レモンサワーの雨が降る
有海ゆう
1.ミシマとヨドノ
今週、梅雨が明けるらしい。
付けっぱなしのニュース番組がそう僕に教えてくれた。
僕はベッドに座り込んだまま、窓越しにしんしんと降り続ける雨と、その街並みに目を向ける。変わらない灰色の曇り空、モノトーンで揃えられた住宅、入り組んだ片側一車線の細い車道。時折通り過ぎるチャイルドシート付きの自転車。
僕が借りるワンルームの賃貸マンションの向かいに分譲住宅が建ち並ぶと聞いた時、少しはこの街の空気も変わるものだと思っていた。街の外の空気を持った住人が、それも大勢、一斉にここに移動してくるというのだから。それこそ環境の変化も生じるだろう、と。
だが、住人が入ってみれば何ら変わらない、いつもの鈍色で沈んだ街だった。白と黒の屋根で綺麗に整えられた住宅が建築されていくのを見た時に、僕は半ば諦めのような気持ちで目の前の分譲地が住宅スペースへと生まれ変わっていく様を眺めていた。
「なあに、また外見てるの?」
僕が振り向くと、ミシマは丁度シャワーから帰ってきて、冷蔵庫から買い置きのレモンサワーを出しているところだった。下着の上にキャミソールだけ着た無遠慮な格好で冷蔵庫を漁っている。まるで野生の動物みたいだ。
彼女をじっと見つめていると、視線に気がついたのか、レモンサワーの缶を二つ抱えて戻ってきた。
「はい、あげる」
「買ったのは俺なんだけど」
「この部屋を借りたのは私だよ」
僕の言葉に構うことなく彼女は隣に座って缶を開けた。風呂上がりの湿気を帯びた彼女の肩が僕のシャツにしっとりと触れる。タオルで拭い切れなかった髪が項に張り付いている。
「ああ、最高。やっぱりお風呂上がりはさっぱりしたお酒ね」
「風呂上がりって言っても昼間だけどな」
「まあね、やることやってなければ今お風呂なんて入ってないんだけどね」
「恥じらい」
「シュウくんの前で今更恥じらい見せたって仕方ないでしょう、やることやったんだから」
ため息をつく僕を見て彼女は楽しそうにからからと笑う。これ以上言ってもからかわれて終わるだけだ。僕は諦めてレモンサワーを口にする。
「ねえ、グレートマイグレーションって言うらしいよ」
「何が?」
ミシマの言葉に問いで返す。彼女は視線で窓の外を差し示した後、僕の肩に頭を置いた。湿った髪の感触と、温かいシャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
「サバンナだと、季節に合わせて動物が環境を変えるんだって。で、その時の動物たちの大移動のことを、グレートマイグレーションって言うの。知ってた?」
「初めて聞いたよ、でもなんでそんなことを」
「シュウくん、あの住宅地が出来ることで何かが大きく変わるんじゃないかって、ずっと期待していたみたいだから。その慰めみたいなものだよ」
僕が顔を上げると、丁度彼女はレモンサワーを飲み終えるところだった。
「引越しってさ、その環境のどこかに不満や住みにくさを感じたり、生活を安定させるためにするものなの。大抵はその場所からより良いところへ、住み心地の良い環境に移り住むためのものであって、その人たちが求めているのは、その環境に順応して幸せになることだから、そう簡単に環境の変化なんてものは起こり得ないんだよ」
ミシマは一呼吸入れるようにレモンサワーを口にする。
「ようするに、やってくる人々はその変化を求めていないの」
「そうなのかな」
「サバンナの生物だって同様ね、自分たちが生きられる環境を探して群をなして動き続けている。シュウくんが求めているような開拓や変化ではなくて、順応。彼らもまた、生きるために生きることのできる環境を求めている」
ミシマは飲み終えた缶を近くのローテーブルに置き、僕からもサワーを取り上げた。
それから僕の股の間に膝を入れると、グッと力を入れて僕を押し倒した。濡れて束になった毛先から数滴、水滴が落ちてくる。
彼女は湿った髪をかき上げ、それから僕にキスをした。爽やかなレモンの味がして、少し遅れてからアルコールの香りが僕の口内を満たす。彼女の舌先が僕の舌をつつき、何度か絡まった後、満足そうに彼女は離れていった。
後に残ったのは、むせ返るようなアルコールの匂いと、レモンの味だった。
「シュウくん、君が本当に何かを変えたいんだったら、君が変わるしかないんだよ」
「僕が」
「そう、君が変わって、新しい環境を見つけるしかないの。グレートマイグレーションみたいに、生きるために、自分が生きられるような環境に移り住んでいく。ここに留まったとしても、なれるのは未練とか後悔に満ちて、でもそれに満足感を覚えるようなただの人間だよ」
着たばかりのキャミソールを脱いで、彼女は僕に覆い被さるようにして抱きつく。布越しにも彼女の体温が強く感じられる。そして彼女が求めていることも、その体温から感じ取れた。
「シャワー浴びたばかりだよ」
「お酒飲んだのが悪かったね」
そう言って彼女は舌を出して笑うと、やがてその舌を僕に近づけてくる。からかうような目が細くなって、水気を帯びたように瞳が艶やかに光を震わせている。あっという間に表情を変えた彼女が、僕に密接な関係を求めて寄り添ってくる。
僕はその瞳と、彼女が表情を変えるたびに生まれる甘い香りにすっかり痺れて、彼女を拒むこともなく、ただ身を任せるように彼女のキスを受け入れた。
−−グレートマイグレーション。
ミシマから聞いた言葉を胸の内で反芻する。
多くの生物たちが移動するということは、同時にそれを待ち構える生物もいるということだ。言ってみれば貴重な食料たちが自らやってきてくれるわけなのだから。
僕もまた、彼女からするとその群れの一人でしかないのだろうか。
捕食できる獲物を待ち侘びた彼女に、もしかすると僕は捕まっただけなのではないだろうか。
そんなことを考えているうちに、またあの香りが鼻腔にふわりと漂ってきた。
さっき飲んだレモンサワーの、爽やかさと、ツンとするアルコールの香りが。
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