14.覚めた生活
悪い夢を見た。
重たい頭を無理やりに持ち上げて起き上がり、枕元のスマートフォンをタップする。目覚ましが鳴る十分前の時刻がそこには表示されていた。一番損をした気分になる起き方だ。
僕は一度大きく伸びをしてからベッドに腰掛ける。梅雨の時期特有の湿気と気圧による気だるい気分が身体をゆるく締め付けている。
ミシマとの夢は、一年程経った今も時折見ている。別れた直後は見る度に目が覚めて、寝不足の日が続いた。想像していたよりも、僕はミシマのことを大切にしていたのだと思う反面、もうそれが手の届かないものだという事実に目が醒めるたびに絶望した。
気分転換にシャワーでも浴びようと思い、浴室に向かう。途中昨日残したレモンサワーがキッチンに置いてあるのを見つけて、ゴミ箱に放った。
次の部屋は1Kを選んだ。ワンルームのような目に見える範囲に全てがある環境は嫌いではなかったけれども、案外見えなくてもやっていけるものではないかと思って変えた。今のところ不便はまるでない。むしろ雑多になりがちだった部屋に収納スペースが置けるようになって、よりスッキリした間取りにできたくらいだ。
シャワーの熱い湯を浴びると、まとわりついていた不快感が洗い流されて、身体の輪郭を取り戻せた気がした。スコールみたいに降り注ぐシャワーに頭を打たれながら、今日の予定を頭に浮かべる。打ち合わせ、デスクワーク、商談、対外ミーティング、それと。
---またね、キョウコ。
いつもの声だ。
僕は彼の声を聞いたことがない。だから僕の中で響くこれは、ただの想像だ。死人に口が無いように、僕には彼がどんな人物だったかを知ることはできない。
数日後には死ぬことを決めた身ながら、また会えるからと彼女に告げる。そんなことが果たして本当にできるのだろうか。
あの言葉を聞けたのは、ミシマだけだ。
あの日、彼はどんな思いで、どんな声で、どんな顔であの別れの言葉を口にしたのだろう。
○
「ヨドノさん、相変わらず未練まみれじゃないですか」
「なんでだよ」
「寝不足みたいだし、いつも以上に機嫌悪そうだから、また元カノの夢でも見たんだろうなって」
そう言ってミヤマは愉快そうに笑っている。僕は彼女に抗議しようとして口を開いた後、その口をそっと閉じた。言い返さないんだ、と彼女は笑い、ハンドルを片手に電子タバコを咥える。甘い柑橘系と、メンソールの鼻にスッと抜けていくような香りが車内にふわりと漂う。
トニムラが興した会社に務めることが決まって、僕の職場環境は随分と変化した。
まず、テレワークの頻度が減った。特に会社がそう定めたわけではない。これまでと同様の勤務環境は整えてもらったし、社員達も仕事環境をうまく使い分けて在宅とオフィスを行き来している。何ならアドレスフリーになって職場内のデスクの固定化もすっかりなくなった。
ただ、環境がストレスフリーになったとはいえ立ち上げたばかりの会社だ。一つ一つの業務の責任が増えた分、ただデスクワークだけをして済む話ではなくなってきた。これまでトニムラと同行していた時のような打ち合わせの機会が増え、その商談後のミーティング回数も比例して増加した。純粋にコミュニケーションが増えた分、オフィスに在席していた方が都合が良くなったのだ。
また、職場の近くに住み始めたこともあり、必然と在宅の必要性と需要も減少した。今では作業に没頭したい日だけ自宅にいることが多くなった。
思えば、あっという間の一年だった。
独り身になって、生活圏を変えて、仕事も変えて。転ぶことのできない会社の立ち上げにも関わった。
とにかくこの一年は、やらなければいけないことが多かった。デスクに次々と積まれていく業務を片端から片付けて、目が回りそうなスケジュールをなんとかこなすと気がつけば年の瀬が目の前に迫り、やがて初めての期末を乗り越え、そして新たな一年が始まっていた。
その間のことは、正直あまり覚えていない。いや、考えないようにしていただけかもしれない。
ミシマと別れてからよく見るようになった夢を、思い出さないように、夢を見る隙を与えないように、未練じみた記憶と寂寞感に追いつかれないようにと、必死に走り続けた結果が、今だった。
少しでも立ち止まって、この想いに囚われてしまったら、きっと僕はもう二度と走れなくなる。
そんな不安を、この一年抱き続けてきた。
トニムラには考えすぎだと言われたが、それでも疑念を完全に振り払うことはできなかった。
過労一歩手前のハードワークな環境下に身を置いていると、とにかく何も考えなくてよくて、それが今の僕にとってとても都合が良かった。
ただ、その話を彼女、ミヤマアカネにだけは話すべきではなかったと思う。
今隣の運転席で鼻歌と混じりに運転しながら喫煙する女は、トニムラの会社の新入社員だった。ようやく会社が流れを理解し始めた頃、次に壁として立ちはだかった“人手不足”という問題を埋めるべくして採用された追加人員の中の一人に、ミヤマはいた。
前職では代理店の営業をしていて、昼夜がひっくり返るような生活をしていたらしい。出張経験も多く、面接で彼女から「どこでも熟睡できます。仮眠室があれば何日でもいけます」と言われた時、トニムラはそのタフさを買うと同時に、彼女を人に戻さなくてはならないと感じて採用を決めたらしい。
僕は彼女が入ってから業務の指導役を任されている。ただ、営業職にまるで縁のない僕がどうして彼女を指導できるだろうか。同様のことをトニムラに聞いたが、彼は笑って「ちょうど良さそうな二人だったんで」と答えた。理由になっていない。
