2 来訪者とワイン


 ミシマはその日、鼻歌混じりでキッチンに立っていた。


 今日の来客を心待ちにしていたから一層準備にも気持ちが入っているのだろう。

 1日がかりで行われた掃除と洗濯により、部屋の受け入れ態勢も万全だ。


「今日は一段とご機嫌だね」

「だって、リョウくんが来るんだもの」

「そっか」

「シュウくんにも振る舞うから、楽しみにしていてね」

「何を」

「ご馳走だよ」


 そう言って彼女は鼻歌混じりにプロセスチーズをハムで巻き、爪楊枝で止めた代物を次々と広げたアルミホイルに並べていく。果たしてこれをご馳走と呼ぶのが正しいかは分からないが、客人の大好物だから、彼女にとっては何よりも優先すべきメニューだろう。


「ヤサカくん、いつ来るかな」

「仕事終わりだって言ってたから、夕方くらいじゃないかな」

「楽しみだね」


 ミシマはレモンサワーを飲みながら、機嫌良さそうにハムを巻いていく。


 彼女が訪問を楽しみにしているヤサカリョウヘイは、僕とミシマの大学からの友人だ。そして、僕と彼女の仲を取り持った存在でもある。


 彼は、僕たちが共同生活を始めてからも時々様子を見にきてくれている。まあ様子を見たい気持ちが半分、酒盛りをしたい気持ちが半分といったところだろうか。問題はその酒盛りの量と時間なのだが。

 これまで何度も日が昇るまで彼と飲んでいるが、彼は楽しげに僕たちと何げない会話をして、そして満足そうに帰っていく。僕たちが元気そうにしていればそれでいいのだろう。心配してくれているのだと思うと、次の日の辛い二日酔いも我慢ができた。


「ねえ、シュウくん、下拵えは済んだから、あとはお願いできる?」


 アルミホイルにハムとチーズの巻物を並べ終えた彼女はそう言って、冷蔵庫から次のレモンサワーを手に取った。


「いいよ、やっておく」

「ありがとう」


 僕は部屋の片隅に置かれた電子タバコを拾い上げ、彼女に渡す。ミシマはそれを受け取ると僕に感謝のキスをして、陽気な足取りと共に玄関へ向かう。お気に入りの小さなラグと一緒に。


 ミシマは、彼が来る日は必ず玄関前に座って待つ。

 ヤサカは私の恩人だから、目一杯もてなさないといけないのだそうだ。


 僕は彼女の準備を見届けた後、部屋の隅に立てかけられた小さなローテーブルを組み立て、ラップトップを開く。ほとんど同じタイミングでプルタブの開く音と炭酸の弾ける音が

聞こえた。


 メールを確認し、抱えた案件たちの中にヤサカのメールを見つけた。

 彼はスマホを持っているのに、SNSの類を全く使わない。今でも連絡は電話か、メールだった。僕は受信した彼からのメールを、書かれたまま彼女に伝える。


「予定より一時間遅くなるって」

「オッケー」


 彼女は返事をすると、レモンサワーを飲み切り、冷蔵庫から再び数本取り出して自分の傍に置く。予定が狂うと、その分レモンサワーが増える。恐らくヤサカが来る頃にはもう出来上がっていることだろう。


 僕は再びメール確認と作業に取り掛かる。バナー、チラシ、パンフレットの修正、新規案件。幸いどれも至急の案件はなく、明日に回しても問題なさそうだった。僕はその中からすぐに対応できそうな案件を選び、ヤサカが来るまでの業務に充てることにする。


 僕の勤めるデザイン会社での業務は、このラップトップでほぼ全て回っている。

 形式上オフィスはあるがほとんど使われておらず、カンプをチェックするとか、実際に目で見て確認が必要な事を除いてほとんど在宅だ。ミーティングもwebを通じて情報共有だけで、実際に会ったことのある社員の方が少ない。


 別段人付き合いが苦手というわけでもないが、それでも自分の生活圏内で全てが完結するのは正直楽だった。給料も大して良いわけではなく、仕事上深夜までかかる案件が転がり込むことも多々あるが、それでも現時点では好都合なことのほうが多い。ミシマと生活時間を合わせやすいのも、好都合だった。


 アプリを開いて細かな調整作業を進める。その間にも彼女は早いペースレモンサワーを飲み干していく。時折聞こえる耳障りの良いプルタブの開く音と、しとしとと降り始めた雨の音がいい具合に混ざり合って、僕はその音をBGM代わりに目の前の仕事に没頭する。


 雨の音


 缶を開ける音


 飲んだ後のミシマの吐息


 キーボードの打鍵音


 その繰り返し。


 ヤサカが来る日はいつもより仕事が捗る。彼が来るまでの間、ミシマがヤサカへの気持ちで一杯になっているからだ。

 小さな修正案件をこなし、クラウドにアップしてメールを返信していく。そのうち新規のメールがいくつか来たが、今日はトラブルもなく、平穏な一日のようだった。



     ○



 かなり仕事に集中してしまっていたようだ。


 凝り固まった身体をほぐす為、大きくストレッチをして、それから玄関の方に目を向ける。ミシマが無造作に転がっているのが見えた。傍には十本近い缶が転がっていて、酔い潰れて眠ってしまったようだった。

