10話 世の中を変えてくれ

 歩璃は隠していた。僕を騙していたんだ。


『もし恋人や好きな人がいるなら、その人に抱く感情を教えて欲しい』昨日、そう聞いてきたのは僕を馬鹿にするためだろうか。あれほどカッコいい相手を恋人に持って、歩璃は周りを見下そうとしているのだろうか。


 僕が、好きな人に抱く気持ちについて、『その人のために生きたいと思うかじゃないかな?』と答えた時に、歩璃は何を思っていたのだろうか? 自分が馬鹿馬鹿しくなってきた。


 昨日、駅での別れ際で「また帰ろう」という僕の誘いに対する無言。今日の誘いに対する返答の遅れ。それらは全て彼氏がいるからそっちが優先になるけど、という意味だったのだ。



教えてくれても良かったじゃないか……。



 今日の誘い。歩璃と帰る約束をしたのに。約束を必ず守るような彼女が、颯太先輩の前では本能を剥き出しにした。心の片隅で彼女は容姿を抜いても、他とは違う何か特別な物を持っているように思えた。しかし、その素顔はどこにでもいる普通で、そして乙女な女子高生だった。


 当たり前のことだった。全部分かりきっていた。ほんのわずかでも僕に夢を、生きる希望を、光を見させてくれていたのだ。感謝するべきなのだ。


 でも彼女と釣り合うには、生まれる前からやり直さなければいけないのだ。



「……はは」



 これが騙された気分。身体に力が入らない。泣くほどの力もない。ただ怒りと、絶望と、様々なものが入り混じった得体の知れない負の感情が心を蝕んだ。


「そっか……香織も……」


 自業自得だ。自己中だ。僕だって騙していたじゃないか。本当のことを言わず、香織に対しててきとうにあしらって、僕に優してくれた恩を仇で返して。


 何が騙された、だ。騙されて当然のような行動しかしてこなかったじゃないか。


「本当に……どうしようもないな……僕は」


 傘とバッグを放り投げ、靴下のまま僕は雨の中へ駆け出す。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。





 もう行くところは決まっていた。





 訳の分からない感情がぐちゃぐちゃに混ざり合いながら僕は廃ビルの屋上に辿り着いた。陽はとっくに沈んでいるのだろう。暗闇の空を何度も照らす雷。重い雨粒が無数の針のように頭上から突き刺してくる。


 額に張り付いてくる濡れた前髪の隙間から、数多にも続く夜景が目に入ってくる。どうやら僕にもまだ何かに綺麗と感動する心は残っていたようだ。


 悔しい……。


 古びた塀を乗り換え、少し踏み外せば地上まで真っ逆さま、そんなわずかな縁にたたずむ。もう覚悟はできている。家に帰っても地獄のような暴力の日々、学校でも蔑まれ、いじめられる。僕の居場所はもう、どこにもない。

 



 姉と笑い合っていたあの日々に戻りたいな……。




 もう取り戻せない過去のことを嘆いても何も変わらない。この世には未練はない、もう行こう。


 右足をわずかにあげた。しかしなぜか進まない。


「どうして……」


 この世に未練なんてないはずなのに。たった一歩進むだけで僕は楽になれるはずなのに、なぜ進まない。


「進んで……くれ……頼む」


 言葉と意思に反して、身体が言うことを聞かない。一歩進む、そんな簡単な行動が僕にはできないのだ。


「なんでだよ゛!!」


 もうこんな腐った世の中に用はない。生きて帰ったって待っているのは地獄みたいな生活。誰からも認められない愛されない。もうみんなの掃き溜めはうんざりだ。


「……」


 頬を伝う雨水に涙が混じる。悔しくて悲しくて辛くてどうにかなってしまいそうだ。自分じゃ何もできないくせに、死ぬ勇気すらもない。あぁ滑稽だ、僕はなんてクズなんだ。自分で自分が嫌になる。