ともあれ彼女が入社してから、僕は彼女の担当先の業務を対応している。指導役にデザイナーが付けられるくらいだ、何かしら問題があるのかもしれない。そう思っていたが、実際蓋を開けてみるとミヤマの仕事はとても丁寧だった。
提案先の事前調査は怠らないし、前職の経験なのか人の懐に潜り込むのが上手い。彼女特有の奔放さが相手には愛嬌のようにも見えるのだろう(それすらも意図的なものなのかもしれないが)、とにかく彼女はその手際の良さと軽快さを気に入られ、会社に貢献していた。
彼女の成功はすなわち、僕の多忙にも繋がる。気がつけば指導の余裕もなく、彼女が貢献した結果膨れ上がったデスクワークをこなすことで精一杯だった。
僕の隣で他愛もない話を続けながらけたけたと笑い、合間に電子タバコを吸って煙を吐いている彼女を眺めていると、自分もこうなれたらいいのに、と心から思う。
「ミヤマは、いつも楽しそうだよな」
「私がですか?」
彼女は顔をしかめて不思議そうに首を傾げる。つい考えが口から出てしまった。
出てしまった手前、それを引っ込めることもできなくて、僕は座席に深く体を預けると、「そう見えるんだよ、いつも」と答えた。
ミヤマは僕の言葉を聞いて、そう見えますかね、と呟いて、それきり喋らなくなってしまった。
信号が変わるたびにブレーキとアクセルを踏み替える音が車内を電子タバコの煙とともに漂う。あっという間に静寂に包まれた環境で改めて彼女を見ていると、これまで気が付かなかった彼女特有の癖を見つけた。
「ルーティーンか? それ」
「え、なんですか?」
「いや、信号が赤になると必ず指でハンドルを三回叩くそれ」
ミヤマはハンドルに置かれた自分の指先を見つめ、それからああ、と大袈裟に驚いた。
「よく気がつきましたね、なんかやっちゃうんですよ、ヨドノさんもそういうのありません?」
「ないな、そういうの」
乗ってこない僕を見てミヤマはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「話しかけたのはヨドノさんじゃないですか」
「悪かったよ。ただ気になっただけなんだ」
「ヨドノさんって、本当に適当ですよね」
「僕が?」
顔を上げようとした瞬間に彼女がアクセルを踏んだ。突然の急加速に僕はたまらず座席に身体を打ちつけた。
「自分のこと、あまり適当に扱わない方がいいですよ。自分を大切に扱えない人って、自分以外の人も大切にできませんから」
彼女の言葉に僕は何も返せなかった。
確かにそうかもしれないと思い、僕はヘッドレストに頭を預けたまま窓の外の景色に眼を向ける。
ふと、なんの変哲もない街並みの中で、一人の男性に目が向いた。中肉中背で、切り揃えただけの黒髪はセットされておらず、後頭部には寝癖が少し見える。新人だろうか、袖を通したばかりのスーツが身体に馴染まず、なんだかロボットを見ているようなぎこちない動きをしていた。
そんな彼の前をこなれた様子の男性がキビキビと歩いていく。恐らくは先輩だろう、彼は振り返ると錆びついた関節を無理やり動かすロボットみたいな新人に声をかけ、手招きをする。その催促に慌てて彼は関節の曲がらない足を動かして早足に彼に追いつき、隣に並んで歩く。
ロボット男の背中を軽く叩いたこなれた男性の仕草を見て、それを少し羨ましく思った。
ただ、目を向けた先に彼がいただけだ。緊張に満たされて錆びついた関節になっても、緊張で表情の薄くなった顔を浮かべても、必死に食らいつこうと歩く。あれは自分をまだ諦めていない人だ。僕みたいな手放しかけた人間とは違う。
「よし、決めた」
隣からミヤマの大きな声が聞こえた。僕が振り向くと、彼女はものすごい勢いで電子タバコの煙を吸い込み、窓を開けて外に向かって吐き出す。車内に残った甘い香りが僕の鼻先を通っていった。
「ヨドノさん、私の今月の目標って知ってます?」
「知らないよ」
「達成してるんですよ、とっくに」
「それは、おめでとう」
今月まだ折り返しで達成とは。つくづく優秀な人材だ。トニムラが好き勝手させるのもよく分かる。
「ありがとうございます!」
瞳を燦然と輝かせながら彼女は大きな声でそう叫ぶと、次の道で突然右折レーンに入った。おい、と声をかけても彼女は無視を決め込み、ナビに表示されたルートを無視して走り始める。
「今日の先にはトラブルで行けなくなったって言いましょう。そんな急いでないって話も聞いてるし、何より私、仲良いんで」
「仲がいいからってドタキャンはないだろう」
「まあ、切られたらその時はその時です。私が怒られたら済む話ですから」
ミヤマは一体何がしたいのか、僕には皆目見当もつかない。
ただ、何かを思いついたのだろう。こういう時の彼女は一番融通が効かなくなる。理詰めで責め立てるトニムラですらこうなった彼女を見た時は早々に撤退することを選ぶくらいだ。
「行ってみましょうよ、元カノさんのとこ。職場くらいは知ってるんでしょう?」
彼女はこうなると頑として譲らない。相手は従うか、逃げるしかない。
例えそれが正常な道を逸脱した行動だったとしても。
最悪なことに、今、僕は助手席に座っている。
逃げ道を塞がれた僕に、彼女のその無茶な言葉を断る術は無かった。
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