4話 ピアニストになりたかった姉

 学生の波で溢れかえる校門。僕はそれらに飲まれるように校内に入った。最近、どこからか視線を感じる事が多くなった。自意識過剰ではないが、それがなんだかとても気持ち悪い。


 人間に第六感があるのは本当かもしれない。得体の知れない、人のものとも疑い深い何かの視線が背後か、あるいは頭上か、四方八方から感じてしまう。


「あれって颯太様じゃない?」

「うわぁ、輝いてるぅー」


 隣を歩いていた女子2人組の目線の先には、確かに1人だけ群を抜いて目立つ風貌の男が歩いていた。高身長に、凛々しい顔立ち、歩璃の男性版と言ったところだろうか。一体これまで何人に告白されてきたのだろうか。


「キックボクシングの大会、凄い記録残してるらしいよ」

「マジ!? 私ボコボコにされたいかもぉ」


 確かに体格も男らしい。スペックが高すぎるのだ。


 彼は2年生の下駄箱に向かっていったので先輩だということがわかった。彼といい歩璃といい、この俊英南高校には、こんな所にいてはいけない次元の人が2人もいるのだ。


 ふと、頭の中で彼と歩璃の2人を並べてしまった。ぐうの音も出ないほどお似合いだったのだ。歩璃は「恋愛に興味がない」と今まで告白を断ってきたが、それは嘘だろう。


 華の女子高生が恋愛に興味がないわけがない。それで10人もの告白を断るということは、理想がとても高いということだ。


 林間学校のグループリーダーである真斗も、僕に暴行してくる拓馬も、歩璃に近づくためにあんなにも必死な理由が分かる。


「じゃあね」

「うん」


 そして一緒に登校した香織とは別クラスなので、いつも通り教室の前で別れた。





 そして僕の唯一の生きがいであるグループワークの時間がきた。僕は歩璃に今すぐに昨日のことを聞きたかった。真斗といて平気だったのか、何もされていないのか、そんな事が心配だった。


 でも僕は彼女の彼氏でも無ければ友達でもない。ただの少し世間話をする程度のクラスメイトだ。


「林間学校まで後2週間だね」

「……うん」


 歩璃は早々に話しかけてくれた。彼女はミステリアスじみていながらも、愛嬌がある。ただ受け身で聞かれた事に答えるだけでなく、自分から話をかけられるタイプだ。だから声をかけた者は、自分に興味を持ってくれている、気があると勘違いするのだろう。


 勇気を出して、僕も言葉を発しようとした。


「歩璃さんは……」

「なぁ歩璃、他にも面白い店あるんだけど──」


 僕の精一杯の質問は、真斗の覇気のある声に押しつぶされた。側から見たらさぞかし滑稽だろう。彼女も真斗の質問に応え、先に話そうとした僕はそっちのけだ。


「今度妹さんもどうかな?」

「きっと喜ぶかも」


 二人は知らない所でどんどん進展していってる。僕はただ歩璃と話ができるだけで幸せなのに、何を望んでいるのだろうか。唯一の生きる意味であるこのグループワークですら、嫌になってしまう。


「ごめんね、何か言いかけなかった?」

「別に……」


 彼女は優しい。こんな根暗な僕にすら平等に接してくれる。それが唯一の救いであり、残酷な事でもある。





 校舎裏では、またあの光景が繰り広げられていた。


「1万渡すので! これで許じでくださぃ!」

「くそ、こんだけかよ」


 こんなことが普通なわけがない。この学校はおかしい。何が名門だ。偏差値が高いだけだ。環境の質がどれだけ良くても、人間の質は最低だ。傍観者も声すらあげない、この現状を受け入れて良いわけがないだろう。


 だからなんなのだろうか。そう思っている僕に何かできるのだろうか。そうだ、結局は僕も彼らと同類なのかもしれない。この現状を変える事のできない、ただの臆病者なのだ。


 

 




 その日、僕は帰りたくなかった。ただ物思いに耽るため、学校から北神堂駅の方面とは正反対の広い河川敷に向かった。生い茂っている草むらに腰掛け、何も考えず流れる川を見ている。


 飼い犬とフリスビーで楽しむ親子、音楽を聴きながらジョギングしている男、みんな何らかしらの生きる理由があるのだ。




 ──




「姉ちゃん、ピアニストになるんじゃねぇの?」

「ピアノは趣味で続ける事にしたの」

「なんで? あんなになりたいって言ってたのに?」


 ある日を境に、姉は現実的な夢を語るようになった。幼少期からずっとピアノを続けてきた姉の実力は僕が保証する。コンクールで何度も最優秀賞を受賞し、将来も有望だと言われていた。なにより姉自身もそれを目標に頑張っていたのだ。


 僕の姉は完璧だった。母に似てとても美人で、愛嬌もある。校内でも学年トップの成績を維持し、誰にも分け隔てなく接していた。非の打ち所がない。


「高校を卒業してすぐに就職するよ」


 当時、理由を聞いても姉は「早く大人になりたいから」などと濁していた。僕がその真意に気づく事はなかった。でも大人になるにつれて、僕はその意味を知ることになった。





 ──





 気がつくと空は朱色に染まり、夕陽は河川敷を跨ぐ長い橋の向こうに沈もうとしている。


「ママ、変な人がいるよ?」

「見ちゃダメ」


 子供には長い髪の僕は良く映らない。その通りだ。僕のような人間は子供にとって毒。こんな奴になるなよ、という意味も込めて僕はその子供に優しい視線を送ったが、ぷいっと逸らされてしまった。


 行くあてなんてどこにもなく、結局は家に帰るしかないのだ。体を持ち上げお尻を払い、重い足取りで駅に向かった。


 俊英南高校は都会に位置するだけあって、やはり北神堂駅はとても混んでいる。特にこの時間は非常に。人混みはそんなに好きな方ではないが、ここに紛れていると自分の地獄を紛らわせられるような気がして少し安心する。


 誰にも理解はできないだろう。いや、理解されてたまるか。この地獄の辛さは全部僕にとってだから。





 

「あれ? ゆーちゃん、まだ帰ってなかったの?」

「……」


 藪から棒に、背後からそんな声が聞こえてきた。僕をそんな名前で呼ぶ人間は一人しかいない。


「誰?」

「彼が神城優一だよ。私の幼馴染」

「あー、かおりんがよく話してる人ね……」


 香織率いる部活のメンバーたちだろう。どうだ、幻滅しただろう。香織が僕のことをどう話してくれていたかは知らないが、その正体はこんな根暗な男だ。


 運動神経が抜群、容姿も良く社交的な彼女はこんな奴と関わっていると知れば、彼女の品を下げてしまうのでないだろうか。香織はみんなの前でよく僕のことを紹介しようと思ったものだ。


「ゆーちゃんもよかったら一緒に帰らない?」

「……ごめん」


 迷惑はかけたくない。僕なんかがそこにいたら、ただ空気が重くなるだけだ。僕はしばらくそこら辺をぶらぶらする事にしよう。


「そっか、じゃあね!」


 香織はどこかぎこちない笑顔を見せ、部員たちと共に駅中に消えていった。


 足音、車の騒音、途切れることの無い雑音に囲まれながら僕は眠る事を知らない繁華街を歩く。一度だけ僕は田舎に行ってみたい。電波の届かないような、情報から隔絶したような田舎に。


 何もかもが新しい場所で、何もかも忘れて過ごすのはどんな気持ちなのだろうか。まぁきっと一生無縁なのだろうが。


 そんなあてのない思考を巡らせている時だった。


「やめて下さい!」


 どこともなく、そんな少女の声が聞こえてきた。

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