 そんな時だった、わずに重心が鈍ったのが引き金となり、不幸にも僕は雨水により足を滑らせ、体が宙に浮いた。


──あ、死んだ。


 神様が後押しをしてくれた。僕は神様にさえ嫌われているのか。


 凄く、ゆっくりだ。そんなにこのビルは高くないはずなのに、凄く長く感じる。とても長く──


 あれ……僕は何をしているんだ。なぜ飛び降りているんだ。なんでこうなった。こんなはずじゃないだろ。そんな人間が簡単に死んで良いはずがないだろう。


「助けて!!」


 気づいたらそう叫んでいた。やめてくれ。なぜそんな情けない言葉が出るんだ。


「嫌だっ!! 誰かぁ!!!」


 そんな言葉が誰の耳にも届かないことは分かっている。まさかこれが僕の最後の言葉とは、なんて惨めなのだろうか。


 地面は目前だ、一瞬で終わる。きっとそう、なんてことはない。さようなら、腐った世の中。


『ハハハハ!! 哀れだな! この共依存野郎が』


 瞬間、どこともなく低い声が聞こえてきた。恐怖心を駆り立てるまるで地獄の底から聞こえてくるような声音。


 そして同時に、ここ最近の得体の知れない視線の正体が分かった。


「……え」


 そんな声に意識を向ける間もなく、僕は今ありえないはずの光景を目の当たりにしている。逆さまに宙を浮いたまま止まっている。しかし、身体が動かない。意識だけがただはっきりと残っている。


 聞いたことがある。人は死に直面すると、脳内がその状態を回避するためにあらゆる方法を考えるため、時間の流れがゆっくりに感じると。しかしこれはゆっくりどころか、もはや止まっている。


『なんて愚かなんだお前たちは。なぜ他の死がお前の死の誘因となる! 1人で生きていけないのか!』


 嘲笑う様なその声がまだ聞こえる。まるで脳内に直接響くかの様に。


『お前死にたくないのか?』

「なに……」

『俺の質問に答えろ。死にたくないのか』


 死ぬ間際にこんな幻聴を聞く事になるとは思わなかった。人は死に晒されると本性が出る。その時に放った言葉が「助けて」だったのだ。


「……だれ……なの」

『ったくめんどくせぇな。二択だ選べ。死にたいのか死にたくないのか』

「……」


 どうしようもないじゃないか。本能で答えなんて出ている。でも今更なんだというのだろうか。何の意味を持ってこの幻聴が聞こえてくるのだろうか。


『二択だ』

「……死ねない」


 自分で選んだくせに結局覚悟なんて出来ちゃいなかった。生きていたってもう何もいいことはないのに、死にたくないと思ってしまう自分が嫌いだった。


『ハハハハハハ!! 飛び降りといて何を言う』

「……ちがうよ。滑っただけ」

『きっかけはお前の意思だろうが』


 僕の脳内がおかしくなり、自分の深層心理と意思疎通をとっているのだろう。


 こんな声に相手をしていたってどのみち僕はもう死ぬ。何をどう答えようとどうでもいい。


『お前はもう死人だ。お前の命がどうなろうがどうでもいい。だが、お前が生きたいと言うなら助けてあげよう。条件付きでな』

「……」


 その声はやけに愉快な口調になる。




『この世の負の事象を食い止めてくれ』




 理解が追いつかない。この声は何を言っているのだろうか。負の事象、何のことだろうか。


『人間は優れた知性を持ち合わせながらも愚行に及ぶ。殺人、窃盗、強姦。俺は人間の負の感情が大嫌いだ。虫唾が走る』


 本当にこの幻聴は何なのだろう。僕はそんなにオタク気質ではないはずなのだが、このいかにも痛いセリフを吐く様な心理が眠っているのだろうか。


『星の移住はもう懲り懲りだ。なによりこの星は心地が良い。だからお前にはそれを止めてもらおう』

「自分でやれば……」

『ハハハ!! 俺が人間ごときに干渉するとでも? いいさ、断るというならお前はそのまま脳味噌を地面にぶちまけるだけだ。俺は新しい人間を利用しに行く』


 すると止まっていたはずの身体が動き始めた。もう地面まで数メートルもなく一刻の猶予もない状態だ。


「まっ!! 待って!!」


 再び静止した。勢いでそう口にしてしまった自分が本当に情けない。


『ハハハハハ!! 余程命が恋しいのだな。あぁ滑稽滑稽!』


 こんな幻聴を相手にするのは馬鹿馬鹿しいが、こんなにも死にたくないんだなと僕は痛感させられる。


「分かった、分かったから……助けて」

『……契約成立だ』


 その瞬間、視界が真っ白になり五感が無に等しくなった。気づいたら僕は先ほどの屋上の中央に佇んでいた。

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