってばあ」


 芥が面倒なことを言い出したので、くるみは口をひきつらせた。芥は目を光らせて、にやりと笑った。


「だって信仰の象徴。一番の供物は生贄だと思わない?」


 くるみはぎょっとした。その反応を見て、芥は獲物を狙うように、じりじりとにじり寄ってくる。


「く、供物になれってそういうこと!? 私を食べる気!? 日神様にちじんさまのために供物を集めてるって言ったじゃん!」

「そうなんだけど、ひとつくらい、僕がもらってもいいと思わない? ご褒美にさあ」

「勝手に人をご褒美扱いするなあ!」


 すっと伸びた鉤爪かぎづめが、くるみの頬をなぞった。ひ~っとくるみは鳥肌を立たせる。


「わ、わたし、食べても、美味しくないよ!?」

「そう? ころころして、美味しそうだけど」

「褒めてるの、それ!?」


 慌てふためくくるみを見て、ぷ、と芥は噴き出した。


「ごめんごめん、冗談だよ。僕はくるみを食べないよ。君が損なわれたら嫌だって言ったでしょ。それに、無理矢理奪っても意味がないからね」

「……へ?」


 芥は鉤爪かぎづめで、くるみの巻き毛をくるくると弄んだ。


「供物も生贄も、。それが信仰になるんだから。奪っちゃったら意味がないでしょ」


 「……指輪は奪ったじゃん」と、くるみはぼそりと呟いたが「それは君が先に僕の供物を盗ろうとしたからね? どちらかといえばいましめ」と言い返されて、ぐぬぬと押し黙った。芥は絡めとったくるみの髪を、するりと解いて。いつものように無邪気な笑顔を見せた。


「君が、自らの意思で、僕のものになってくれるまでは、お利口さんにしてるよ」


 離れた指先の代わりに、芥の視線がくるみを絡め取った。


「だからさ、もっと僕とお話してよ」


 どこまでも貪欲で、欲張り瞳。


「君の声。君の言葉。君の想い。僕に──もっともっとちょうだい?」

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