 時間を見ると、予定時刻からもう二時間近くは過ぎていた。


 窓の外の雨は、依然として降り続いている。

 強まることも弱まることもなく一定の強さを維持したまま、薄暗い街をより一層暗く濡らしていた。僕はメールチェックし、今日片付けておきたいタスクがないことを確認してラップトップを閉じた。


 ミシマの周囲に転がる缶を片付け、彼女を抱えてベッドまで運ぶ。

 あれだけ飲んだというのに、ミシマの顔は相変わらず白いままで、酔い潰れているようには全く見えない。

 彼女の眠るベッドの傍らに腰掛け、頬に触れてみる。顔には出ていないが、それでも肌には確かな熱があった。

 僕は口元にかかる髪を払い、眠るミシマをそのままにキッチンで調理を始める。ヤサカはまだ来る気配はない。よくあることだ。


 下拵えの済んだ彼女のご馳走たちを、ひとつひとつ丁寧に調理していく。



 大方の料理が片付いたタイミングで僕の携帯に着信が入った。

 メールを見るとヤサカから「今鳴らす」とメールが入っていた。そして、メールを確認したのとほぼ同時にチャイムが鳴った。ミシマは、酔いの回った寝息を小さく繰り返しながら変わらず心地良さそうに眠っている。この調子だと、今日は起きないだろう。


「リョウヘイ?」

「よう、お土産」


 扉を開けると、赤ワインのボトルが投んできた。慌ててボトルをキャッチする僕の横をヤサカは通り抜け、靴を脱いで部屋へと入っていく。


「リョウヘイ、遅いよ」

「悪かったよ、帰り際にトラブルが飛び込んできて、色んなとこに謝って回ってきたところなんだ。あ、そのワインは詫びね。一個余ったから持ってきたんだ」

「ボトルなんて、どうするんだよ」

「どうせ今日空くだろ、俺とお前で飲みきれる量だ」


 あっけらかんとした声でそう言う彼を見て、僕はため息をつく。見ると他にも大量の酒が入った袋を彼は手に提げている。二日酔いはほぼ確定だ。


 櫛の入った髪と糊のきいたシャツ、そしてブランドロゴの入ったネクタイを身につけている。普段あまり見ない姿だ。その姿を見て、随分厄介なトラブル対応だったことがすぐに理解できた。

 僕はヤサカのジャケットを受け取り、クローゼットのハンガーにかける。部屋着はいるか、と聞くと欲しいとすぐに返ってきたので、ルームウェアもついでに渡した。


 ヤサカは荷物を置くとベッドに腰掛け、深い眠りにつくミシマを眺めていた。無造作に投げ置かれた彼女の手のひらを時々突くが、起きる気配はなく、彼は一度だけ肩をすくめて笑った。


「今日は多分起きない。十缶近く飲んでいたから」

「そうか、悪いことしたな」

「仕方ないよ、仕事だったんだろ。」


 ローテーブルにクロスを敷いて、料理とワインを並べていく。その間も彼はずっとミシマの寝姿を眺め続けていた。


「ミシマは元気?」

「多分」

「多分ってなんだよ」


 ヤサカはそう言って笑う。半分冗談で、半分本当だった。


「なあ、リョウヘイ」


 スラックスパンツからルームウェアに着替えてたヤサカが僕の呼びかけに顔を上げる。僕はローテーブルの向かいに座りながら続けた。


「ミシマのこと、本当に無理なの?」

「突然どうしたんだよ」

「こうして一緒に生活していて時々思うんだ。やっぱりミシマには、リョウヘイのほうがいいんじゃないかって」

「それは、無理だな」


 彼もグラスに注いだワインを僕に差し出す。


「アイツとうまくやっていけるのは、シュウだよ」

「それは、僕と彼女が似たもの同士だから」

「それでいいんだよ、そう思って俺は、お前とミシマを会わせたんだから。それに俺は、あいつのことを満たしてやれないから」


 そう言ってヤサカは僕を見て微笑む。眠るミシマの頭を撫でながら。


「さあ、食べよう。お前が作ったなら美味いに決まってる」

「作ったのはミシマだよ。ご馳走だってさ」


 僕がそう言うと、ヤサカは料理を見て困ったように笑う。肉料理をはじめとした味の濃い料理たちを見て、彼は呆れたように言った。


「レモンサワーしか飲まないのに、随分と俺の趣味にピッタリのものばかりだ」

「分かってるだろ、ミシマはワインに合う料理しか作らない」


 ヤサカはまた困った顔で笑った。

 彼が食べる姿を見て、僕も彼女の作った肉料理を口にし、それからワインを飲んだ。

 塩味と香ばしい肉の香りに、赤ワインの渋みがよく合う。

 彼女の想いがじわりと、染み渡るような味だった。

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